09.月の綺麗な夜に
王都ガルダインの夜は静かに冷え込んでいた。アルスの私邸の中庭は、月光の下でただ静まり返っている。
自室へと戻ったリリィの足音が完全に消え、執務室の机では蝋燭の火が小さく揺れていた。アルスは無言で立ち上がり、外套を羽織って廊下へと足を進める。
すぐ隣の部屋に刺客を置いている以上、どんな些細な隙も見せるわけにはいかなかった。
アルスの視線の先――廊下の突き当たりにあるのは、小さな書庫だった。
そこには王都周辺の地図や、軍事記録が収められている。ルクレツィアの放った刺客なら、今夜のうちに何らかの動きを見せるはずだ。
書庫の前にたどり着いたアルスは、壁の陰に姿を隠して耳を澄ました。鍵穴に針金を刺し入れ、解錠する微かな金属音が届く。
暗がりの中、音もなく扉が開く。
裸足のまま滑り込んできたのは、薄絹の夜着を纏ったリリィだった。
リリィは迷いなく書庫の奥へと進み、机の上に置かれた王都周辺の地図へ手を伸ばした。
その指先が紙に触れるか触れないかの瞬間――
「夜中に書庫へ忍び込むとは、随分と勉強熱心だな」
「――っ!」
背後からのアルスの声が、静寂を破った。
リリィの手が止まる。息を呑み、ゆっくりと振り返る頃には、すでにいつもの可憐な笑みを浮かべていた。
「……アルス様ぁ」
胸元にそっと手を当て、可憐に目を細める。
「お脅かさないでくださいましぃ……。私、あまりに王都の夜が冷えるものですからぁ、眠れなくてぇ……。少しお散歩をしていたのですわぁ」
「そうか」
アルスは追及しなかった。咎める素振りすら見せず、リリィの横を通り過ぎると、机の上の蝋燭に火を点けた。橙色の光が、二人の顔を照らし出す。
「なら、少し中を見ていくといい」
「……よろしいのですかぁ?」
「ああ。君の好きにするがいい」
リリィの背筋に、嫌な冷たさが走った。
(……この男、最初から私がここへ来ることを知っていた?)
アルスは気負う様子もなく、机の上の地図を指先で軽く叩いた。
「ここに王都周辺と辺境の勢力地図がある。君が王宮から遣わされた使者なら、興味があるだろう」
「まあ……アルス様は意地悪ですのねぇ。私のような無知な女が、そのような難しい地図を見て何が分かりますのぉ?」
「そうか」
アルスは静かに笑い、そのまま背を向けて本棚の書類を整理し始めた。自分の好きに検分しろと言わんばかりの無防備な態度。
だが、リリィの呼吸がほんの僅かに乱れた。
アルスは何の警戒も見せないのではない。試されているのだ。
机の上に無造作に置かれた地図そのものが、自分に持ち帰らせるための偽情報である可能性に気づき、指先が強張る。安易に手を伸ばせば、こちらの動きをすべて読まれた上で潰される。
リリィは引きつりそうになる表情を押し殺し、作り物の可憐な微笑を張り付けた。
「ふふ……本当に意地悪なお方」
「何がだ?」
アルスは書類を手に取ったまま振り返り、どこまでも白々しく首をかしげる。
その底のない瞳に見つめられ、リリィはしなやかにその腕へと身を寄せた。上目遣いに見上げ、胸元を押し当てるようにして甘い声を漏らす。
「……私、怖くなってしまいましたわぁ。アルス様が、何を考えていらっしゃるのか分からなくて」
「それは、お互い様だろう」
アルスは拒みもせず、ただ静かに見下ろしていた。
互いに警戒を隠したまま、無言の視線が交錯する。これ以上探るのは危険だと判断したリリィは、しおらしく一歩下がった。
「……今夜は、もう休みますわぁ」
「ああ。良い夢を、リリィ」
リリィが立ち去り、書庫の扉が静かに閉まった。
アルスは静けさの中で揺れる蝋燭を見つめ、無言のままその火を吹き消した。
◇
書庫を後にしたアルスは、中庭へと足を進めた。月は天頂へと昇り、青白い月光が石畳を照らしている。
(さて……盤面は整いつつあるが……)
思索にふけるアルスの背後で、衣服が擦れる微かな音が響いた。
生き残るために培われた感覚が、即座に警戒を跳ね上げる。アルスが振り返ると、庭園の樹の影から、音もなく滑り出してきた影があった。
月明かりの下に現れたのは、背に半月弓を背負ったファウナスの娘――リムだった。
夜風に栗色の髪が揺れる。息ひとつ乱さぬ立ち姿とは裏腹に、アルスに向ける瞳には隠しきれない焦りが浮かんでいた。
「……随分とご機嫌なようですね、軍旗公殿下」
淡々とした問いかけの裏に、隠しきれない刺が混じっていた。
アルスはふっと肩の力を抜き、わずかに表情を緩めた。
「リムか。夜更けにわざわざどうした。屋敷の警備を抜けてくるとは、相変わらず無謀な真似をする」
「そんな余裕な顔をして……。さっきからずっと見てたわよ」
リムはスッと目を細め、至近距離まで歩み寄ると、アルスを射抜くように睨みつけた。
「あの女と書庫で顔を寄せ合い、甘い言葉を囁き合い……。いつもの冷徹なアルス様は、どこにお出かけかしら? あんなあざとい刺客のどこに目が眩んだのよ」
アルスは、目の前で怒りと嫉妬を煮詰めている少女を見つめ、静かに目を細めた。
「……お前にそう見えるなら、上出来だな」
「演技だったとしても、見ていて気分のいいものじゃないわ!」
リムは感情を抑えきれず、叫びそうになる声を必死に押し殺した。
「あんな近くで顔を寄せ合って……あんな顔を見せるなんて、趣味が悪いことね」
リムはわずかに唇を尖らせ、横を向いた。
月光がその横顔を照らし、引き締まった首筋から胸元へと深い影を作っている。不機嫌そうに落とされた視線と、どこか落ち着かない指先。
アルスは無意識のうちに、小さく息をのんでいた。
「……すまなかったな、リム。お前をこんなふうに苛立たせるつもりはなかった」
その静かな声に、リムはぴくりと肩を揺らした。深呼吸をひとつ置き、固く握りしめていた拳を解く。そして再び、感情を殺した眼差しでアルスを見返した。
「……別に、怒ってなんかないわよ。ただ、あなたが敵の罠に引っかかって足をすくわれたら、私達まで共倒れになるから迷惑だと言っているの……。もっとも、あんな薄ペラい女ごときに本当に目がくらんでいるなら、そのときは私の矢が真っ先にあなたの眉間を貫くけれど」
リムは背の弓に手をかけると、指先で弦の感触を確かめるように軽く弾いた。
アルスは口元に微かな笑みを浮かべると、ゆっくりと近づき身をかがめた。
「――っ……!?」
リムの身体が固く緊張する。
吐息が触れ合う距離まで、アルスの顔が迫っていた。逃げ場のない距離で、その瞳が視線を捉えて離さない。
アルスはさらに顔を寄せ、リムの耳元へ唇を寄せた。
「……分かっている」
耳元に落ちる微かな熱に、リムは微かに指先をふるわせた。握りしめていた弓の弦から、すっと力が抜けそうになる。
「あんな女の色香など、最初から効いてはいない。……お前が心配するような隙は、微塵もないよ」
「……ほんと、なの……?」
声が小さく途切れた。
アルスは体を離し、いつもの捉えどころのない笑みを戻した。
「ああ。だから、そんな目をしないでくれ。……お前が焼きもちを焼く相手は、あんな女じゃないだろう」
「っ……! 誰が、焼きもちなんて……ッ!」
リムの首筋から頬にかけて、一気に赤みが走った。
月明かりに晒された顔を隠すように、リムは咄嗟に身を翻す。
「……勝手にすればいいわ。でも、しくじったら絶対許さないんだから!」
捨て台詞を残すと、リムは一歩引き、そのまま夜の闇の中へ姿を消した。
夜風が吹き抜け、肌の熱を奪っていく。
「……やれやれ」
アルスはそのまま動かず、しばらく夜空を仰いでいた。




