13話 第三皇子、イグニスの来訪
「……ルーク兄さん!」
私が振り返ると、そこには一人の幼さが残る青年が立っていた。
燃えるような赤髪、屈託のない太陽のような笑顔を浮かべている。
その背後には、炎が陽炎のように立ち上っているようにも見えた。
「……イグニス、か。一応、俺の帰還は内緒だから、城の中ではジークって呼んでほしいんだけどな」
ジークが、やれやれと肩をすくめて私を庇うように前に出る。
イグニスと呼ばれた青年は、ジークの言葉など耳に入っていない様子で、猛烈な勢いで距離を詰めてきた。
「今、周りに誰もいないからいいだろ。……ルーク兄さん、会いたかった! どこに行ってたんだよ!? 親父もオーウェン兄さんも、ちっとも詳しく教えてくれないし……」
「おい、待て、イグニス。近すぎる――お前、全然『赤龍』の力制御できてないな。あっついんだけど」
ジークの制止を無視し、イグニス殿下はまるで巨大な子犬が主人のもとへ駆け寄るような勢いで、ジークに飛びついた。
兄を抱きかかえるようにし、そのまま背中をガシガシと乱暴に叩く。
「十年間何してたの? どこか別の国にいたの?」
「まあ隣の小国に。普通に騎士として働いてたんだ」
「嘘!? ねえ、どんなことしてたの? ルーク兄さんのことだから、きっと大活躍してたんだろうなあ」
イグニス殿下はキラキラとした、純粋な憧れが詰まった瞳でジークを見つめている。
「……それで、そっちの綺麗な人は誰? お嫁さん?」
ようやくジークを解放したイグニス殿下が、首を傾げて私を覗き込んできた。
「アストルシア王国のエルレイン・ベルシュタインと申します。イグニス殿下、お初にお目にかかります」
私が公爵令嬢としての礼を取ると、イグニスは感心したように声を漏らした。
「……ねえ、兄さん。お姉さんって、強いの? 俺と一戦やってくれるかな?」
「やるわけないだろ。エルは俺の婚約者だ。お前の遊び相手じゃない」
「そっかぁ。……だったら、兄さんが相手してくれよ!」
イグニス殿下の空気が、一瞬で変わった。
笑顔のまま、だがその瞳の奥にある『赤』が目覚める。
「俺、兄さんがいなくなってから、ずっと退屈だったんだ! オーウェン兄さんも、親父も相手にしてくれないし。……兄さんなら、俺が本気で殴っても壊れないだろ?」
「おい、イグニス、よせ――」
「挨拶だよ、兄さん!!」
――ドォォン!!
イグニス殿下が笑いながら放った右拳は、文字通り爆発を伴っていた。
周囲の空気が一気に膨張し、紅蓮の炎が渦を巻いてジークを襲う。
私が咄嗟に障壁魔法を構築しようとしたが、それよりも早くジークのため息が空気を割った。
「――まったく、お前は昔からこれだ」
ジークが、鞘に入ったままの剣で、イグニス殿下の燃え盛る拳を真っ向から受け止めた。
爆風でジークのアッシュブルーの髪が激しくなびく。
だが、彼は一歩も退かず、さらに私に火の粉ひとつ飛ばさないよう、炎の進路を完全にねじ曲げていた。
「はは! さすが兄さんだ!」
「お前の挨拶は相変わらず激しいんだよ。……これ以上暴れるなら、兄として少し、本格的な再教育をしてやろうか?」
ジークの黄金色の瞳が、スッと細められた。
ただそこに立っているだけでイグニス殿下の熱量を上回るような、絶対的な強者の威圧感。
イグニス殿下はそれを見て、震え上がるどころか、狂喜の声を上げた。
「最高だよ、兄さん! やっぱり兄さんが戻ってきてくれて良かった。これから毎日、朝から晩まで手合わせできるね!」
「しない。俺はエルを案内するのに忙しいんだ。……行こう、エル」
ジークは冷淡に言い放つと、私の肩を抱いて歩き出した。
だが、イグニス殿下はまるで尻尾を振る大型犬のように、二人について回る。
「俺もついていく! お姉さんの魔力ももっと近くで見たいし!」
「来るな、暑苦しい。それに……いいか、イグニス。もう一度だけ言う。俺をまだ『ルーク』と呼ぶな。……次、その名を呼んだら、本気で兄弟の縁を切るからな」
ジークの黄金の瞳が、剣の切っ先のような鋭さで弟を射抜いた。
一切の冗談を許さないその覇気に、さしものイグニス殿下も一瞬だけ言葉を詰まらせる。
(……龍帝国の皇子って、みんなあんなに……規格外なのかしら。愛も、殺気も、力も、すべてが常識の外側だわ……)
ジークはさらに溜息をつき、空を見上げた。
「それに、こんな『空』が見える場所で騒ぐと……。ほら、言わんこっちゃない」
「お前ら……朝から何をやっている――!」
背後から響いたのは、凛として、かつ凍てつくような威厳に満ちた声だった。
同時に、イグニス殿下の熱気が、瞬時にして凪ぐ。
現れたのは、青龍の契約者である第一皇子、オーウェン殿下だった。
「うええっ、オーウェン兄さん……『視てた』の……!」
オーウェン殿下は、眉間に深い皺を刻んだまま、怒りを押し殺したような足取りでこちらへと歩み寄ってきた。
「ジーク、騒ぎを起こすなと昨日あれほど念を押したばかりだろう! それからイグニス!」
「う……!」
「お前はいつになったら加減を覚える!? その有り余る体力を、身内にぶつけるなと言ったはずだ。石床を見てみろ、熱でボロボロではないか!」
「喧嘩じゃないってば! 兄さんと、ちょっとした再会の挨拶……手合わせをしていただけで……」
「言い訳は無用だ、この馬鹿者共が!」
オーウェン殿下の叱責は、まさに青天の霹靂。
彼はイグニス殿下の首根っこを鷲掴みにすると、そのまま有無を言わさぬ力で引きずり始めた。
「イグニス、お前はこっちに来い。自分の愚かさを理解できるまで説教だ。……エルレイン公爵令嬢、愚弟達が朝から見苦しい真似を。心よりお詫び申し上げる」
「あ、いえ……! お構いなく、オーウェン殿下……」
私は、引きずられていくイグニス殿下が暴れているのを、困惑しながらも見送った。
嵐のような兄弟たちが去り、再び本来の穏やかな朝の静寂が戻ってきた。
だが、ジークの不機嫌そうな顔は変わらない。
「と、とても元気な弟さんね、ジーク」
「……だから、会わせたくなかったんだ。あいつは一度火がつくと、相手が誰だろうが焼け野原にするまで止まらないからな」
ジークは深い溜息をつき、私の額に自身のそれをコツン、と当てた。
「せっかく二人きりで、エルの驚く顔や喜ぶ顔を独り占めしたかったのに……」
「ふふ、でも……素敵だと思ったわ。あんなに全力でぶつかり合える家族がいるなんて」
「エルは、優しすぎるよ。あんな破壊魔ですら褒めるなんて」
ジークは拗ねたような笑みを浮かべると、私の頬を指先でなぞった。
彼の独占欲は、家族が乱入したことでより一層、その密度を増しているようだった。
「次は、もっと静かなところへ行こう。……今度は、誰にも邪魔させないから」
そう言って、ジークは私の唇に、朝露のように甘いキスを落とした。
イグニスが残した焦げ臭い空気さえも、彼の口づけが上書きしていく。
私は、ジークの腕の中で、騒がしくも温かい帝国の生活が、案外悪くないものだと感じ始めていた。
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