番外編:剣聖の過去、白龍との契約
森の中を抜けながら、俺は一度だけ、背後の巨大な城壁を振り返った。
そこには、俺のこれまでの人生のすべてがあった。
第二皇子としての地位、何不自由ない暮らし、そして自分を愛し、時に厳しく導いてくれた父上、兄上達の温もり。
(これでいい……。俺はもう、ルークじゃない)
暗い夜の風が俺の頬を叩き、自由の香りが鼻腔をくすぐった。
警備の隙を突き、誰にも見られず、完璧に脱出できた。
そう確信した、その時だった。
『――ふふ。実に面白い子。ただひとりの女のために、龍帝国での輝かしい地位も、血筋も、未来さえも捨てるか』
突如、頭上から降り注いだその声に、俺の全身は凍りついた。
人間の発する声ではない。
それは、大気が震えているかのような響きでありながら、氷の刃のように冷徹で、透き通った音だった。
「……誰だっ!」
心臓が早鐘を打ち、俺は反射的に腰の剣に手をかけ、振り返った。
そこにいたのは、純白。
月夜の蒼い闇の中で、真珠を散らしたかのように淡く輝くそれは、圧倒的なまでの威容を誇る「龍」だった。
だが、俺が知るどの守護龍とも違う。
その龍は、ただそこに存在するだけで、周囲の「色彩」を奪っていくような、無機質で神聖さをまとっていた。
『怯えることはありません。龍帝国始祖の血を引く、愛し子よ』
龍の巨大な瞳が、俺を見据える。
その目は漆黒の闇を帯びながら、同時に何もかもを見通す鋭い透明さを持っていた。
『このまま龍帝国を抜け出したところで、何ができます? 汝の血は、帝国の追手を惹きつける標。いかに巧みに身を隠そうと、龍の眼からは逃れられないでしょう。……汝は、あの少女の元へ辿り着く前に、城へ連れ戻されることになります』
「…………っ」
その言葉は、俺が心の奥底で最も恐れていた事実を突きつけた。
俺はまだ子供だ。
皇子という身分を捨てたところで、その血が流れている限り、俺は帝国の所有物であり続ける。
『考えが及んでいませんでしたか。……ならば、私から一つ、良い提案をしましょう』
白き龍は、ゆっくりと鎌首をもたげ、俺の目の前まで顔を寄せた。
冷たい霧のような吐息が、俺の肌を撫でる。
『汝という存在を、この世界から、そして他者の目から完全に「消せる」と言ったらどうしますか? 私の権能を使えば、汝は誰からも認識されぬ影となり、想い人の元へ辿り着くことができるでしょう』
「そんな方法……本当に、あるのか?」
『私の力であれば、容易いこと。……ただし、条件があります』
見下ろしてくる双眸に色はなく、ただ俺を映している。
品定めをするようでいて、感情がない、無機質な視線。
『私と、契約を結びなさい。汝の命を我が糧とし、我が力を汝の魂の楔とする。さすれば、この権能……汝の望むままに貸し与えましょう』
「契約……」
俺は、その龍の瞳を見つめ返した。
この龍が、何を企んでいるのかは分からない。
だが、今の俺には選べる道などなかった。
彼女の隣に立つためには、俺はこの場所で、ただの子供として捕まるわけにはいかない。
「……わかった。契約する。俺の命でも何でも、好きにしろ。その代わり、俺を彼女のところへ行かせてくれ」
『契約成立です。愛し子……我が新しき主よ』
龍が小さく、満足げに喉を鳴らし、頭を垂れた。
そして、その純白の鼻先が、俺の左肩にそっと触れる。
「――っ!!」
次の瞬間、経験したことのないような、焼け付くような激痛が俺を襲った。
血管の中に熱した鉄を流し込まれたかのような衝撃。
細胞の一つひとつが、強引に書き換えられていくような、魂を削り取られる苦痛。
俺は悲鳴を上げる余裕さえなく、膝を突き、地面を掻きむしった。
「あ……が、はっ……っく……!」
視界が明滅し、意識が遠のいていく。
肩の皮膚に、複雑な模様の「契約印」が刻まれていくのが分かった。
『耐えなさい。この痛みこそが、自由を手に入れた証。……これより歩む道には、闇の手さえも届きません。ただ、白き虚無だけが汝を護るでしょう』
痛みが引いたとき、俺の全身は冷や汗に濡れていた。
顔を上げると、白龍はすでに実体を失い、俺の背後の空間に溶け込むようにして、巨大な影となって漂っていた。
『私の名は白龍。消滅と虚無を司る龍です。汝がこの世に命を繋ぐ限り、私もまた汝の光として、ともにありましょう』
肩の痛みが、鈍い熱となって脈打っている。
俺はふらつく足で立ち上がり、再び歩き出した。
(……待っててくれ、エルレイン)
俺は、もはや戻ることのできない神龍城に背を向け、闇の中へと駆け出した。
後に残されたのは、月明かりだけ。
そこにあったはずの足音も、影も、もはやどこにもない。
――これが、俺と、この浮世離れした龍との、最悪の腐れ縁の始まりだった。
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