大変お似合いです、お母様
「令嬢の歩き方なんて、今さら覚えられないよ」
鏡の前でそう言うと、背中でドレスの紐を締めていたメイドが困った顔でエルザを見た。
助けを求める相手を間違えている。エルザは朝から、何があっても私を祝賀会へ送り込むつもりだった。
「本日の設定では二十五歳ですので、多少不慣れでも問題ございません」
「王都で動くなら、知り合い作っといた方が楽じゃん」
長椅子に座ったルシアまで、他人事みたいに言う。
「今日一日だけだからね」
「分かってるって」
「お母様、仕上がりました」
エルザに促されて鏡へ向き直った。
深い青の生地に細い銀糸が走り、首元の飾りも派手すぎない。昔なら値段を聞いた瞬間、孤児院の食費何日分か計算して怒っていたと思う。
「……やっぱ似合うじゃん」
「服がいいだけだよ」
「大変お似合いです、お母様」
「……ありがとよ」
鏡の中にいる女は、三十八で処刑された泥棒には見えなかった。
今夜は、それでいい。
◆
王太子の学院卒業を祝う王家主催の祝賀会は、四十七夜の大広間で開かれた。
王族、大貴族、大商人。王都でも指折りに金を持っている連中が、宝石までぶら下げて一か所へ集まっている。
普通の人なら華やかだと思うのだろう。
私には、隙だらけに見えた。
右手の伯爵夫人は首飾りの留め金が甘い。窓際の男は笑うたび右手が腰から離れるので、その瞬間なら財布を抜ける。東側の搬入口も、料理を運び込むたび見張りの視線が切れていた。
もちろん盗らない。
今日は。
「レーヤ様、お飲み物はいかがでしょうか」
「ありがとう」
給仕から杯を受け取ったところで、会場中央にいる一人の令嬢が目に入った。
「次の使節団は南側の控室へお願いします。席次表は第三案で進めてください。料理は十二名分追加を」
「承知いたしました、アデリア様」
王太子の婚約者、アデリア・ローデン辺境伯令嬢だった。
さっきから休む暇もなく会場を動き回っている。使節団を案内したと思えば給仕へ指示を出し、その途中で呼び止められれば笑顔で応じる。
それだけなら、よく働く子で終わる。
でも、左手で何度も袖口を握っている。右足を出す時だけ歩幅が狭い。料理の卓の横を何度通っても、自分では一度も皿を取らない。
「……あの子、朝から食べてないね」
「おそらく」
隣のエルザが答えた。
「お母様。現在のお母様は来賓です。あまり目立つことは……」
そこでエルザは言葉を止め、諦めたように息をついた。
「申し上げても、お聞きになりませんね」
「分かってるじゃないか」
近くの卓から食べやすそうな物を一皿取って、アデリアのところへ向かった。
「ちょいと、あんた」
「はい。何か不手際がございましたでしょうか」
振り向いて最初に出たのがそれだった。
自分の疲れより、客への失敗を先に気にする子らしい。
「これ、食べな」
「……はい?」
「朝から何も食べてないだろ」
「ですが、まだ王太子殿下へのご挨拶と、外国使節のご案内が残っておりますので」
「だから食べるんだよ。倒れてから挨拶する方がよっぽど失礼だろ」
「私は大丈夫です」
「大丈夫な人間は、右足かばって歩かない」
アデリアが黙った。
「靴も合ってない。あとで替えな」
「……どうして、そこまで」
「人を見るのは昔から得意なんだよ。ほら」
ようやくフォークを取ったアデリアが、一口食べる。
肩の力が少し抜けた。
「……美味しいです」
「当たり前だろ。うちのホテルなんだから」
「こちらのホテルの方なのですか?」
「……まあ、ちょっと関係があるだけ」
客として来たはずなのに、「うち」と言ってしまった。
「ありがとうございます。お優しい方なのですね」
「違うよ。目の前で倒れられたら面倒なだけ」
「それでも、助かりました」
こういう真っ直ぐなお礼を言う子は、だいたい損をする。
「アデリア」
男の声がして、アデリアがすぐに皿を置いた。
「殿下」
王太子だった。
十五年前、扉の向こうにいた子の顔を初めて見た。
大きくなったね。
そう思った自分に、少し驚いた。
あの子たちに再会するたび出てきた言葉が、一度も会ったことのない相手にも出た。
「今夜は各国の使節も来ている。くれぐれも問題のないように頼む」
「承知しております」
「先日の席次変更の件もある。これ以上の混乱は避けたい」
「……はい」
王太子はそれだけ言って、別の招待客へ向かった。
婚約者へ声をかけたというより、仕事を任せた相手へ念を押したような言い方だった。
無事に育ったなら、それでいい。
そう思っていたのに、今のを聞いたあとでは素直にそう思えない。
「何かあったの」
「少々、準備で行き違いがございました。すでに解決しております」
その「解決した」が信用できない。
「あんた一人で全部やってるの?」
「本来なら補佐役がおります。私が最も信頼している者です」
「今日は?」
「ハロルドは領地へ戻しております。北部の村へ送る薬と穀物が予定どおり集まらなくなりまして、救援物資の手配を任せました」
「……ハロルド?」
「ご存じなのですか?」
「いや。ちょっと聞き覚えがあっただけ」
孤児院にも同じ名前の子がいた。
それだけだ。同じ名前なんて、どこにでもいる。
「そのハロルドに任せたなら、今はこっちだけ見な。何でも自分で抱えたら、両方駄目になるよ」
「……肝に銘じます」
「ちゃんと寝てる?」
アデリアが黙った。
「今夜が終わりましたら」
「その言い方する子、信用しないことにしてるんだよ」
昔のエルザも、よく同じ顔で同じことを言った。
そこへ、慌ただしい足音が近づいてきた。
「アデリア様!」
若い使用人が青ざめて駆け寄る。
「王家よりお預かりしていた記章が見当たりません!」
アデリアの顔から疲れが消えた。
「最後に確認したのは?」
「ほんの先ほどです。控室の机上に置き、その後は誰も触れていないはずで……」
「もう一度探してください。ただし騒ぎにはしないで。式を止めてはいけません」
「ですが、お嬢様」
「まず確認を」
自分の失態になりかねない状況で、最初に祝賀会を守った。
会場では誰も記章の紛失に気づかず、笑って酒を飲んでいる。
その流れの中に、一人だけ歩き方のおかしい給仕がいた。
出口へ急いではいない。
逆に、人の多いところを選んで歩いている。
制服は四十七夜のものだが、靴が違う。うちの従業員用は床を傷つけないよう底が柔らかい。あの男の靴は硬く、歩くたびわずかに音がした。
左腰の布も少し浮いている。
いた。
「ちょっと待ってな」
人混みへ入る。
男とすれ違った。
肩が軽く触れた頃には、小さな金属の記章が私の指へ移っていた。
男は気づかず、東側の扉へ向かう。
捕まえるのは簡単だ。
でも、盗んだ本人より、その先にいる奴の方が気になる。
戻る途中で四十七夜の給仕を一人呼び止めた。
「東側から出る給仕姿の男。靴底が硬いやつ、分かる?」
「はい」
「一人つけて。捕まえなくていい。どこへ行くかだけ見てきな」
「承知いたしました」




