王国経済を握るな
「御意!」
「あとダルガ」
「はっ」
「国を吹き飛ばす合図に兄妹で連携するんじゃないよ」
「……申し訳ござらぬ」
◇
連れてこられた場所を見て、足が止まった。
「……どれ?」
「すべてルシア商会にござる」
五階建ての本店、その左右に倉庫と両替所。道の向こうまで同じ看板が続いている。
昔は銅貨一枚渡しただけで、一日中握りしめていた子だった。
「育ちすぎだろ」
「王都の穀物のおよそ四割、陸運の三割。大手両替商二家も傘下にございます」
「そこまで育てた覚えはないよ」
夜明け前だというのに、門から荷馬車が次々と出ていく。
「ダルガはここで待ちな」
「なぜにございます」
「あんたが入ったら潜入じゃなくて討ち入りになる」
「……御意」
裏へ回った。
正面に見張りは六人。搬入口は二人。しかも荷車ばかり見て、上を見ていない。
昔なら雨樋を使った高さだった。
跳ぶと、そのまま二階の窓枠へ手が届いた。
「便利だけど、泥棒には過剰だね、この身体」
留め具へ金具を差し込む。
錠は悪くない。ただし窓枠が古い。
錠前を相手にするまでもなかった。
中へ入ると、床まで書類が積まれ、飲みかけの茶が冷えていた。廊下では商会員が走り回っている。
「北倉庫、出荷停止準備完了!」
「両替商二家、夜明けと同時に現銀を引き上げます!」
「運送組合への契約停止通知は?」
「最終承認待ちです!」
冗談ではなかった。
「本当に全部やるのか?」
「会頭が言ったんだよ。『王都の現銀は薄い。金と飯と足を同時に止めりゃ、二日で王家が折れる』って」
二日。
空腹の子どもが泣き始めるのに、二日もいらない。
ルシアは金の動かし方を覚えた。
ついでに、それで人を殴る方法まで覚えたらしい。
まだ止められる。
これだけの商会を口約束だけで動かすほど、あの子は雑じゃない。
指示書と印章。
大事な物ほど安全だと思っている場所へ置く。
地下へ降りると、案の定、大げさな鉄扉が待っていた。
三重錠。罠が二つ。
でも最初に見るのは、そこじゃない。
扉の前だけ埃が薄い。右端の石だけ靴底で磨かれている。
毎日開ける人間は、そこに立つ。
なら、そこだけは安全だ。
泥棒が罠を全部見破る必要なんてない。
持ち主がどう避けているかを盗めばいい。
右端へ足を置き、最初の錠を外す。針を一本止め、最後の機構を押し込むと、鉄扉が開いた。
金貨も宝石もいらない。
探すのは、王都を止める紙だけ。
奥の棚に三通あった。
『穀物倉庫封鎖』
『両替商現銀回収』
『運送契約一斉停止』
「……本当に全部やる気だったんだね」
三通とも懐へ入れ、隣の帳簿を開いた。
貴族への貸付、倉庫買収、運送組合への出資、王国債。
ずいぶん立派になった。
なのに、その途中で見覚えのある項目が出てきた。
『おやつ代』
「……まだ使ってんの、これ」
孤児院で帳簿を教えた時に、私が作った項目だ。
食費、薬代、衣服代、薪代、おやつ代。
しかも七が入る計算だけ、今でも二度確認している。
「そこまで残さなくていいだろ」
「あぁ?」
低い声が飛んできた。
振り返る。
金庫の入口に、派手な女が立っていた。
服も化粧も装飾品も高そうだ。金庫の中身が自分で歩いてきたみたいな格好をしている。
後ろには男が十人。
でも、目元は変わっていなかった。
「テメェ、ウチの金庫で何してんだコラ」
ルシアだった。
「いい度胸じゃん。どこのモンか知らねぇけど、名前も口座も取引先も全部潰して、それでも足りなきゃ裏水路に沈めんぞ」
ずいぶん立派な商人になったものだ。
商売の話が一つもない。
私は帳簿を閉じた。
「七を書くたび二度確かめる癖、まだ直ってないね」
「……は?」
「それと『おやつ代』。国を相手にする帳簿に、孤児院の家計簿を残すんじゃないよ」
ルシアの顔から表情が消えた。
「……テメェ、それ誰に聞いた」
男たちが一斉に刃物を抜く。
「誰にも聞いちゃいない」
帳簿を脇へ挟む。
「教えたのは、あたしだから」
昔と同じ調子で言った。
「ルシア。背筋」
「はい!」
ルシアの背筋が伸びた。
金庫が静まり返る。
「姐さんが……」
「返事した……」
本人も固まっていた。
「……かあちゃん?」
「そう」
「……マジ?」
「マジ」
「何で若ぇんだよ」
「長くなるから後」
ルシアの目が潤んだ。
「……ほんとに、かあちゃんなんだな」
「だからそう言ってるだろ」
「……そっか」
濃い化粧の下から、涙が一本落ちた。
「泣くなら先に化粧落としな。服につくよ」
「そういうとこ、マジ変わってねぇ……」
もう一本落ちた。
私は帳簿を差し出した。
「で、これは何」
「今それやる?」
「夜明けまで時間がない」
「再会したばっかじゃん」
「だから急いでるんだよ」
ルシアは鼻をすすり、帳簿を受け取った。
「王都の現銀、もう三割切ってんだ」
「うん」
「両替商二つ締めれば現金欲しい連中が殺到する。そこに穀物寝かせて運送止めりゃ、商人も現金抱える。明日の昼には相場が跳ねる」
明日の昼にはパンが買えなくなる。
「それで?」
「二日で王家が頭下げる。長引かせるより被害少ねぇだろ」
「二日でも長い」
「最短だぞ?」
「人を困らせる速さを競ってどうする」
ルシアが口を尖らせた。
「そもそも王家が悪いじゃん。かあちゃん殺したんだろ?」
「だから復讐するなって言った」
「聞いた」
「聞いてこれ?」
「うん」
「いい返事するんじゃないよ」
ルシアは帳簿を抱えたまま黙った。
「……だって、かあちゃん金なかったじゃん」
「何?」
「アタシら食わせるために盗んでたんだろ。金ありゃ盗らなくてよかった。捕まらなかった。殺されもしなかった」
言葉が止まる。
「だったら、アタシが金を握ればいいじゃん」
泣いた跡の残る顔で、ルシアはこっちを見た。
「食いもんも、運ぶヤツも、貸すヤツも、全部ウチが握っとけば、誰もアタシらみたいにならねぇ。誰も、かあちゃんみたいなことしなくて済む」
帳簿の端から、『おやつ代』の文字が覗いていた。
十五年経っても消さなかった理由くらい、分かる。
でも、それとこれは別だ。
「明日、穀物を止めたら、最初に食えなくなるのは誰」
ルシアが黙った。
「……金のないヤツ」
「昔のあんたたちみたいな子だよ」
帳簿で胸を軽く叩く。
「金のない子に飯を食わせることと、町中の金を握ることは違う。あたしが教えたのは前の方だ」
「……」
「国ごと締め上げろなんて、一度も教えてない」
ルシアは何も言わなかった。
涙で少し崩れた化粧を、親指で拭う。
昔は泥だった。
今はずいぶん高そうな化粧になった。
「落ちにくいな、これ」
「そこ?」
「あとで顔洗いな」
「……うん」
ルシアは鼻をすすり、『おやつ代』を指でなぞったあと、部下へ向き直った。
「聞いたろ。停止命令、全部中止」
「ぜ、全部ですか?」
「全部。かあちゃんがダメっつってんだろ」
帳簿でルシアの胸をもう一度押した。
「あたしを理由にするな」
「え?」
「自分で決めな」
ルシアは黙った。
しばらくして、帳簿を抱え直す。
「……アタシがやめる」
今度は部下を見た。
「全部止めろ」
「はい!」
部下たちが一斉に走り出した。
これなら夜明けまでには間に合う。
私は懐から三通の指示書を出した。
「これも預かっとくよ」
「いつ盗った?」
「さっき」
「マジかよ。そこだけ全然変わってねぇじゃん」
「褒めても返さないよ」
ルシアは呆れた顔をしながら、通りかかった部下を呼び止めた。
「おい。資金経路、三本作っとけ。かあちゃん関係は別勘定」
「いらない」
「宿も飯も情報も金いるじゃん」
「自分で稼ぐよ」
「また盗む気?」
「……」
「ほら」
「必要な分だけ」
「了解」
即答だった。
嫌な予感がする。
金庫の外から、重い足音が近づいてきた。
「我が主君! ご無事であったか!」
「ダルガの兄貴、遅くね?」
「潜入を禁じられておったのでな」
律儀すぎる。
ルシアは私とダルガを見比べ、満足そうに頷いた。
「武力は兄貴、金はアタシ。これで回るっしょ」
「何を?」
「え?」
「何を回す気なの」
ルシアが口を閉じた。
ダルガも黙った。
非常に嫌な沈黙だった。
「とにかく、まず自分の暮らしをちゃんとしな」
「はいはい」
「ルシア」
「はい!」
まだ反射で返事するらしい。
その時、男が一人、金庫へ駆け込んできた。
「急報です! ノア様が昨夜の西塔崩落を『主の帰還の徴』と説き、夜明けより王都で大集会を開くとのこと!」
ルシアが舌打ちした。
ダルガは目を伏せた。
「主の帰還って……」
二人が私を見る。
聞きたくない。
でも聞かなきゃいけない。
「……誰のことだい」
二人とも答えなかった。
「……今度は、あたしを神様にする気かい」




