35.惑い
――休日の朝、神殿。
私はフィルやナディアたちと共に、毎週の礼拝に来ていた。
学院のない日は、神殿で祈りを捧げなければならない。
祈りを捧げ終わった私は目を開けて立ち上がり、祭壇前で振り返る。
護衛はナディアが居ればトビアスは居なくてもいい――そう言われていたけど、目がついトビアスを探してしまう。
そうして私は礼拝堂の中で、マント姿でフードを目深に被った姿を見つけ、駆け寄っていった。
「――トビアス! トビアスでしょう? なぜフードをかぶっているの? 君も祭壇前に来ればよかったのに」
ゆっくりとフードを下ろしたトビアスが苦笑を浮かべる。
「貴方を遠くから見ていただけです。近寄るとフィリップ王子にも悪いことになりますから」
私は小首を傾げてから振り返ってフィルを見る。
――フィルはやはり、複雑な表情でこちらを見ていた。
あ、そうか。思わず駆け寄っちゃったけど、これじゃフィルの嫉妬を煽っちゃうよね……
何をするにも、フィルの事を気にかけて動かなきゃいけない。
ふぅ、と小さく溜息をついた。
――鬱陶しいな。
そう思った自分に驚いて目を瞠った。
今、私は何を思った?
自分で自分が信じられない。またこの気分だ。なんて嫌な気分だろう。
「ゲルダ? どうしましたか? 顔色が悪いですよ?」
トビアスの声が聞こえてくるけど、私は動くことが出来なかった。
気が付くと赤竜おじさまの足が見えた、ゆっくりと顔を見上げると、陽気な赤竜おじさまの笑顔が待っていた。
「ゲルダー! そんな顔してると加護が逃げちゃうぞー! 笑うんだ!」
私はそのまま、赤竜おじさまのお腹に抱き着いた。
****
「私、どうなっちゃったのかな……」
赤竜おじさまのお腹にしがみ付きながら呟いた。
「お前は今、悪魔に心を惑わされている状態だ。そうやって自分で自分を信じられなくなっていくのは奴らの思うつぼだよ? もっと自分を強く持つんだ。奇跡を起こしてみせたゲルダはどこに行ってしまったんだい?」
そんなことを言われても、自分の知らない自分が自分の中に居る。
信じるべき自分が見当たらなくなってしまった。
フィルの事を少しでも鬱陶しいと感じる自分なんて要らない。
そんな自分は知りたくなかった。
そんな私に、赤竜おじさまは優しく教えてくれる。
「それが惑わされているというんだ。お前が自分だと思えないなら、それはゲルダ自身の心じゃない。巫女の直感の使い方は忘れていないね? 明るい心で自分を信じなさい。そうすれば自然と区別がつくようになる」
「……何を信じたらいいのか分からなくなった時は、どうしたらいいかな」
赤竜おじさまの声が問いかけてくる。
「頭を空っぽにしてみてごらん。今信じられるのは誰だい? 名前を言ってごらん?」
……空っぽ。すべてを忘れて、心のままに名前を告げる。
「……トビアス」
赤竜おじさまの優しい手が、私の頭を撫でてくる。
「ならばトビアスを信じなさい。お前が自分を信じられなくても、トビアスを信じなさい。今はそれで構わない。じきにフィルの事もまた信じられるようになる」
私は赤竜おじさまのお腹に顔を埋めたまま尋ねる。
「……トビアスをそこまで信じてしまっていいの?」
「お前が信じたいならばそうするがいいさ。後の事はおいちゃんたちに任せておきなさい。お前の心が弱くなるのが一番奴らの有利になる。それだけは避けなければならないからね」
私はようやく、赤竜おじさまのお腹から離れて一人で立った。
赤竜おじさまの顔を見て、小さく頷いた。
赤竜おじさまがニカッと笑う。
「よし、今はそれでいいんだ――トビアス。お前にも負担をかけるが、少しの間フィルの代わりにゲルダを支えてやってくれ」
トビアスが戸惑う様に応える。
「信じてもらえるのは助かりますが、本当に構わないんですか? 悪魔崇拝者の思惑が分からないまま私を全面的に信頼してしまうのは、リスクが余りにも高いと思いますが」
赤竜おじさまが微笑みながらトビアスに応える。
「私も伊達に長生きはしていない。奴らの動きが致命打になる前に止めて見せよう。今は奴らの手のひらの上だとしても、これ以上ゲルダの心を弱らせる訳にはいかないんだ。そちらの方がより悪い結果が待っているからね――さぁゲルダ、トビアスと二人で内庭にでも行っておいで。その間においちゃんたちは作戦会議をしておくよ」
赤竜おじさまがトビアスに微笑む姿を、私は初めて見た気がした。
”ああ、このまま私はトビアスを信じてもいいんだな”と思えて、少し心が軽くなった気がした。
****
ゲルダとトビアスが内庭に姿を消した後、赤竜は残った人間を客間に集めた。
赤竜の顔からは微笑みが消えている。
「状況はかなりまずい。このままではゲルダの祈りが悪魔の力を弱める事すらできなくなる可能性すらある、その程度には切羽詰まっていると思ってくれ。フィルはしばらくゲルダから距離を取るんだ。お前が傍に居るとゲルダの心の負荷が上がる。お前が嫉妬する姿をゲルダに見せるな。今はあの子に自己嫌悪を抱かせないようにするんだ。穏やかな笑顔で居られるなら、傍に居ても構わない。後遺症が消え去るまでの時間、耐える事がお前に出来るか?」
フィルが顔をしかめ、唇を噛み締める。
その場合、彼にとって絶対に許すことのできない事が発生するかもしれなかった。
「……その間に、ゲルダが心変わりする可能性はあると思いますか?」
赤竜が厳しい表情でフィルに応える。
「否定はできない。それほどあの子の心は惑わされている。それでもお前はゲルダを信じるしかない。心変わりがあれば、お前がそれを受け入れる事は難しいだろう。ゲルダもまた、その事で苦しむことになる。それが分かっていてもなお、今はただ、ゲルダとトビアスを信じるしか道が無い」
トビアスを疑い続けていれば、彼を信じたがるゲルダの心が苦しめられる。
それは徐々に彼女から力を奪っていくことに繋がる。既に、祈りの力が衰え始めているのを赤竜は感じ取っていた。
危険性を認識していもトビアスを信頼するしか、ゲルダの心の負担を軽くするしか手がないのだ。
ナディアが眉をひそめながら疑問を述べる。
「魅了の後遺症だけでここまで殿下が心を惑わされるものなのでしょうか。確かに、恋心を強引に操作された経験は初めてでしょう。あれほど陶酔する殿下を見るのも初めてでした。だとしても、クリスとの戦いを経た殿下が、これほど短期間で己を見失うとは信じ難いのです」
赤竜が頷く。
「魅了以外の術式を施されていた。魅了を解呪して元に戻ったように見えて、その裏で不信の邪法があの子の心深くに根付いていたようだ。先程解呪を行っておいたが、浸透するまで少し時間がかかる。不信の邪法を解呪できれば、状況は少しだけ好転するだろう」
魅了された自分を信じられないゲルダの心に隠されるように小さな邪法が撃ち込まれていた。
心惑わされたゲルダが邪法で更に自分を信じられない心を深く刻みつけるようにした、小癪な小細工だった。
先程、ゲルダが赤竜に縋りついてきた時に、彼女に気づかれぬよう不信の解呪を行ったが、即座に自分を信じ切れるようにはならないだろう。
「不信の邪法ですか……ですが、それを解呪されることも予想されているのではないですか? 今この状況も全て敵の思惑通りなのでは?」
赤竜が頷く。
「現在は後手後手に回っている。そう動かざるを得ない状況に持ち込まれている。トビアス自身が悪魔崇拝者ではなくとも、決してトビアスから目を離すな。奴らは他者を利用する事に特に長ける。トビアス自身も、自覚なく操られているだけだろう。この場にトビアスが現れたことが何よりの証拠だ。精霊眼を持つトビアスに何かが仕込まれていたとしても、私には見抜くことはできない。決して油断するな」
ティナが手を挙げて質問をする。
「レッド公爵、トビアスに何かが仕込まれているとして、目的は何だと思いますか?」
「まず、間違いなくゲルダを穢して殺す事だ。トビアスと深く愛し合うように仕向け、トビアスに殺させる。これが奴らの最善だろう。これをやられると悪魔が即座に復活し、この地が滅ぶ。完全復活を果たした侯爵を倒せる力は、現在の我ら創竜神様の側にはない。我々には手を出せる相手ではなくなる。これだけは防がねばならん」
「他に考えられる結末は何があるのですか?」
「愛さずとも、深く信頼したトビアスに殺されれば当然穢される。完全復活は無理でも、侯爵は地上に姿を現すだろう。各地の戦力を集結させれば、或いは倒せるかもしれない。同様に、フィルにゲルダを殺させても同じような結果になる。逆もまた然りだ。ゲルダにトビアスやフィルを殺させることもさせてはならない。我々がフィルやトビアスを排除したとしても近い結果になる。深い絶望に陥ったところを崇拝者に殺されれば、それで巫女の魂が穢れ、悪魔が蘇る――皮肉だが唯一の救いはトビアスが精霊眼だ、ということだな。あの瞳を持つ者を、悪魔崇拝者如きが姿映しの邪法で真似ることは出来ないからね。トビアスの姿で殺される、という事は警戒しなくて良い」
ナディアが呆然と呟く。
「悪い結末ばかりですね。その全てを回避するためにはまず、殿下に己を取り戻してもらう必要があります――それで、トビアスでも構わないから信じろと、そう仰ったのですね」
赤竜が頷いた。
「創竜神様の加護があれば、現状の打破が見込める。まずはゲルダが心から笑い、自分を信じられるようにするのが先決だ。当然奴らはそれを妨害するように動くだろう。我々はそれを瀬戸際で阻止する事になる」
ナディアが頷いた。
「承りました。少なくとも私の加護は以前と変わりありません。前回の男が相手でも、殿下と他の者の助力があれば撃退する事は可能でしょう。トビアスが協力してくれるのであれば、私が居ない学院の時間でも撤退する事は可能なはずです――フィリップ王子、トビアスの周辺を洗ってください。必ずそこに崇拝者が潜んでいるはずです」
フィリップ王子が頷いた。
「それなら最も怪しいのがトビアスの居候先、ヴェルマン伯爵でしょう。トビアスに魔導学院を進めたのもヴェルマン伯爵だ。彼を中心に探るしかないですね。ですが、どうやって崇拝者か見極めるのですか? ≪水竜の浄水≫でも使うのですか?」
赤竜が首を横に振る。
「あれは術者の力量次第では通用しない。あまり過信しない事だ。私より遥かに高位の存在から強い加護を得た者であれば、私の作った水を美味そうに飲んで見せるくらいはできるだろう。この地に封じられた現在の侯爵の加護程度では無理だろうがな。精霊眼を持つトビアスがどちらなのかは、私自身も賭けになると思っている。そうだとしても、信じざるを得ない。惑わされたあの子が心から信じられると、頼れると思えるのはトビアスだけだ。他の物では代わりになれない。私ですらな――このことはあの子には伏せておけ。あの子がトビアスすら信じられなくなれば、取り返しがつかなくなる」
フィリップ王子が頷いた。
「では直近一か月の動向を追う形で洗ってみましょう。悪魔崇拝者であれば、コミュニティへの接触やマントの男の接触が見られるかもしれません。トビアス自身が外出時に同様の格好をしているので区別が難しいですが……」
赤竜が頷く。
「もどかしいだろうが、そうした方法を取るしかあるまい。今回は私もなるだけ動こう。それすら敵の計算の内かもしれんが、あの子の寵児としての可能性に賭けよう」
****
私はトビアスと神殿内庭のベンチに腰かけていた。
「ごめんねトビアス。今の私が心から信頼できるのはトビアスだけみたい。自分をこんなに信じられなくなったのはフィルが誘拐された時以来かも」
トビアスを信じても良いんだという安心感から、自分の気持ちが素直に言葉になって口から出ていく感じがした。
私を見たトビアスは、優しく微笑んでくれる。
「構いませんよ。言ったでしょう? 貴方のように美しい女性になら、いくら迷惑をかけられても私は気にしません――思わず本気になりそうなのが困りものですがね」
私はきょとんとした顔で尋ねる。
「本気? 本気ってどういう意味?」
「カフェテラスで話したでしょう? 貴方であれば恋人同士になりたいと私は思えました。今の貴方は私に深い信頼を寄せています。この状態は、私にとって実に歯がゆい。その信頼は貴方の本心ではないと分かっていますからね。こんな状態でフィリップ王子から貴方を奪う真似は、私にはできない。ですから私は貴方に本気で心を寄せないよう自制する必要があります――そういう意味です」
今の私はトビアスを心から信じ、頼れる人だと思っている。
愛は相手を大切に想う気持ちだとクリスさんは言った。私はトビアスを一人の男性として愛しても構わないと、そう思いかけている気がする。
だけどこれは本心じゃない……でも、本当にそうなのかな?
赤竜おじさまはトビアスを信じてもいいと言ってくれたし、明るい気持ちで今の自分を信じてみようかな。
私はニカッとトビアスに微笑む。
「私の信頼が本心じゃないと思う? 私は違うと思うなぁ。私の今の心全部が全部本心だとはさすがに思えないけど、この一週間トビアスを見てきたもの。君は間違いなく、信頼できる人だよ!」
なんでここまで断言できるかは自分でも分からない。でもトビアスは信頼を寄せるに値する人間だと、私の心が言っている気がするのだ。
トビアスが苦し気な微笑みを浮かべた。
「その信頼は私に取って甘い蜜です。つい、その蜜に誘われてしまいそうになります。ですが敵の思惑が分からない以上、私たちの関係を変化させるべきではありません。私たちは親しい友人――それが限界でしょう。ですが友人として最大限、貴方を支える事はしましょう」
やっぱりトビアスが悪魔崇拝者側の人間とは思えない。
だって、崇拝者だったらフィルから躊躇いなく私を奪ってるはずだもん。
精霊眼で感情が伝わらなくても、トビアスが自分とは関係ない、私と悪魔崇拝者の戦いに心を砕いてくれているのが伝わってくる。
トビアスが一目惚れした私を、本気で好きになるのを我慢しているとトビアスは告げた。
相手を封殺する戦い方しかできない人が、恋の戦いでは封殺されている恋敵が、自分に再び立ちはだかれるようになるのを待っている。
恋人を横取りするのは趣味ではないと以前言っていた。きっとあれも本心だ。そんなことはすべきではないと、己を戒め続けている人だ。
今ならいくらでも奪い放題なのを、彼は必至に耐えているんだ。
それを理解してしまった私は、おかしくなって笑ってしまった。
「あはは! そういうところだよ! なんとなくだけど、トビアスはフレドと同じタイプだね! 普段は目的の為に手段を選ばないのに、変なところがすっごい真面目なんだ。自分が不利でもできるだけ公正であろうとする。それは好感を持てる美徳だと思うよ! やっぱりトビアスは信頼できる人だよ!」
私は心から笑えていた。とても久しぶりに明るい気分で笑えたんだ。
そんな私を、トビアスは眩しいものでも見るような顔つきで見つめていた。
「……やはり、貴方は私にとって甘い蜜に過ぎますね。そうやって無邪気に笑っている貴方を見ていると、思わずこのままフィリップ王子から奪ってしまいたくなります――ですがそれは、貴方が本来の貴方を取り戻してからです。それまで私たちは親しい友人で在らねばなりません。でなければ私は自分を許せなくなります。例え今の貴方がそれを不満に思ったとしても、これは譲る事の出来ない私の一線です」
私もそんな彼の顔が可愛く見えて、思わず見つめ返していた。
でもそれを口にするのは失礼なような、恥ずかしいような気がして言葉にするのは止めておいた。
「ふふ……トビアスがそうやって居てくれるなら、私は安心して今の信頼を君に預ける事ができるよ――ねぇ、トビアスが追いかけている”魔法”って具体的にはどういうものなの? 魔導とは違うの?」
「神が使う魔導技術も魔法と呼ばれることがありますが、厳密には違うものだ、という説もあります。神の権能という言葉を知っていますか? それを人が使う時、魔法として姿を現すという古い伝承があります。いずれにせよ、神の振るう力を人が使う技術が魔法です。私の夢は、いつか魔法を自分で使う事です。古き神の時代にはそんな魔導技術があったとされています。今の世界でも使えるかは分かりませんが、私は生涯をかけてこれを追い求めたいと思っています」
神の権能……神様の力の事だったかな?
大規模な加護の付与は創竜神様が使う”大魔導術式だ”と赤竜おじさまに言われた。だからこれは権能じゃないね。
でもクリスさんの魂を救った創竜神様の奇跡は、権能になるんじゃないかなって気がする。
その後、私は前回のクリスさんとの戦いの一部始終をトビアスに伝え、「確かにそれは権能ですね。神の魔導と権能を同時に使ったのですか。よくそれで生きていますね……」と驚かれていた。
なんだか久しぶりに暖かい時間を過ごした私は、心穏やかにお日様の光を浴びていた。




