名もなき村の洗礼と、辺境大街道の誓い
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奇跡の『卵雑炊』が、歴戦の将軍の心と体を解きほぐした翌朝。
『奈落の森』の奥深く、結界に守られたこの場所には、これまでになく晴れやかで、力強い空気が満ちていた。
「……ふむ。あらためて見渡してみると、やはりここは異常だな」
体調を完全に取り戻し、漆黒の外套を翻しながら広場に立つクレマン辺境伯が、感嘆の声を漏らした。
その隣には、彼を支えるように蒼汰が立ち、理人や乃亜たち仲間も集まっている。
「辺境伯様、お体の具合はもうよろしいのですか?」
蒼汰が、隣に立つ巨漢の武人に敬意を込めて問いかけた。
クレマンは鷹のような鋭い眼光を和らげ、蒼汰を振り返る。
「ああ、蒼汰殿。おかげさまでな。
朝から理人殿に勧められた白湯を飲み、乃亜殿が用意してくれた薄味の粥を平らげた。
胃の痛みなど、どこかへ消え去ってしまったよ」
クレマンはそう言って、自らの分厚い胸板を叩いて笑った。
その横では、朝の鍛錬を終えたばかりのルークが、清々しい表情で汗を拭っている。
「本当に、父上があんなに美味しそうに食事をする姿、久しぶりに見ました。
蒼汰、理人、乃亜ちゃん……みんな、本当にありがとう」
「礼には及ばないよ、ルーク。僕たちは同盟者としての務めを果たしたまでだからね」
理人が眼鏡を指先で押し上げながら、淡々と、しかしどこか満足げに答えた。
クレマンは再び視線を村の全貌へと戻す。魔物の骨を加工して作られた高い防壁、整然と並ぶ石造りの家々、そして青々と苗が育つ広大な水田。
「蒼汰殿。……一つ、ずっと気になっていたことがある。
これほどの規模の街になりつつありながら、お前たちはここをなんと呼んでいるのだ?」
「呼び名、ですか? ……そうですね。元々が廃村でしたし、自分たちの間ではずっと『名もなき廃村』、あるいは単に『村』としか呼んでいませんでした」
蒼汰の答えに、クレマンは深く頷き、真剣な面持ちで彼らを見据えた。
「それはもったいない。ここはもはや、捨てられた廃村などではない。
王国の圧政に苦しむ民を救い、奈落の森という絶望を希望へと変えた、一つの『聖域』だ。
……蒼汰殿、今日この日をもって、この地に相応しい名を授けるべきではないか?」
「名前……」
蒼汰が呟き、仲間たちの顔を見渡した。
理人は考察するように顎に手を当て、乃亜は祈るように胸の前で手を組み、楓菜はワクワクした様子で身を乗り出している。
作業小屋から出てきた刀真と萌音も、その言葉に足を止めた。
「確かに、辺境伯様の仰る通りかもしれません。
いつまでも『廃村』と呼んでいては、ここで新しく生活を始めた人たちも落ち着かないでしょうしね」
蒼汰はそう言うと、仲間たちに向き直った。
「みんなはどう思う?」
「僕は賛成だね、蒼汰。物流の拠点にするにしても、名前がないのは不便すぎる」
「私も賛成だよ、蒼汰くん。みんなが誇りを持てるような、素敵な名前がいいな」
乃亜が優しく微笑み、楓菜が元気よく手を挙げた。
「私もっ! 蒼汰、かっこいい名前にしようよ! あ、でもあんまり難しすぎるのは無しね?」
「刀真、あんたはどう思うの?」
萌音が、隣に立つ刀真を肘でつついた。
刀真は腕を組み、鼻を鳴らしながらも、どこか嬉しそうな顔をしている。
「……フン、呼び名なんてなんでもいいと思ってたが、これだけデカい門を作っちまったからな。
萌音の言う通り、看板くらいはあってもいいかもしれねえ」
「よし、決まりだ。……辺境伯様、何か良い案はありますか?」
蒼汰が尋ねると、クレマンは少しの間沈黙し、足元の土を慈しむように見つめた。
「……私は、この森の入り口で、あのおにぎりと卵雑炊をいただいた。
あの時ほど、食べることの尊さと、生きている喜びを感じたことはない。
お前たちが目指すのは、誰もが腹を空かせず、明日への活力を得られる場所……そうだろう?」
「はい。……はい、その通りです」
蒼汰が力強く答える。
その瞳には、かつて王宮で「腹ペコ」のまま捨てられた時の悔しさと、それを乗り越えてきた自負が混ざり合っていた。
「ならば、この地に『豊穣』の名を。
……実り豊かに、命が絶えることのない街。開拓都市・豊穣。これが、私からの提案だ」
「……豊穣」
その言葉が、蒼汰の胸にストンと落ちた。
ただ食料が豊富なだけではない。人の心が、技が、絆が、この森の中で豊かに実っていく場所。
「……いい名前ですね。みんな、どうかな」
「異議なしだね。この地を象徴する、最高の名前だと思うよ、蒼汰」
理人が頷く。
「うん、すごく素敵! 蒼汰くん、私たちにぴったりだね!」
乃亜も、楓菜も、萌音も、瞳を輝かせて賛同した。
「決まりだ。……辺境伯様、素晴らしいお名前をありがとうございます。
今日からこの場所は、開拓都市『豊穣』です」
蒼汰が深々と頭を下げると、クレマンは満足げに大きく頷いた。
その直後、村の広場にいたジョーやケント、難民から加わった住民たちが、誰からともなく歓声を上げ始めた。
「俺たちの街の名前……『豊穣』か! いいじゃねえか!」
「名もなき廃村じゃない。俺たちの自慢の村の名前が、ついに決まったんだな!」
住民たちの喜びに満ちた声が、青空へと吸い込まれていく。
だが、蒼汰の仕事はそれだけでは終わらなかった。
「理人、さっき言ってた『物流』の話だけど。
……辺境伯様、お体の調子が戻られたところで、一つお願いがあります」
「ほう、願いとな?」
蒼汰は一歩踏み出し、真剣な眼差しで切り出した。
「この豊穣の特産品を、より早く、より安全に領都へ届けるために……村と領都を繋ぐ街道の整備を、共同で行わせてもらえませんか?
今は馬で五日もかかると、ルークから聞いていますが、これを一気に短縮したいんです」
クレマンの隣で、ルークが驚きに目を見開いた。
「街道整備……! 奈落の森を抜ける道を、本格的に作り変えるというのか?」
「はい。ただの道じゃありません。馬車が全力で駆け抜けられる、石畳の『大街道』です。
……辺境伯様、これが実現すれば、辺境領全体の経済も変わるはずです」
蒼汰の提案は、単なる村の利便性を超えた、国家規模のインフラ整備を見据えたものだった。
クレマン辺境伯は、蒼汰の顔をじっと見つめ、やがて豪快な笑い声を上げた。
「……はははは! 面白い!
ただ飯を食わせるだけでなく、国を動かす血脈まで作ろうというのか。
蒼汰殿、お前はやはり、ただの料理番ではないな」
「恐縮です。……ですが、俺たちが腹いっぱい食い続けるためには、どうしても必要なことなんです」
「よかろう。我が辺境伯軍の工兵隊と資材を、惜しみなく貸し出そう。
……ルーク、お前が現場の指揮を執れ。
蒼汰殿たちと共に、王国が腰を抜かすような大街道を築いてみせろ!」
「はっ! 謹んでお受けいたします、父上!」
ルークが力強く返世する。その拳は、新しい挑戦への興奮で震えていた。
「よし……! 理人、さっそく測量の準備を始めてくれ。刀真、街道建設用の頑丈な道具の増産をお願い」
「了解だ。化学的な土壌固化剤の配合も考えておくよ、蒼汰」
理人がノートを広げる。
「おう、任せとけ。……萌音も手伝ってくれよな。
どの難民にどの作業を振り分けるか、萌音の目が一番正確だからな」
「わかってるって、刀真。人手の管理は私に任せて。
みんなの才能、最大限に引き出してみせるから!」
活気づく仲間たちの中心で、蒼汰は大きく息を吸い込んだ。
『豊穣』。その名に恥じない実りを、この地に、そしてこの世界に刻み込むために。
名もなき廃村の『洗礼』は終わり、新たな『国家』の鼓動が、奈落の森に重厚な足音となって響き始めた。
王国という支配から解き放たれ、自らの手で未来を耕し始めた英雄たち。
彼らの反逆の旗は、豊かな実りを象徴する黄金色の輝きを放ちながら、高く、高く掲げられたのである。
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