26話 緑龍の聖風、事後処理へ立ち向かう
森の奥深く、雨上がりのような、瑞々しい香りが鼻腔をくすぐった。
重いまぶたをゆっくりと持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、柔らかな朝の光に満ちた離宮の寝室だった。
「……ん……っ」
身体を起こそうとすると、全身の節々にまだ微かな倦怠感が残っている。
けれど、不思議なほど心は穏やかで、体内の魔力回路は澱みなく透き通っているように感じられた。
ふと、枕元に気配を感じて視線を巡らせる。
そこには、一人の少女がいた。
「…………!」
ふわりとした白い肌に、若葉を思わせる柔らかな淡い緑の髪。
大きな瞳は、エメラルドのように輝いている。
まるで絵本から抜け出してきた森の妖精のような、息を呑むほど愛らしく、幼い少女。
私が驚きに目を丸くすると、少女もまた、その大きな瞳をさらに見開いた。
「…………っ!」
「あ……」
私が声を出すよりも早く、少女の小さな身体が弾かれたように動いた。
バサッ、という突風が寝室の中に巻き起こる。
それは暴風ではなく、春の旋風のような、どこか甘く爽やかな風。
少女はその風を身にまとい、一度も後ろを振り返ることなく、開いたままの扉の向こうへと、小鳥のような速さで走り去ってしまった。
「……え、待って……?」
呆然と取り残された私の前に、入れ替わるようにして一人の男が姿を現した。
「エル、目醒めたか。……顔色は良さそうだな」
水を乗せたトレイを片手に、苦笑いを浮かべながら入ってきたのは、ジークだった。
いつものアッシュブルーの髪に、騎士の服に着替えている。
その表情には、私が意識を取り戻したことへの、隠しきれない安堵が滲んでいる。
「ジ、ジーク! 今……今、すごいかわいい女の子がいたわ! ほわほわで小さくて、妖精さんみたいで……あの子、誰なの!? どこへ行ったの!?」
身を乗り出して詰め寄る私に、ジークはトレイを庇いながら、肩をすくめて応えた。
「起きてすぐに気にするところがそれかよ。……あいつは、……一応、俺の妹……と、聞いている。俺も、昨日初めて顔を合わせたばかりで、正直まだ実感が湧かないんだけどな」
「ジークの、妹君……? あんなにかわいい子が……?」
「なんだ、その『こんな兄にあんなに可愛い妹が』みたいな反応は。……あいつは、第二皇女のフィリア。聖風を司る『緑龍』の契約者だ。緑龍の加護には高い浄化と治癒の力があって……エルの治療をしてくれたのはあいつだ」
私は、自分の胸元に手を当てた。
確かに、体内を巡る魔力は、かつてないほど清らかに澄み渡っている。
「ジークの妹君……か、かわいかったー! あんなに可憐な子がいるなんて……! 逃げられちゃったけど、また会えないかしら、仲良くなりたいわ……!」
「……あのー、エルレインさん? 愛する男が目の前にいるのに、いきなり現れた初対面の子に夢中になるのはどうなんだ。ちょっとは俺のことも気にかけてくれない?」
ジークがわざとらしく溜息をつき、ベッドの脇にトレイを置いた。
私はハッとして、頬を赤らめながらジークを見上げた。
「あ……ごめんなさい。……ジーク。ジークは体、大丈夫なの? 白龍の力をあんなに使って、どこか痛むところはない?」
「ああ、この通りだ。妹の風が俺にもお裾分けされたみたいで、ピンピンしてるよ。エルの方こそ、どこか違和感はないか? 無理に起きたらダメだぞ」
ジークが私の額にそっと手を当てる。
その手のひらの熱が、私を包んでいた非日常の緊張を完全に解きほぐした。
「ええ、大丈夫よ。……私、どのくらい寝ていたの?」
「一晩くらいだ。あと三日目覚めないと思ってたんだが、君の回復力が予想以上だった」
「一晩……。皇族の方々は、大丈夫だったのかしら……」
私の問いに、ジークは少しだけ眉を下げ、窓の外に広がる帝都の景色に目を向けた。
「兄上は、各所への説明で昨夜から一睡もしてないはずだ。イグニスも、ああ見えて軍部のトップだしな。龍騎士団の再編や警備の立て直しで、あちこちから引っ張りだこになってる」
「なんだか……私だけこうしてゆっくり寝ていたのが、申し訳ないわ。何か手伝えることがあれば……」
「気にするなよ。エルは被害者なんだし、何より白龍を止めた功労者だ。今は休むのが仕事だよ。俺もようやく二人きりでゆっくりできる……と言いたいところなんだけどな」
ジークが、少しだけ声を潜めて言った。
その黄金の瞳に、わずかな緊張が走るのを私は見逃さなかった。
「……何か、あるのね?」
「ああ。……このあと、父上に会いに行かなきゃいけない」
私の背筋に、ぴりりとした緊張が走る。
父上。
つまり、この巨大な龍帝国の頂点に立つ、皇帝アルドリック陛下のことだ。
「……それはそうでしょうね。あれだけの騒動を起こしてしまったんですもの。……ご報告に行かないわけにはいかないわ」
「わかってはいるんだけどな。……正直、めちゃくちゃ気が重い。せっかくエルとこうして、平和な朝を過ごせたっていうのに。俺は、このまま君を連れて、また国外に逃げたくなってくるよ」
「ジークってば。最後までちゃんと、二人で向き合いましょう?」
私がジークの手を握りしめると、ジークは降参したように苦笑し、私の手の甲に軽くキスを落とした。
「……ああ、わかってるよ。最高の相棒がそう言うなら、腹を括るしかないか」
窓の外では、祝祭を喜ぶ帝都の風が、穏やかに吹き抜けていた。
龍帝国の長い歴史が、再び動き出そうとしている。
その先にあるのが皇帝陛下との対峙であっても、隣に彼がいる限り、私はもう何も恐れることはなかった。
「……よし、行くか。……妹よりも、俺のことをしっかり見ててくれよ、エル」
「ふふ、考えておくわ」
二人は顔を見合わせ、晴れやかな朝の光の中、扉の向こうへと一歩を踏み出した。





