37.コーヒーの香り
――夜の神殿、礼拝堂。
赤竜の元にナディアたちが辿り着いて随分経つ。
既に加護の力は届かなくなったが、赤竜が「ゲルダの魔力が尽きたのだろう。今頃は身を隠しているはずだ」と告げ、ナディアたちを安心させていた。
ナディアが赤竜に尋ねる。
「レッド公爵、殿下の様子を≪水竜の水鏡≫で見ることはできないのですか?」
「ゲルダの傍に精霊眼のトビアスが居る。ゲルダを見ようとしてみたが、傍に在る精霊眼が邪魔をして姿を捉えることが出来ないようだ」
悔しそうにナディアが呟く。
「つまり、それも敵の計算の内、という訳ですね――レッド公爵はこの後、状況がどう動くとお思いですか」
赤竜が腕を組み、顎に手を当てる。
「おそらくはまず、二人が愛し合う状況を作り出すだろう。邪法を用いられないかが心配だが、今どこに居るか分からない以上どうしようもないな」
フィルが憎々し気に嗤った。
「悪魔が恋の手助けか。冗談にしても笑えないな」
赤竜がフィルを宥めるように告げる。
「まぁそう荒れるな。邪法さえ使われなければ、トビアスが友人の一線を超える事はあるまい。あの子に巫女の直感が蘇ってきたのであれば、必ずここに戻ってこれるはずだ」
「では、邪法を使われたとしたら?」
「……あの子の、竜の寵児としての才能を信じるしかない。創竜神様の加護があれば、邪法に陥れられることはないだろう――今夜はもう遅い。皆は身体を休めるんだ。私が朝まで起きてあの子たちの帰りを待つ」
フィルは何かを言いたげだったが、言葉を飲み込んで客間に足を向けた――今は、二人を信じるしかないのだ。
****
加護のあるトビアスは、楽々と学院の柵を飛び越えて敷地の中に降り立っていた。
私は小声でトビアスに囁く。
「凄いね、あんなに高い柵なのに簡単に飛び越えちゃうなんて」
「あなたが加護を付与してくれているおかげですよ。ですがもう限界でしょう? 無理せずに加護の付与を解いてください」
「はーい」
付与を解いた後も、トビアスは私を軽々と抱え上げて学院の敷地を静かに疾走していった。
学院の夜警に見つからない様に礼拝堂に辿り着く。
……よく考えたら、今この現状ってお姫様抱っこの刑ではなかろうか。
人に見られる事はないとはいえ、意識してしまうと恥ずかしくなってくる。
学院の礼拝堂は鍵がかかっていたけれど、トビアスが魔導術式で鍵を開けていた。
「あー、悪いことしてる」
トビアスが片目をつぶってお茶目に笑って見せた。
「緊急事態です。大目に見てください」
「どこでそんな術式を覚えたの?」
「鍵で閉じ込められる事も珍しくなかったんですよ。二度目で懲りて、独学で覚えました」
精霊眼保持者に対する迫害か。こうして笑って見せてるけど、辛い日々だったんだろうなぁ。
自分がそんな人生を歩んだとしたら、いじけて歪んだ性格になってしまいそうだ。
トビアスはそれでも、これだけ誠実に育って見せた。強い人なんだな。
静かに礼拝堂に入り、静かに扉を閉める。
「鍵も閉めますが、大丈夫ですか?」
大丈夫って? 夜に扉の鍵を閉めるのなんて、当たり前じゃないのかな?
私が小首を傾げていると、トビアスが小さく笑った。
「ふふふ……それだけ信頼されている、と思っておきます。貴方は深く考えないでください」
「よくわかんないけど、わかったー!」
「しー、静かに。外に聞こえます」
「はーい」
こつ、こつと二人分の足音が礼拝堂に響いていく。
ふわり、と鼻の奥に甘い香りが漂ってきた。
「――?! トビアス、どうしよう。私、また魅了を使われてる」
トビアスの顔色が変わった。
目まぐるしく考えを巡らしているのが分かる。
すぐさまトビアスが印を結び、魔法術式を展開して私に付与した。
「……精神抵抗力を上げる術式です。これで少しは時間稼ぎが出来ます。私の魔力ももう残り少ない。今打てる手はこれぐらいです。とにかく魔力が回復するまで身体を休めましょう」
魔力が回復するまで――ここは太い霊脈の上だ。私の魔力が回復するのも早いはず。私が回復すれば、加護の力でトビアスに神殿に急いで向かってもらうことが出来る。
それまで、私がこの魅了の術式に負けてはいけないんだ。
私は真剣な顔でトビアスに頷いた。
二人で礼拝堂の祭壇に背中を預ける。
私は甘い香りに抗いながら、ぽつりと呟く。
「……私たち、どうなっちゃうのかな」
このまま魅了に負けてしまったら、きっと私はトビアスに心を奪われてしまう。
それはとっても嫌な事な気がした。
「貴方が心を強く持ってくれるなら、きっと大丈夫でしょう――そうだ、もっと楽しいことを考えましょう。昼間、三人で飲んだコーヒーの事でも思い出したらどうですか?」
三人で飲んだコーヒー。
ふわりと鼻の奥にコーヒーの香りが苦みや酸味と共に蘇ってきた。
「……トビアスがあの銘柄をストレートで飲んだ時の顔、面白かったね」
「あんなに酸っぱいとは思いませんでしたよ。コーヒーが酸っぱいものという認識が無くて驚いただけです」
私たちはコーヒーの話で静かに盛り上がり、時間をやり過ごしていた。
だがそれも、そう長くは持たなかった。
頭がぼーっとする……このままトビアスに身体を預けてしまいたい。そんな欲求が抑えきれなくなってる。
既に私からトビアスの手を握ってしまっていた。トビアスも、それを振り払えないみたいだった。
会話の種もなくなり、静かに礼拝堂で並んで手を繋いでいた。
「ねぇトビアス。私が魅了に負けてしまったら、君はどうするんだい?」
「……私にも分からなくなってきました。今こうして繋いでいる手のぬくもりが、どうしようもなく愛おしい」
「トビアスにも魅了がかかっているのかな?」
「精霊眼を持つ者は精神干渉術式を受け付けにくいと言われています。おそらく使われても抵抗していると思いますが、断言はできません」
いつのまにか、私の手に力が入る。
そのまま私は、トビアスの首筋に抱き着いていた。
ああ……なんて心地よい香りなんだろう。こうして身を任せるととても安心する。
身を寄せれば寄せる程、もっと強く身を寄せたい、もっと肌に触れて居たいという思いが浮かんでくる。
必死に抗う心が、吸い寄せられる思いに負けかかっているのが分かる。
「ごめん……もう我慢できなくなってきた」
「……負けないでください。明るい心で自分を強く信じてください。本当の貴方の心を、見失わないでください」
なんだか拒絶されたみたいな寂しさを感じて、思わず尋ねる。
「私がこのまま身を預けているの、トビアスは嫌なのかな?」
「そんなことはありませんよ。生まれて初めて経験するぐらいのご褒美です。邪法が使われた結果でなければ、喜んで抱きしめ返しています」
そんな瞬間を想像してしまい、胸を温かい気持ちが満たした。そんな時間を味わい尽くしてみたくなった。
「ふふ……やっぱりトビアスは真面目なんだね。私はこのまま恋人がトビアスになっても構わないんじゃないかって、そんな気がしてきた」
「……もう一度、コーヒーの香りを思い出してください。貴方が好きなコーヒーの香りは、どのコーヒーの香りでしたか? それがあなたの本心です。それを忘れないで」
好きなコーヒーの香り……
ちょっと焦げ臭くて、ふわっとコーヒー独特の香りが鼻いっぱいに広がるあの感じ。
苦みが強くて、最初は飲むのがとっても大変だった。
初めて一杯を飲み干せた時、一緒にフィルが喜んでくれたっけ。あの時に私は自分の恋を自覚したんだ。
フィルが美味しそうに飲んでいたから飲みたくなったあのコーヒーが、私の好きなコーヒーだ。
……そっか、やっぱり私の心はフィルにあるのか。それならこの心を強く信じよう。
甘い香りが薄れて、頭の中にコーヒーの香りが強く漂ってきた。
私は抱き着いていたトビアスからゆっくりと離れ、再び祭壇に背中を預けた。
トビアスから離れたくないと、心の中で泣き叫ぶ心は私の心じゃない。
神殿に早く帰って、いつものコーヒーをフィルと一緒に飲みたい。それが私の心だと、そう強く信じた。
「ありがとうトビアス。信じられる自分を見つけられた。あとは明るく元気な気持ちで、その自分を信じるだけ……ごめんね」
「謝る必要はありませんよ。これでようやく条件が揃いました。今回の敵を倒したら、真面目に貴方を奪いに行きます。先に少しだけ景品を頂いてしまいましたが、役得、という奴ですね」
「もー、私は物じゃないよ? フィルもフレドもトビアスも、私を勝手に景品にしないで欲しいな」
明るく笑い合いながら、日が昇るのを待った。
「もう動ける明るさでしょう。私の魔力もある程度回復しました。あなたの魔力はどうですか?」
「ばっちり! 八割は回復してるよ! 加護を使って神殿に急ごう!」
「しー、静かに」
「はーい」
私たちは静かに礼拝堂を抜け出て、トビアスに抱えられたまま薄闇の中を神殿に急いだ。
****
トビアスが神殿に辿り着くと、神殿前で赤竜おじさまが待っていた。
私は甘い香りに抗うのに精一杯で、話す事が出来なくなっていた。
代わりにトビアスが赤竜おじさまに声をかけてくれた。
「赤竜、魅了の邪法が使われています。早く解呪を」
赤竜おじさまが頷き、印を結んで術式を私に付与した。
光と共に、私の頭の中から甘い香りが消えて行く。
「……ふぅ。ありがとう赤竜おじさま。それにトビアスも」
トビアスは首を横に振ってから私に微笑んだ。
「今回は貴方が自分を見失わなかった。被害は小さいはずだ。貴方こそ、よく頑張りました」
頑張れたのは、トビアスのおかげだよ。
抵抗するのに疲れ切った私は気が抜けて、そのまま眠りに落ちて行った。
私はトビアスに抱えられたまま、赤竜おじさまに続いて神殿に入っていったみたいだった。
目が覚めると、神殿の客間だった。
ベッドサイドにはナディアを始めとしたみんなが居る。
私は目をぱちくりと瞬かせて尋ねる。
「みんな、無事だった? 怪我はない?」
ナディアが悲壮な声で応える。
「私共の事などをお気になさる前に、御身の事をお考え下さい! 今回も魅了の邪法が使われたそうですが、今の御気分はいかがですか?」
今の気分? んー。
私は、にへらっと笑って応える。
「フィルと一緒に、いつものコーヒーが飲みたいな!」
その時のフィルの嬉しそうな顔を、私は一生忘れないかもしれない。
****
神殿の朝食にはいつものコーヒーが並んでいた。
私はこくこくと香りと苦みを楽しみながら喉に流し込み、もっぐもっぐと元気にパンを頬張っていく。
なんせ昨晩はごはん抜きだ。お腹が減ってしょうがない。
私はちらりと食卓を囲むトビアスの顔を見る。
その頬にはくっきりと拳で殴られた跡。
「ねぇ、トビアスの顔にどうして殴られた跡があるのかな? 神殿に辿り着くまで、怪我はしてなかったよね?」
トビアスは微笑みながら静かにミルクと砂糖の入った琥珀色のコーヒーを口に含んでいた。
おかしいなぁ? 例え怪我をしても、トビアスなら治癒術式ぐらい使えると思うんだけど。なんで治さないんだろう?
代わりに仏頂面になったフィルが私に説明してくれる。
「起き抜けに”景品を先に頂いてしまったので、代わりに一発殴らせてやる”と言ってきました。カッとなって殴りつけました」
その言葉に、ナディアとティナ、アーネが殺気立った目でトビアスを睨み付け始めた。
え? ちょっと待って?
なんでそんな戦いでもないのに本気で殺すような目で見てるの?!
ナディアが静かに怒りを秘めた声でトビアスに尋ねる。
「”景品”の意味をご説明頂いても宜しいですかトビアス」
トビアスは肩をすくめて飄々と応える。
「それはもちろん、お姫様の事ですよ。私だって十五歳の健康な男子です。ああも甘い声でしな垂れかかられて我慢が出来ると思うんですか?」
――いけない!
ナディアが殺気を込めて殴りつけた拳に、加護の力で無理やり割り込んだ――私の頬を、ナディアの拳が殴り抜いた。
――ぎりぎりで間に合ったー。防御技術なんてない私は、身体で庇う事しかできない。
加護があっても私の口は切れて、血が一筋垂れて行った。まぁ咄嗟に込められる程度の魔力しか使えなかったからね。
私の顔を本気で殴ってしまい狼狽えるナディアが声を上げる。
「殿下?! なにをなさっておいでなのですか!」
私は静かに顔を上げてナディアを睨み付ける。
ここはきちんと伝えておかないといけない気がする。
「トビアスからは私に指一本触れてないよ。私が少し魅了に負けて抱き着いてしまっても、私が魅了に負けないよう精一杯言葉で励まし続けてくれた。私が信じられる自分をもう一度見つけられたのも、トビアスがアドバイスをくれたからだよ。トビアスが殴られる理由なんて、これっぽっちもないんだよ!」
ナディアたちから殺気が消えたみたい。私は小さく安堵のため息をつく。
私は戸惑うナディアから、背後に庇ったトビアスに視線を移す。
「トビアス、何故そんな憎まれ口を叩いたの? 君は”邪法でなければ抱きしめ返しているところだ”って言いながら、私に対して触れようともしなかった。ずっと我慢していたんだよね? ずっと耐えていたよね? なぜそれ以上苦しもうとするの?」
トビアスが静かに治癒術式を私の口に施しながら応えてくれる――やっぱり治癒術式を使えるんじゃないか。自分で自分の傷を治す気がないのかな?
「痛いでしょうに、無茶をしないでください――これはけじめです。敵の思惑に乗せられて、貴方を苦しめてしまった。本心と違う男にしな垂れかかるなんて行為を、貴方にさせてしまった。”任せろ”と大見得を切った挙句にこのざまです。自分が許せないから、貴方を大切に想う人々から制裁を受ける、それだけの話ですよ」
はぁ、と小さな溜息が私の口を衝いて出た。
それが自分の怪我を癒さない理由なんだね。
ほんとーに男の子って奴はこれだから……
なんなの? 意地を張ってないと死んじゃう生き物なの?
どこからその頑固さが出てくるの?!
私は思いの限り声を上げていた。
「この意地っ張り! 君程頑固で誠実な人は見た事が無いよ! フレドより頑固なんじゃないかな?!」
トビアスがニヤリと微笑んだ。
「私が誠実? そうやって男に騙されるのがゲルダの好みですか? もう少し男を見る目を養った方が良いですよ?」
……は? ここまで私の事を真面目に思いやり通した君が、不誠実だとでもいうのかな?!
二人きりのあの礼拝堂ですら、己を殺し切って見せた君が?!
今もこうして”けじめ”をつけようとしている現場で、どの口が言うのかな?!
トビアスが誠実じゃなかったら、誰を誠実と呼べると言うのか。
まったくもう、意味の分からない事を言う人だ。
どうやらトビアスは、まだ自分の傷を自分で治癒するつもりがないらしい。ホントに頑固なんだから――仕方ない、お返しに私が癒してあげよう。
私がトビアスの顔を癒していると、フィルがトビアスの前に来て名前を呼び、頭を下げた。
顔を上げたフィルが、トビアスに謝る。
「すまなかった。お前がそんなつもりで僕を挑発した事を見抜けなかった。ゲルダが僕と一緒にコーヒーを飲みたいと言えるようになったのは、お前のおかげだったんだな」
「寝取る寸前だった男に頭を下げる男が居ますか。謝る必要はありませんよフィリップ王子」
「……僕の事はフィルと呼べ。これは命令だ」
え、フィルが命令なんて言葉を同年代に使うのを始めて見たかも?
トビアスが苦笑しながら応える。
「王族の命令では従わざるを得ませんね。解りましたよフィル――しかし、何故命令なんて言葉を使ったんですか? 貴方らしくない言葉だと思いますが」
フィルがニヤリと不敵に笑った。
「トビアスは頑固な上に平民だ。こうでも言わないと”フィル”とは呼ばなかっただろう?」
二人の笑みが交差し、互いが拳を構えた――私は咄嗟にフィルの腕を持ち上げて、拳が打ち合わされるのを回避させた。
呆気に取られたトビアスの視線と、笑いを堪えるフィルの視線が私に集まった。
私は頬を膨らませてフィルを睨み付けた。
「フィル? 私がそれを嫌がるの、知ってるよね?」
「ククク……なんだか久しぶりにゲルダが帰ってきた気分だ」
私はむーっとむくれていたけど、さっきのトビアスの言葉をふと思い出して尋ねた。
「ねぇトビアス。”寝取る”ってどういう意味? あの時のトビアスは、寝取る寸前だったの?」
「殿下がそれを知る必要はございません――トビアス、殿下の前では言葉に気を付けなさい」
氷雪の嵐のような空気を身に纏ったナディアが、トビアスと私の間に割り込んできた。
「わぁ……なんだか久しぶりって感じ」
私の一言で、みんなが笑いだした。
朝の食卓は、笑いに包まれながら進んでいった。




