29話 元通りの兄弟、兄の説教を背に祭りの中へ
皇帝の私設書斎から一歩外へ出た瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
長い廊下を、三人の足音が微かに響きながら進んでいく。
窓の外には、太陽が帝都を明るく照らしていた。
不意に、前を歩いていたオーウェン殿下が足を止めた。
彼は振り返ると、目を細めながら、ジークと私を見つめる。
「……ルーク。それから、エルレイン公爵令嬢。改めて二人に謝罪させてくれ。私の独りよがりな覚悟のせいで、二人を危険にさらしてしまった。本当に、すまなかった……」
オーウェン殿下は、帝国第一皇子としての威厳を脱ぎ捨て、一人の兄として深く頭を下げた。
その背中は、背負ってきた責任の重さゆえか、どこか痛々しくも見える。
「やめてよ、兄上。……謝罪なんて、もうお腹いっぱいだって」
ジークは困ったように笑い、オーウェン殿下の肩を軽く叩いた。
「俺たちがここに来たのは、誰かに強制されたからじゃない。俺が……俺達が、自分の意志で、兄上を助けたいと思ったからここにいるんだ。だから、これ以上自分を責めるのは禁止。わかったか?」
「だが……」
「いいから。んじゃ、その代わりと言っては何だけどさ」
ジークは悪戯っぽく口角を上げると、隣にいた私の肩を引き寄せた。
「兄上がどうしても申し訳ないって思うなら……俺達、今から建国祭に行ってきてもいい?」
「…………は?」
オーウェン殿下は呆気に取られたように瞬きを繰り返した。
今しがた皇帝との謁見を終え、処遇が決まったばかりだというのに。
この弟は、何を言い出すのかと、オーウェン殿下は呆気にとられていた。
「お前……。城の中はまだ混乱の最中だ。この状況で、外の祭りに遊びに行くだと?」
「皇族が祭りに紛れるなんて、あってはならないことだって分かってるよ。でも、俺は十年もこの国を離れてたんだ。エルのことも、ちゃんとお祭りでもてなしてやりたい。……だめかな、兄上?」
ジークが、計算高い弟の顔でオーウェン殿下を覗き込む。
オーウェン殿下はこめかみを押さえ、重くため息を吐いた。
「お前というやつは……。十年経っても、本質的には何も変わっていないな」
「兄上が甘やかしてくれるって、信じてるからね」
「……分かった。今回だけは、私が手を回しておこう。近衛の目も、役人たちの詮索も、私がすべて黙らせる……」
「やった。聞いたか、エル。早速遊びに行こう!」
ジークは子供のように顔を崩し、私の顔を覗き込んだ。
「え、ええ……。でもジーク、建国祭って……まだやっていたの? あんなに大変なことになったのに」
「ああ、建国祭は明日までやってるんだ。城で騒動は起きたけど、市井には関係ないし。それに、今夜が一番の盛り上がりになるはずだ。だから、まだ十分に楽しめる」
「明日まで……。龍帝国の力強さには、本当に驚かされるわ」
「はは、だろ? さあ、そうと決まれば準備しないとな」
浮き足立つジークを制するように、オーウェン殿下が再び厳しい口調で声を張り上げた。
「待て、ルーク! 話はまだ終わっていない。……お前の今後の具体的な役割については、後ほど私が父上と改めて相談して決める。正式な発表があるまでは、常識の範囲内で自由にしていい。だが、いいか……」
オーウェン殿下はジークの胸元を指差し、言い含めるように続ける。
「祭りで絶対に騒ぎを起こすな! 目立つような行為は厳禁だ! それから、必ず日没前には戻ってこい! 夜は治安が……」
「はいはい、分かってるって。それじゃエル、行こうか」
「あ、ちょっと、ジーク……! 殿下がまだお話し中よ!」
「いいんだよ、兄上の小言を全部聞いてたら日が暮れちゃうからな。ほら、早く行かないと屋台が混むぞ!」
ジークは私の手を引き、まだ何か言おうとしていたオーウェン殿下に背を向けて、軽やかな足取りで走り出した。
「こら、ルーク! 最後まで聞け! いいか、エルレイン嬢をエスコートするなら、それ相応の……!」
背後からオーウェン殿下の怒鳴り声に近い小言が追いかけてくる。
ジークはそれを肩越しに聞き流しながら、柔らかく笑った。
「……はは。やっぱり兄上は、あのくらいうるさい方がちょうどいいな」
「もう……。オーウェン殿下が本当に心配してくださっているのに」
呆れたように言う私だったが、自然に笑みが浮かんでいた。
白龍の虚無へ呑み込まれそうになった絶望の時間は、もう過去のものだ。
私達の前には、穏やかな風に乗って、遠くから微かに祭囃子の音が聞こえてくる。
ジークは私の手を握り直し、楽しげな声に包まれた帝都の街へと、駆け出していった。





