みんなの前で、婚約破棄なんかするんじゃないよ!
「ほら。落とし物」
「……! どこにありました?」
「今は聞かなくていいよ。盗った側に、気づかれたって教えてやる必要はない」
アデリアは記章と私を見比べてから、すぐに頷いた。
「……承知しました」
「素直だね」
「今日だけで、すでに何度も助けていただいておりますので」
「そういうとこだよ。あんた、人を信用しすぎ」
「……耳が痛いです」
「王家の物なんだから、戻ったことも含めてちゃんと報告しな」
「はい。式が落ち着き次第、殿下にも」
もう少し疑うことを覚えな、と言いかけたところで、背後から柔らかな声がした。
「まあ、アデリア様。今夜もずいぶんお忙しそうですこと」
年配の公爵夫人と、その娘らしい若い令嬢が立っていた。
服にも宝石にも隙はない。
笑顔にも。
でも、財布を探す顔じゃない。
人の困りごとを探す顔だった。
泥棒より、よほどたちが悪い。
「エルグランド公爵夫人。ヴィオラ様。本日はお越しいただきありがとうございます」
アデリアはすぐに礼を取った。
「真面目なのは結構ですけれど、社交というものは帳簿通りには動きませんのよ」
公爵夫人が扇子で口元を隠す。
「母のお茶会にも、結局お顔を出してくださいませんでしたものね」
ヴィオラも笑顔のまま続けた。
「王家の祝賀会とは関係ございませんので」
「寄付についても?」
「必要性を感じませんでした。王家の行事を滞りなく行うために、私人へ多額の寄付を行う理由が、私には分かりません」
「若い方は、正しいことがお好きですのね」
間違っているとは言わない。
世間を知らない子どもの話に変えた。
「そういえば、北部へ送られる薬と穀物。まだ出荷されていないそうですわね」
アデリアの顔が変わった。
「……なぜ、それをご存じなのですか」
「商会には知人が多いものですから」
「急に三つの商会から取引を断られました。そのせいで、ハロルドまで領地へ戻したのです」
「でしたら、もう心配はいらないのでは? ハロルド様は優秀なのでしょう?」
「薬を待っている者もいるのです」
「数日程度なら、現地の者でどうにかできるでしょう」
アデリアの指が杯を強く握った。
「……あの村には、子どももいるんです」
「でしたら、なおさら現地の方々を信頼なさるべきですわ。何もかもご自分で抱えていては、王家のお務めまで疎かになってしまいますもの」
「薬を待っている人にとっては、その数日が長いのです」
ヴィオラは笑っていた。
悪いことを言っているつもりすらなさそうだった。
だから、まずいと思った。
次の瞬間、赤いワインがヴィオラの顔へかかった。
広間の話し声が止まる。
「……今のお言葉を、撤回してください」
アデリアの声が震えていた。
「薬を待っている人に、『数日くらい』なんて言わないでください」
「アデリア様!」
公爵夫人が声を上げる。
「ご自分が何をなさったか分かっていらっしゃるのですか!」
「分かっています」
「ずいぶん感情的ですこと」
ヴィオラは濡れた頬を拭いながら、まだ笑っていた。
「撤回してください」
「何をでしょう?」
アデリアの手が上がった。
「お待ち!」
間に合わなかった。
扇子がヴィオラの肩へ当たった。
そこまでやったら、駄目だ。
「何事だ!」
王太子が人垣を割って入ってきた。
公爵夫人が待っていたように駆け寄る。
「殿下! 娘が突然ワインを浴びせられ、そのうえ暴力まで!」
王太子がまず見たのは、ワインに濡れたヴィオラだった。
「……君がやったのか」
「はい。ただ、理由を」
「理由は後で聞く。今は一つだけ答えてくれ。自分の意思で、この二人へ手を上げたのか」
アデリアは一瞬だけ黙った。
それでも逃げなかった。
「……はい」
「殿下」
公爵夫人が続ける。
「先ほどは、王家よりお預かりになった記章まで一時所在不明になったと伺っております。それでも私どもは、祝宴の最中ですから事を荒立てまいと」
私は公爵夫人を見た。
おかしい。
記章の件は、まだ会場へ出していない。
「それは!」
「アデリア」
王太子が止めた。
「席次変更を巡る混乱。業者との相次ぐ問題。そして今夜は、王家の記章まで所在不明になった」
「そのすべてに事情があります」
「事情は改めて確認する。だが、今この場で招待客へ手を上げたことは、君自身の判断だ」
「……はい」
そこは間違っていない。
手を出したのはアデリアだ。
でも、並べ方がおかしい。
席次。
商会。
記章。
一つなら事故でも、三つ並べば話が変わる。
しかも、その一つを知るはずのない女が、もう知っている。
「君は王太子妃となる立場だ。王家主催の席で感情に任せ、招待客へ暴力を振るった以上、これ以上婚約を維持することはできない」
広間がざわついた。
アデリアの顔から色が消える。
「本日をもって、君との婚約を破棄する」
「……承知、いたしました」
泣かない。
言い訳もしない。
ただ頭を下げた。
エルザが「目立つな」と言いたかった理由くらい、私にも分かっている。
西塔を吹き飛ばした女は、まだ探されている。
王家の紋章の下で、王太子の前へ出ていくなんて、泥棒のやることじゃない。
それでも、足は動いた。
アデリアの隣へ立ち、背中に手を置く。
触れて初めて、肩が震えているのが分かった。
少し前まで、私はこの子に料理を食べさせていた。
右足を痛めながら走り回り、領地の薬と穀物まで気にして、それでも祝賀会を失敗させまいとしていた。
その子が手を出した。
そこは叱られるべきだ。
「アデリアが手を上げたことは、アデリアが責任を取る」
ヴィオラと公爵夫人を見る。
「でも、薬を待ってる人間にとっての数日を、勝手に軽く扱うんじゃないよ」
熱を出した子は一晩で悪くなる。
食べる物がなくなれば、その日から困る。
四十七人も育てれば、嫌でも覚える。
「それと、アデリアが悪いことと、あんたたちが何をしてもいいことは別だ」
公爵夫人が扇子を閉じた。
「……何を仰っているのか分かりませんわ」
「それにしても」
ヴィオラが濡れた頬を拭いながら微笑んだ。
「遠国のご令嬢は、ずいぶん勇ましい言葉遣いをなさいますのね。どちらでお育ちになったのかしら」
周りで何人かが扇子の陰から笑った。
「育ちは悪いよ」
ヴィオラを見る。
「あんたの性根ほどじゃないけどね」
笑いが止まった。
「それより、王家の記章を持ち出した給仕が、誰に雇われてたのか調べられても困らないんだろうね」
ヴィオラの口元が、ほんの少し止まった。
「あの男なら、もう追わせてる」
今度は、公爵夫人の扇子を持つ手が止まった。
ほんのわずか。
でも、見落とすほど鈍くはない。
まだ証拠じゃない。
覚えておくには十分だ。
「人の罪を盾にして、自分のしたことまで隠すんじゃないよ」
今度は、誰も笑わなかった。




