商品を売りに来たのに
朝から、気味が悪いくらい順調だった。
昨日まで散々つまずいた共同輸送なのに、今日は直すところが見つからない。村ごとにばらばらだった麦は品質別に分けられ、薬草にも湿った束は混じっていない。荷台の隙間まで詰め方を決め、帰りには塩や布、工具を載せる手配も済んでいた。
「現在の見込みでは、輸送費を差し引いても十分に利益が残ります」
隣ではハロルドが、いつもの顔で帳簿を見ている。
「その『現在の見込みでは』って言い方、やめて」
「状況が変われば、数字も変わりますので」
「昨日まで何回変わったと思ってるの」
「四回です」
「数えなくていい」
前を走る荷馬車にも、今のところ直すところはなかった。遅れも荷崩れもなく、市場価格が落ちたという知らせも来ていない。
普通に商品を運んでいるだけなのに、妙な達成感がある。
途中の宿場で休憩した時、向かいの店先に見覚えのある女がいた。
旅商人みたいな地味な外套を着て、顔の半分まで布で隠し、果物を選ぶふりをしている。
でも、店先に置かれた金属皿の反射で、ずっとこっちを見ていた。
ルシアだ。
最初は林の中にリアム。その次は藁山にダルガ。そして今日はルシア。
どうやら交代でついてきているらしい。
本人たちは隠れているつもりなので、見なかったことにした。
「何かありましたか?」
「何も」
「承知しました」
ハロルドも余計なことは聞かなかった。
昼を過ぎた頃、街道が大きな川沿いへ出た。
最初に目についたのは船より荷物だった。馬車なら何台も必要になりそうな樽や木箱を、一艘の船がまとめて積んでいる。岸でも荷が次々と積み替えられていた。
「船って、結構な量を運べるんだね」
「大量輸送には向いております。ただし、我々の領地から河港までは陸送が必要ですので、現状では馬車の方が管理しやすいかと」
「使えるなら使えばいい、ってほど簡単じゃないのか」
「はい」
そこまで話したところで、前を走っていた荷馬車の速度が落ちた。
街道の先に黒い煙が上がっている。
「火事?」
「河港方面です」
近づくにつれ、煙より人の動きの方が気になった。
川へ向かって桶を運ぶ人。空になった桶を抱えて戻る人。焼け落ちた木材を道端へ寄せている人。
火そのものは、もうほとんど消えていた。
なのに、倉庫の周りだけ人が多い。
「状況を確認します」
ハロルドが馬車を降り、あたしも続いた。
大通りへ入って、最初に探したのは食べ物だった。
炊き出しの鍋も、パンを配っている人も見当たらない。
川沿いの倉庫は何棟も焼け、周囲の家まで黒く焦げている。広場には怪我人や焼け出された人が集まっていた。
近くにいた男へ声をかける。
「食料は?」
「北倉庫に入れてた分が全部焼けました。町で使う分も、船へ積む予定だった分もです」
「残ってるのは?」
「教会と何軒かの店に少しだけです。この人数じゃ、三日ももちません」
三日。
こっちの荷馬車には、麦も豆も積んでいる。
さっきまで売り物にしか見えなかった袋が、急に何人分の食事かに見えてきた。
しばらくして、町を見て回っていたハロルドが戻ってきた。
「出火元は河岸の油倉庫です。夜番のランプが倒れ、荷縄へ燃え移った事故と見られます。延焼は止まりましたが、食料倉庫三棟が焼失。負傷者も多く、町の備蓄では足りません」
「今日の食事は?」
「不足しています」
「そう」
「契約時刻には、まだ間に合います」
このまま出れば、今日の売買そのものは成立する。
この売上を当てにした次の仕入れもある。初回の大口契約を破れば、今後の取引にも響くだろう。
どう言おうか考えた。
その前に、ハロルドが続けた。
「ですので、契約は諦めます」
「……え?」
「全車停止。食料を降ろします」
今までなら、そこはあたしが言うところだった。
「これ、村から集めた分だろ?」
「領主府が買い取り済みです。村への支払いは減らしません」
「じゃあ、損するのはこっちだけ?」
「はい。かなりの赤字になります」
「分かって言ってる?」
「承知しています」
ハロルドは広場の方を見た。
空の器を抱えた子どもが、母親らしい女の隣に座っている。
「昨日、院長先生から計算対象を広げるよう指示されましたので、この町の人数も現在は計算対象です」
昨日見た、古い帳面を思い出した。
むぎ 5。
ぱん 3。
あした だいじょうぶ。
この子は、あたしが言う前に決めていた。
「……じゃあ全部降ろしな」
「全量ですか」
「今日だけ食べさせても仕方ないだろ。明日の朝も腹は減る」
「承知しました。食料は全量供出します」
荷台を開けると、周囲の人たちが一斉にこちらを見た。
「麦はこっち! 豆は鍋の近くへ持ってって! 怪我人は先に座らせな。歩ける人は運ぶのを手伝って!」
こういう時は、まず食べさせる。
怪我人を診る。
明日のことは、そのあとだ。
四十七人を抱えていた頃から、そこだけは変わらない。
大鍋を出して火を起こし、輸送隊の中で手当てのできる者は怪我人へ回した。アデリアのところへは、ハロルドがもう早馬を出している。
あたしも麦袋を抱えて運ぶ。
「院長先生。それは一人で持つ重量ではありません」
返事の代わりに、足元のもう一袋も抱えた。
「今は人手が足りない」
ハロルドは黙った。
日が傾く頃には、ひとまず全員へ食事が回った。
当然、今日の売買契約にはもう間に合わない。
さっき空の器を抱えていた子どもが、今はパンを両手で持って食べている。
その横でハロルドは、配給表へ人数を書き込んでいた。
あの子も、一人として抜かさず数えている。
「足りる?」
「今夜と明朝分は問題ありません。その後は追加搬入が必要です」
「領地から持ってこられる?」
「可能です。五年分ありますので」
「……そこで五年分が役に立つとは思わなかったよ」
「備蓄は、使用するためのものです」
その返事だけは、ちょっと気に入った。
夜になると、販売先から使者が来た。
「商品の到着が確認できなかったため、本日の取引は不成立となります。初回契約でしたので、次回以降については改めて協議となりますが、契約書に基づく違約金は発生します」
「申し訳ありません。承知しております」
ハロルドが頭を下げた。
約束を破った分の罰金だ。
金額を聞いて、思わず横を見る。
「……結構な額だね」
「はい」
「顔色一つ変えないんだ」
「想定済みですので」
「それでも嫌なもんは嫌だろ」
「嫌ですが、判断を変更する理由にはなりません」
前なら、まず損を減らす方法を並べていたはずだ。
今は、損すると分かった上で食料を降ろした。
それで終わりにはならなかった。
食事があっても、家を焼かれた人には寝る場所がない。教会も焼け残った倉庫も、もう人でいっぱいだった。
「一時避難が必要なのは何人?」
「三百十二名です。うち子ども六十八名、高齢者四十一名。負傷者は別途、搬送手段が必要です」
そこへ領地へ送った早馬が戻ってきた。
ハロルドが返書を開く。
「アデリア様より、三百十二名まで受け入れ可能との回答です。全員、連れて帰るべきだと考えます」
「理由は?」
「ここへ残した場合、食料だけでは足りません。寝床、医療、水、衛生設備も不足しています。我々の領地へ移した方が安全です」
「費用は?」
「増えます。ただし、ここへ残した場合より損失は小さいと判断します」
「何の損失だい」
ハロルドは少しだけ考えた。
「人です」
「……それならいい」
「商品を降ろした荷馬車を、人員輸送へ転用します」
「歩けない人から乗せて」
「承知しました」




