かあちゃん。令嬢の口じゃなかったぜ
広間の静けさは、まだ続いていた。
嫌な静まり方だった。こういう時は、だいたい全員が「次に誰が咎められるのか」を待っている。
今夜は令嬢として挨拶をして帰るだけのはずだった。それが初めての舞踏会で、王太子の婚約破棄にまで口を挟んでいる。
「あなた、いったい何者ですの?」
公爵夫人が扇子を閉じた。
「どこの家のご令嬢か存じませんが、王家の裁定にそのような口の利き方をなさるとは」
喧嘩を売られるのは慣れている。
困るのは、名前を聞かれることの方だった。
「待て」
王太子が手で公爵夫人を制した。
さっきから、この男の視線は私から外れない。
「君は今夜の招待客なのか?」
「そうだよ」
「名を」
名乗れば、偽りの姓とレーヤという名前が、この男の記憶に残る。名乗らなければ、それだけで怪しまれる。
どう答えるか考えるより早く、公爵夫人が衛兵へ目を向けた。
「まずは、この無礼な方をお下がらせになってはいかがでしょう。先ほどからアデリア様へ不必要に接触していたようですし」
剣を帯びた衛兵が二人、こちらへ歩いてくる。
右の男はすでに柄へ手をかけている。左は私より、公爵夫人の顔色を気にしていた。
逃げるだけなら簡単だ。
でも、ここで窓や裏口へ消えたら、西塔を吹き飛ばした女と同じ動きになる。
エルザと目が合った。
「お待ちください」
私と衛兵の間へ、エルザが入った。
「何者だ」
「当ホテル『四十七夜』の運営責任者、エルザでございます」
エルザは胸元の徽章を示した。
「レーヤ様は当ホテルの正式な招待客です。また、先ほどの暴力行為、および王家の記章が一時所在不明となった件の、いずれにも関与しておりません。拘束なさるのであれば、理由をお示しください」
「拘束するとまでは言っていない」
「でしたら、剣を帯びた衛兵を二名近づける必要もございませんね」
相手は王太子だ。
正論で押す相手くらい選びな、と言いたかった。
「てかさ」
今度はルシアまで入ってきた。
「何の容疑もねぇ客を、王家の宴で衛兵に囲ませるわけ?」
「口を慎みなさい!」
「外国の使節も商人も見てんじゃん。王家主催の宴で、気に入らねぇこと言った客を衛兵で囲んだって話になったら、明日の昼にはどこまで広がると思ってんの?」
ルシアは笑っている。
こういう時の笑顔は、昔からろくでもない。
「アデリア様につきましても、必要であれば後日、正式な聴取へ応じていただけばよろしいかと存じます」
エルザが何事もなかったように続けた。
「本日は王家主催の祝賀会でございます。これ以上、招待客の前で騒ぎを広げることが、殿下のお望みでしょうか」
王太子はしばらく黙っていた。
視線がエルザから、私へ戻ってくる。
「……分かった」
衛兵へ下がるよう手を振った。
「アデリア。今日は退席しろ。事情については改めて聞く」
「殿下……」
「正式な連絡を待て」
「……承知いたしました」
アデリアが頭を下げた。
言われたことを、また全部一人で飲み込もうとしている。
私はその手をつかんだ。
「帰るよ」
「え? ですが、私はまだ」
「靴擦れしたまま、いつまで立ってるつもりだい」
アデリアが目を丸くした。
「……そこなのですか?」
「そこもだよ。これ以上いたら、あんた後片づけまで始めるだろ」
返事がない。
図星らしい。
そのまま手を引いた。
エルザとルシアも当然のようについてくる。
入口側には衛兵が残っていたが、止める様子はない。なら、わざわざ裏口を探す必要もない。
人垣を抜けながら、ルシアが小声で言った。
「かあちゃん。令嬢の口じゃなかったぜ」
「知ってるよ」
扉を抜ける直前まで、王太子の視線が背中に残っているのは分かった。
◆
「足、出して」
「自分でできます」
「できる人間は、血が出るまで履かない」
「これは、その……」
「いいから」
四十七夜の最上階。昔の院長室をそのまま残した部屋で、私はアデリアの靴を脱がせた。
右のかかとは案の定、皮が剥けて血がにじんでいる。
「こんなの、朝から履いてたの」
「式典用でしたので」
「足の皮まで式典に捧げなくていいんだよ」
冷たい水で血を拭き、清潔な布を当てて巻いていく。
包帯の巻き方は、まだ手が覚えていた。
この部屋で、四十七人分の擦り傷、切り傷、靴擦れを何度手当てしたか分からない。
アデリアはしばらく、自分の足を見ていた。
「……今日、足のことを言われたのは、レーヤ様が初めてです」
「みんな自分のことで忙しかったんだろ」
「私も、平気な顔をしておりましたから」
「平気な顔してたって、痛いものは痛い」
「……はい」
温め直させたスープを渡した。
アデリアは器を両手で受け取る。
「また食事なのですね」
「食べれば少しは頭も回るよ」
二口ほど飲んだところで、頬を一筋だけ涙が落ちた。
「……何で泣く」
「分かりません」
「じゃあ、とりあえず飲みな。冷める」
「……はい」
言われた通り、もう一口飲む。
泣いている子に理由を聞いても、だいたいすぐには答えなんて出ない。
温かいものを腹に入れて、少し落ち着いてからでいい。
しばらくして、私は包帯の端を留めた。
「それにしても、あの王太子。なんであんな簡単に婚約破棄まで言えるんだい」
アデリアは器を持ったまま、少し考えた。
「この婚約は、もともと父と王家の間で決められたものでした」
「親父さんと?」
「はい。父は先代のローデン辺境伯です。ですが、昨年、病で亡くなりました」
手が止まった。
「それで、あんたが継いだの」
「はい。現在のローデン辺境伯は私です」
「王太子と結婚したら、領地はどうするつもりだった」
「ハロルドを中心に代官を置き、私自身も王都から領地経営へ関わる予定でした。父が存命の頃から、王家とはそのように話を進めておりました」
「でも、親父さんが亡くなった」
「……はい」
アデリアはスープへ目を落とした。
「父が亡くなってから、少しずつ難しくなりました。辺境伯として領地を優先すれば、王太子妃としての自覚が足りないと言われます。王都を優先すれば、領民を置き去りにすることになります」
「それで両方やろうとした」
「どちらも果たせるよう、努力するつもりでした」
「だから寝ないで走り回ってたんだね」
返事がない。
返事をしない時は、だいたい図星だ。
「殿下にも、お立場がありますので」
「婚約破棄されたばっかりなのに、まだ庇うのかい」
アデリアは少し困ったように笑った。
「長い間、婚約者でしたから」
「……そう」
私は器を指した。
「だったら今くらい、せめてスープは自分のために飲みな」
「……はい」
残っていた分を、少しずつ飲んでいく。
「それと、ヴィオラに手を出した件」
途端に背筋が伸びた。
「……はい。処分は受けます」
「当然だよ。ワインをぶっかけて、扇子で殴った。そこはあんたが悪い」
「はい」
「腹が立ったから殴りました、で済ませたら世の中めちゃくちゃになる」
アデリアは黙って聞いている。
「でも、それと向こうが何をしたかは別」
「別……ですか?」
「そう。あんたがやったことは、あんたが責任を取る。向こうがやったことは、向こうに取らせる。ごちゃ混ぜにするんじゃないよ」
しばらく考えたあと、アデリアが小さく頷いた。
「……分かりました」
「よし。じゃあ飲みな。今度こそ冷める」
向こうがやったことは、向こうに責任を取らせる。
そう言ったものの、貴族同士がどう責任を取らせるのか、私は知らない。王家の決まりなんて、もっと分からない。
ただ、私にもできることはある。
嘘をついている奴を見つける。
隠している物を探す。
人に見せたくない繋がりを拾う。
そういう仕事なら、昔からやってきた。
そこまで考えて、隣室の扉を開けた。
中を見た瞬間、そのまま閉める。
「レーヤ様?」
「……ちょっと待って」
見なかったことにしたい物ほど、だいたい見なきゃいけない。




