あたしを、五千人が拝んでた
聖母教の大聖堂へ着いて、私は足を止めた。
広場いっぱいの信徒が、手を洗っている。
「指のあいだも洗った?」
「はい!」
「爪のところもね。院長先生、そこが汚れるっていつも怒ってたから」
「はい、教主様!」
その声で分かった。
「……ノア」
壇上に、杖を持った男が立っていた。
昔は私の袖を掴んで歩いていた盲目の子が、今では何千人を相手に手洗いを教えている。
大聖堂の正面には、両腕を広げて微笑む白い女神像。
どう見ても私らしい。
「あたし、あんな顔で笑ったことないんだけど」
「そこ?」
ルシアが肩をすくめた。
よく見ると、手洗いだけじゃない。
パンとスープは小さい子から。別棟では病人を診て、使い終わった食器は大鍋で煮ている。
「食器を煮るのも聖母様の教えだってさ。『熱い湯で洗いな。腹壊すだろうが』」
「……言ったね」
四十七人もいれば、毎日言う。
手を洗え。食器を洗え。小さい子から食べろ。
それが全部、教義になっていた。
壇上では、ノアが子どもへパンを渡している。
「急がなくていいよ。まだあるからね」
「……いいことしてるじゃないか」
「そこだけならな」
ルシアが広場の端を指した。
大きな旗が何十本。荷車には水と食料。その隣には杖や長い棒まで積まれている。
「正午から王城行くんだと」
「何しに」
ダルガが答えた。
「王家へ謝罪を求めまする。我が主君を処刑した罪を認めさせる、と」
「何人で」
「五千ほど」
「多いよ!」
その時、壇上のノアが西へ顔を向けた。
昨夜吹き飛んだ王城の塔から、まだ煙が上がっている。
「昨日、お城の塔が崩れたよね」
広場が静まった。
「あれはね、院長先生が怒ってるんだよ」
違う。
「院長先生は、もうすぐ帰ってくる。だからその前に、王さまにごめんなさいしてもらおうね。ちゃんと謝れたら、みんなで帰ろう」
「はい!」
五千人が答えた。
四十七人の「はい」なら嫌というほど聞いた。
五千人の「はい」は、もっと言うことを聞かなそうだった。
「ダルガ」
「はっ」
「あれ、あたしが壊した塔なんだけど」
「存じております」
「知ってて止めなかったの?」
「ノアは拙者の言葉では止まりませぬ」
「アタシも言ったよ」
ルシアが手を上げる。
「そしたら『ルシアも怒ってるんだね』で終わった」
厄介だ。
しかもノアには悪気がない。
五千人で王城へ行って「謝って」と言うだけでも、兵から見れば十分怖い。一人転べば後ろが押す。兵が剣を抜けば、誰かが守ろうとする。
喧嘩する気がなくても、人は死ぬ。
「止めるよ」
広場へ出ようとしたところで、大聖堂前が騒がしくなった。
「皆様! 本日の巡礼では、聖母様の御遺物『開門の聖鍵』が先頭を進みます!」
白布をかけた箱が運ばれてきた。
中央のガラス越しに、細い金属棒が見える。
「……ちょっと待ちな」
見覚えがある。
「あれ、あたしの鍵開けじゃないか」
「御神体になってんな」
ルシアが言った。
「なるな!」
孤児院にいた頃、腰袋に入れていた道具だ。捕まった夜に衛兵へ取られたはずなのに、なぜか今は五千人の先頭を歩こうとしている。
「二人ともここで待ってな。あれを取り返して、ノアと話してくる」
「我が主君、拙者も」
「駄目。大聖堂で剣を抜く気?」
「……御意」
正面は人だらけなので、裏へ回った。
見張りは少ない。
代わりに、裏口の内側へ細い鈴が吊られていた。
「なるほどね」
扉を少し押す。
糸が張る。
鈴が鳴る前に指で止め、留め金だけ外した。
中へ入ると、廊下の角にも窓にも違う音の鳴子が仕込まれている。
人の目より、音。
いかにもノアらしい。
遠くで大鐘が鳴った。
その音に合わせて扉を一つ開ける。小さな鈴は鐘に飲まれた。
昔からそうだった。
足音で誰が来たか分かる。皿が一枚なくなっても気づく。
目が見えないから鈍いと思っている人間の方が、よっぽど鈍かった。
聖遺物室はすぐ分かった。
ここだけ鍵が五つある。
「御神体にしといて、ずいぶん厳重じゃないか」
一つ目を外す。
二つ目。
三つ目は途中でばねが重くなる。音を出さないよう圧を逃がし、残りも開けた。
扉の奥には、ガラス箱が一つ。
絹の上に、古びた鍵開けが置いてある。
「……ほんとに取ってあったんだね」
箱を開けて手に取った。
「三つ目のばね、まだ固かった?」
背後から声がした。
手が止まる。
「最後だけ少し擦れたから分かったよ。その開け方、覚えてる」
杖の音が近づく。
入口にノアが立っていた。
「……院長先生?」
「ノア」
「やっぱり」
「顔も違うのに、分かったの?」
ノアが首を傾けた。
「顔は最初から見てないよ」
「……そうだったね」
一本取られた。
「最後に金具を戻す時、少し擦るんだ。昔から」
ノアが手を伸ばした。
私はその手を取った。
指先が手の甲をなぞり、手首で止まる。
「……ほんとに院長先生だ」
「手で分かるのかい」
「昔、いつも引いてくれたからね」
昔よりずっと大きな手だった。
「おかえり、院長先生」
「……ただいま」




