千人も連れてくんじゃないよ
数日後、あたしとアデリアを乗せた馬車は王都を離れ、北部のローデン領へ入っていた。
「ハロルドたちは、本当に領地のためによく働いてくれています」
向かいに座るアデリアは、窓の外に広がる麦畑を眺めながら、もう何度目か分からないハロルドの話をしていた。
「特にハロルドの事務能力は凄まじいのです。税の集計から物資の配分まで、彼が担当するようになってから大きな計算違いは一度もありません。領民からの信頼も厚く、昨年の水害でも皆が混乱する中、その日のうちに必要な食料と人員を割り出して復旧計画を組み直したのですよ」
「へえ」
話を聞けば聞くほど、まともだった。
ダルガは城を吹き飛ばしかけ、ルシアは国の経済を握ろうとし、ノアはあたしを神様にしかけ、リアムは王族を殺そうとした。エルザは、その残りをまとめ上げていた。
その中でハロルドだけは、復讐でも組織でもなく、誰かの隣で普通に働いている。
王宮を出た日は、そう思った。
エルザから「三日間、定期報告が途絶えている」と聞いていなければ、今も安心していたと思う。
窓の向こう、少し離れた林で黒い影が木の陰へ引っ込んだ。たぶんリアムだろう。見なかったことにした。
「ハロルドは、幼い頃から数字が得意だったのですか?」
「得意っていうより、数字にしがみつく子だったね」
「しがみつく?」
「……昔の話だよ」
パンを枕の下へ隠して怒られていた子が、今では領地の食料と物資を管理している。
悪い育ち方じゃなさそうだった。
そう思えたのは、領主館のある村へ近づくまでだった。
「……ねえ、アデリア。この辺って国境だった?」
「いいえ。国境まではまだかなりありますが」
「じゃあ、あれ何」
道の両側に太い丸太を組んだ馬防柵が並んでいた。その先には急ごしらえの見張り台まで建ち、麦を積むはずの荷車には槍と矢束、水樽、干し肉、予備の盾まで積まれている。
泥棒をやっていると、荷物を見るだけで、だいたい何をするつもりか分かる。
これは旅支度じゃない。
戦の支度だ。
「馬車、止めて」
止まりきる前に広場が見えた。
農夫も職人も混じった千人近い男たちが槍を持って並び、装備はまちまちなのに隊列だけは妙に揃っている。
「第一陣は予定通り二十分後に出立してください。第二陣は輜重隊との間隔を半刻維持。全軍通過後、王都側から追撃に利用可能な二本の橋を落とします」
よく通る声だった。
長い髪を後ろで束ねた青年は、あたしが覚えている痩せた男の子とは似ても似つかない。
「王都到着後は西門を封鎖し、アデリア様の身柄確保を最優先とします。王家が交渉に応じない場合は、行政機能を順次停止させます」
橋を落として、門を塞いで、役所まで止める。
迎えに行く話じゃない。
王都を丸ごと止める話だ。
「おおおおお!」
領民たちが武器を掲げた。
あたしは馬車の扉を開け、そのまま外へ飛び降りた。
「ハロルド!」
続いて降りたアデリアの声に、長髪の青年が振り向いた。
「アデリア様」
ハロルドは騒ぎもせず、こちらまで歩いてくると普通に頭を下げた。
「ご無事でしたか」
「無事です! それより、これは何なのですか!」
「王家がアデリア様へ不当な罪を被せたとの急報が入りましたので、救出準備を進めておりました」
「救出で、千人……?」
「王都まで三日ですので、必要最低限です」
アデリアの声がかすれた。
「誤解は解けました。私は無事ですし、王家との話も終わっています」
「左様ですか」
ハロルドは一度だけ頷き、そのまま領民軍へ向き直った。
「状況が更新されました。王都侵攻作戦は中止します」
広場が静まり返った。
「各隊はただちに武装を解除してください。秋麦の収穫計画に遅れが発生しておりますので、本日は第一農区と第三農区を優先します。槍は倉庫へ、荷車は農作業用へ戻してください。以上、解散」
「は、はい!」
さっきまで王都を攻めようとしていた千人が、ぞろぞろと散っていった。槍を置いた男が鍬を担ぎ、盾を抱えていた若者が農具を荷車へ積み始める。
たった一言で千人が集まり、たった一言で千人が畑へ戻る。
この子の一声で、この領地は戦にも農作業にもなるらしい。
定期報告が途絶えた理由も、だいたい分かった。千人分の兵糧と行軍予定を組んでいたら、エルザへの報告書一枚くらい後回しになる。
いや、後回しにするな。
「……今、何書いてるの」
ハロルドは、もう手元の紙へ何か書き込んでいた。
「侵攻中止に伴う作業計画の修正です。農作業へ戻す人員と、武器の点検担当を再配置しております」
「終わった話みたいに言うね」
「終わった案件ですので」
アデリアが額を押さえた。
「院長先生」
ハロルドが顔を上げる。
「……なんで分かった」
「目元と口元は変わっておりません。年齢差を考慮すれば一致します」
それだけ言って、深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
「……もうちょっと驚きな」
「驚いております」
顔色一つ変わっていない。
そのままハロルドは、また紙へ何かを書き足した。
「今度は何」
「領民軍の再動員条件を一件追加しました」
「……追加?」
「院長先生が何者かに不当に拘束、または危害を加えられた場合です」
あたしはハロルドの手から紙を取り上げ、その一文へ線を引いた。
「なし」
その下にも続きがあった。
『アデリア様と同等の緊急度として、救出を最優先とする』
そこにも線を引く。
「そこもなし」
「承知しました」
素直すぎる。
泣きもしないし、抱きつきもしない。その代わり、十五年ぶりに会って最初にやったことが、あたしのために千人を動かす条件を増やすことだった。
この子なりの「おかえり」なのかもしれない。
千人動く時点で、まったく安心できないけど。
「あんた、昔はパンを枕の下に隠して、見つかったら泣いてた子だろ」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「それが今は?」
「領地内に食料備蓄を五年分確保しておりますので、個人で隠す必要はありません」
「……五年は長いよ」
「不足する可能性を排除しただけですが」
パン一個を枕の下へ隠していた子が、今では領地五年分を隠している。
やっていることは、あまり変わっていない。守ろうとしている人数だけが、とんでもなく増えた。




