あした だいじょうぶ
その夜、あたしはハロルドの執務室で、売上と次の出荷量を確認していた。
「売れた分、全部配っちゃ駄目なんだよね」
「はい。倉庫の整備、荷車の修繕、次期作付け用の種子、緊急備蓄への積み増しが必要です」
「でも、働いた人に返す分まで削るんじゃないよ」
「配分率を調整します」
ハロルドは確認用の古い資料を取り出そうとして、壁際の金庫を開けた。
領地印、土地台帳、軍事用の地図、備蓄倉庫の予備鍵。
領地の大事な物ばかりが並ぶ奥に、一冊だけ場違いな物が混じっている。
糸で綴じただけの、小さな帳面だった。
紙は黄ばみ、角も擦れている。
「……何、それ」
「古い在庫帳です」
「見せて」
渡された帳面を開く。
最初の頁には、子どもの拙い字が残っていた。
むぎ 5
ぱん 3
次の頁には、何度も書き直した引き算が並んでいる。
その下に、
あした だいじょうぶ
と書いてあった。
「……これ、まだ持ってたの」
「はい」
「こんなの、とっくに捨てたと思ってた」
「廃棄する理由がありませんでしたので」
「ただの練習帳だよ」
「私には在庫帳でした」
ハロルドは、いつもの調子で答えた。
「倉庫に麦がどれだけあり、一日に何個パンを焼けるのか。院長先生に計算を教えていただいたことで、明日も食事があると確認できましたから」
覚えていた。
パンを枕の下へ隠すのを、何度叱ってもやめなかった頃だ。
ある日、あたしはハロルドを倉庫へ連れていった。
麦袋を一緒に数えて、これだけあれば何日食べられるかを計算させた。
その夜、この子は初めてパンを隠さずに眠った。
「……だから五年分?」
「五年あれば、大抵の不作には対応できます」
「長いよ」
「不足していますか?」
「逆だよ」
帳面を閉じて返した。
「でも、それだけあるなら、自分たちだけで抱え込まない。隣の村が不作で困ってて、こっちに余ってるなら回してやりな。返してもらうのは来年でも、その次でもいい」
「返済条件を後から設定すると」
「まず冬を越させる」
ハロルドはすぐには答えなかった。
いつもなら数字へ飛びつく男が、しばらく古い帳面を見ている。
「……承知しました」
それから、ようやくいつもの顔へ戻った。
「領内の備蓄量を村ごとに管理し、余剰のある地域から不足地域へ融通できるようにします。近隣領との連携も可能か確認します」
「そうして」
ハロルドは古い帳面を、領地印や軍事地図の隣へ戻した。
「……そこに入れとく必要ある?」
「最重要資料ですので。現在の備蓄計画の原点です」
そう言われると、もう何も言えなかった。
◆
翌朝、領主館の前には、これまでで一番大きな輸送隊が並んでいた。
品質ごとに商品を分け、販売先も一か所には集中させない。帰りに何を持ち帰るかまで決めてある。
ハロルドが最後の帳簿を閉じた。
「予定通り出発できます」
「今度こそ、普通に売って帰ってくるよ」
「はい」
「密輸しない」
「はい」
「市場も潰さない」
「はい」
「勝手に王都も攻めない」
「今回は王都方面ではありません」
「場所の話はしてない」
御者たちが笑いをこらえていた。
「とにかく、売って、必要な物を買って、帰る。それだけだからね」
「承知しました」
先頭の馬車へ乗り込む。
盗んで食べさせていた頃は、失敗して捕まっても、困るのはあたし一人で済んだ。
でも今回は違う。
この荷台には、村の人たちが一年かけて作った物が積んである。
売れなければ、困るのは作った人たちだ。
人の物を預かって運ぶのが、こんなに落ち着かない仕事だとは思わなかった。




