一番盗られたくないもの
「念のため、もう一度確認するよ。誰も殴らない。剣も抜かない。金も宝石も持って帰らない」
三人とも準備だけは万全だった。ダルガは黒い外套を着ても体格のせいで全然隠れていないし、リアムは今にもそのまま闇へ溶けそうな格好をしている。ルシアに至っては屋敷へ入らないくせに、帳簿まで持ってきていた。
「拙者の配下には、逃走者が出ても追跡のみに留めるよう命じてある。抜刀も接触も禁じたゆえ、ご安心くだされ、我が主君」
「襲われても?」
「避ける」
「よし」
「アタシんとこも準備できてる。公爵家から普段と違う金が動いたら、すぐ分かるぜ」
「全部止めたら駄目だからね」
「分かってるって。逃げ金っぽい大口だけ。普通の取引には触らねぇよ」
「数日前まで国の経済ごと潰そうとしてた子を、金のことで丸ごと信用できると思うかい」
「マジ昔の話じゃん」
「数日前だよ」
ルシアが口を尖らせる横で、私はエルザから渡された一覧を確認した。
必要なのは金じゃない。誰が寄付し、誰が便宜を受け、断った相手に何が起きたのか。それから、アデリアを追い込んだ一連の妨害に、公爵家が関わっていたと分かる記録だ。
「持って帰るのは、これに関係するものだけ。余計な物には触らない」
「承知している」
「じゃあ、行くよ」
「我が主君」
ダルガが胸へ手を当てた。
「ご武運を」
「泥棒にかける言葉じゃないよ」
そう返したものの、少しだけ引っかかった。
十五年前、夜に出ていく私へ、こんな言葉をかける子はいなかった。もっとも、行き先も帰る時間も教えず、寝静まってから勝手に出ていたのは私だ。
「……行ってくる」
リアムと二人で、公爵邸の裏手へ向かった。
◆
貧乏な家は、夜になると暗くなる。蝋燭一本にも金がかかるからだ。
金持ちの家は逆で、夜になるほど明るい。
エルグランド公爵邸の庭には、真昼みたいに灯りが並んでいた。
「巡回は八分間隔。次に戻るまで七分二十秒」
裏塀に沿って進みながら、リアムが声を落とした。
「なら十分だね」
明るければ安全というわけじゃない。人間は灯りの中にいると安心して、その外側を見なくなる。明るい場所が増えるほど、見なくていいと思い込む影も増える。
塀際の植え込みを抜け、使用人棟の裏へ回ったところで、リアムが板張りの通路へ足を出した。
「そこ、鳴るよ」
足が止まった。
一枚隣へ置き直す。
今度は鳴らない。
「……いつから気づいていた」
「入る前から」
「相変わらず、先を行く」
「そうでもないよ」
腕はものすごくいい。
ただ、この子は上手くいっている時ほど、ほんの少し歩幅が広くなる。子どもの頃から直らない癖だ。
使用人用の裏口へ着くと、リアムが錠前を見た。
「これなら十五秒」
「開けないよ。床見な」
扉の前だけ、細かな砂が左右へ擦れている。ここは使用人が頻繁に通る。下手に錠を触って痕跡を残す方が面倒だった。
「あっち」
少し離れた料理受け渡し用の小窓を指す。
リアムが幅を見る。
「狭いぞ」
「だから誰も気にしてないんだよ」
扉には新しい錠を三つも付けているくせに、小窓の留め具は古いままだった。
泥棒にとって厄介なのは、立派な鍵じゃない。
立派な鍵を付けて、それで安心する人間だ。
留め具を外して中へ滑り込む。
続いてリアムが入ってきた。
「……今の入り方は、人間の速さではなかった」
「ああ。死んだあと、別の世界に行ってたからね。若返ったり、魔王倒したり、色々あった」
リアムの足が止まった。
「……異界の魔王を」
「詳しい話は今度。潜入中だよ」
「……必ず聞く」
厨房裏へ出ると、今度はリアムが先を取った。
足音はほとんどしない。
泥棒を教え始めた頃は、床板一枚踏むだけで孤児院中を起こしていたのに、十五年も経てば変わるものだ。
廊下の角へ差しかかったところで、予定より早く衛兵の灯りが近づいてきた。
七分二十秒どころか、まだ半分も経っていない。
リアムの手が反射的に袖へ動き、途中で止まった。
「触らなくていい」
近くの飾り紐を抜き、反対側の廊下へ滑らせる。燭台の脚へ当たって、小さく音が鳴った。
「誰だ?」
衛兵がそちらを向く。
その間に反対側へ抜けた。
「……ちゃんと覚えてるじゃないか」
「誰に教わったと思っている」
「だったら最初から針へ手を伸ばすんじゃないよ」
「癖だ」
あの子の手は十五年かけて、人を刺す方へ馴染んでしまった。
それでも止まったなら、今はそれでいい。
階段へ入ったところで、リアムの歩幅が少し広くなった。
「歩幅」
「……何だ」
「急ぐと広くなる。昔からだよ。足音が変わる」
「この歳になってまで歩き方を叱られるとは思わなかった」
「何歳になったって、癖は癖だろ」
暗がりでも分かるくらい嫌そうな顔をした。
そこだけは、昔と大して変わっていない。
◆
「この先は図面にない」
屋敷の奥まで来たところで、リアムが止まった。
目の前にはただの壁しかない。
「古い図面では廊下が続いている。改修後は、この場所そのものが消えている」
「消したんじゃない。隠したんだよ」
壁を叩く必要はなかった。
絨毯の端だけ、壁の前で毛並みが寝ている。
「ここ、人が通ってる。掃除してないところほど床は正直だからね」
絨毯をめくると、壁際へ細い傷が続いていた。
棚を少しずらし、裏に隠された金具を押す。
壁の一部が、わずかに奥へ沈んだ。
「……やはり、俺より先に見る」
「悔しけりゃ、もっと練習しな」
隠し通路の先は一本道だった。
奥には人の気配もある。
ここから先へ入れば、帰りも同じ道を使うことになる。
「リアム。ここまで」
「俺も行く」
「帰り道を見てて」
「二人なら早い」
「金庫を開けながら後ろまで気にする方が遅いんだよ。誰か来たら合図して」
「俺なら、中まで守れる」
「弟子なら、師匠の逃げ道くらい守りな」
リアムはしばらく黙ったあと、壁へ背を預けた。
「……承知した」
背を向けたところで、低い声が聞こえた。
「必ず戻れ」
足が止まった。
私が帰らなかった夜、この子は一人で王都中の牢を開けて回った。
同じ夜を、二度もやらせるわけにはいかない。
「戻るよ。だから待ってな」
今度こそ、一人で奥へ入った。
◆
金庫室は、呆れるほど金をかけていた。
分厚い鉄扉に機械式の錠。その上から魔力錠まで後付けし、壁には開閉を感知する術式まで彫り込んである。
これだけ金があれば、孤児院の屋根を何度直せただろう。
全部を正面から相手にする気はなかった。
魔力錠だけが扉より新しい。あとから足した物なら、古い機構との継ぎ目がどこかにある。
扉の縁を指でなぞる。
右下だけ、塗装がわずかに剥げていた。
しゃがんで見ると、小さな整備蓋がある。
「……やっぱりね」
細い板を差し込み、内側の留め具を持ち上げる。
魔力錠そのものを破る必要はない。整備用の機構から後付け部分だけ切り離せば、残るのは昔ながらの錠だ。
新しい物を足せば、そのぶん古い物との継ぎ目が増える。
針を二本差し込み、中の金具を探った。
最後の引っかかりを少し戻して押す。
重い扉の向こうで、錠が外れた。
巡回が戻るまで三分もない。
中には金貨も宝石も、王家から贈られたらしい品も並んでいた。
全部いらない。
奥の書類箱だけを見る。
一冊目は普通の収支。
二冊目も違う。
三冊目には表紙すらなかった。
開く。
名前。
金額。
その横に、短い指示。
茶会へ寄付した家には、商会の紹介、官職への推薦、王家への取り次ぎ。
拒んだ家には、取引停止、縁談への介入、儀礼上の不利益。
「……あった」
さらに頁をめくる。
ローデン辺境伯家。
茶会への寄付を拒否。
三商会との取引停止。
北部向け物資の延期。
補佐役ハロルドの領地帰還を確認。
王都滞在中は儀礼上の失点を誘発。
最後には、王家の記章を持ち出す実行役まで手配してあった。
別の箱には手紙も残っている。
商会へ物資の発送を遅らせるよう頼んだもの。
儀礼担当へ、アデリアには旧手順を伝えるよう指示したもの。
名はぼかしてあったが、日時と内容が帳簿に一致する。
頼れるハロルドを先に領地へ戻し、その間にアデリアへ失敗を積ませた。
あの子が靴擦れを隠して一日中走り回っていた裏で、こいつらは紙の上に順番まで書いていたらしい。
私は金貨にも宝石にも触れず、帳簿と必要な手紙だけをまとめた。
こいつらが一番盗られたくないのは、金でも宝石でもない。
自分たちが何をしたのか、誰にも見つからないことだ。
だったら、盗るのはそこだけでいい。
帳簿を抱え、開けたばかりの金庫を振り返った。
十五年ぶりの泥棒仕事にしては、悪くなかった。




