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10.眠れる老虎の決意

 リリィが、アルスの邸宅を訪れていた頃――。

 王国東方を束ねるブラントン家の本城では、執務室の空気が張り詰めた緊張感に支配されていた。


 大きな机を囲むように、数名の男たちが集っている。いずれもブラントン侯爵の腹心であり、長年この東方の地を守り抜いてきた寄子の騎士家の者たちだ。


「侯爵閣下! 本気のお言葉ですか! ガルド王に背き、あの『捨てられた王太子』アルスにつくなど……それは一族の破滅を意味しますぞ!」


 真っ向から声を荒らげたのは、東方軍の重鎮、猛将バルトロだった。そのこめかみには怒りと焦りがにじみ出ている。


 室内のあちこちから、それに同調するような苦渋に満ちたざわめきが起こった。


「サナリアから生還し、ファウナスを従えているという噂こそ耳にするが、所詮は王から見捨てられた若造に過ぎん。そんな勝算のなき賭けに出て、王都全軍を敵に回すなどありえませぬ!」


 バルトロの言葉には、長年王都から冷遇され続けてきた東方貴族たちの積年の不満と、これ以上踏み外せば一族が路頭に迷うという現実的な焦りが込められていた。


「――だからこそだ」


 静まり返った執務室の中で、ブラントン侯爵は重々しく口を開いた。その老いた体に纏う圧倒的な威圧感の前に、男たちは思わず息を呑む。


「お前たちが案じる東方の冷遇、その未来のなさは私が一番肌で感じている。このまま王都の機嫌を取り続けていれば、東方はジリ貧の末にすり潰されるだろう。……だが、忘れるな。あの男は、我がブラントン家の血を……亡き王妃の血を引いておる」


 侯爵は立ち上がり、ゆっくりと窓の外へと視線を向けた。


 深く刻まれた眉間のシワが、いっそう濃くなる。その脳裏に浮かんだのは、「病死」として闇に葬り去られた、気高くも儚い姪――正室だった亡き王妃の面影だった。


 姪の死を東方の利権と天秤にかけ見捨ててしまった悔根が、老将の胸の奥で燻り続けていた。そして今、その悲劇の渦中から生還した息子が、父王を脅かす獅子となって舞い戻ってきたのだ。


 先日遠方の平原で目撃した、あの光景が鮮烈に蘇る。

侯爵は険しい顔をした腹心たちを再びまっすぐに見据えた。


「私はあの若き獅子こそが、このガルダニアを救う唯一の光になり得る男だと思っている。……だが、だからといって今すぐ全軍でなびくなど愚行だ。アルス殿下が我が東方をどう扱うか、まだ真意は見えぬ」


 バルトロが、わずかに眉をひそめて問い返す。


「では、閣下……どのように動かれるおつもりか」


「私が単身、アルスのもとへ赴く」


 執務室に再びどよめきが走った。バルトロが慌てて制止する。


「なりませぬ! 東方の党首であるあなたが王都の息のかかった場所に単身赴くなど、あまりに危険です!」


「だからこそ、私個人として動くのだ。表向きは、血縁としての私的な交流……そう装えば、王都の狗どもも即座には手出しできん。それに……」


 侯爵は鋭い眼光を光らせた。


「我が目で直接あの若造を確かめ、東方の命運を託すに足る器か否かを見極めてくる。全軍を動かさぬのは、我が身に万が一のことがあった際の保険であり、同時に王都に対する最大の牽制だ」


 党首自らの、矢面に立つ覚悟を聞いたバルトロは、ぐっと言葉を飲み込んだ。他の騎士たちも、互いに顔を見合わせたあと、次々とその場にひざまずき、主君の決断を受け入れた。


――だが、組織の綻びは、そう簡単には塞がらなかった。


「……ふざけるなッ!」

 突然、怒号が響いた。


 一人の若い騎士が、突如として立ち上がった。その腰から鋭い鋼の剣を抜き放つ。


「王家に背くなど正気か! 我らを滅ぼす狂気に走る者に従うことなどできぬ! ここで貴様を討ち取り、我が忠義を王都に捧げる!」


「何をする気だ……!」


 腹心たちが驚愕の声をあげるが、距離が近すぎて誰も間に合わない。恐怖に駆られた見境のない刃が、老いた侯爵の喉元へと容赦なく迫る。


 だが、迫る刃の光を映したブラントン侯爵の瞳が、凄まじいまでの殺気を帯びる。老いてなお衰えぬ歴戦の猛者の気魄が、執務室の空気を一瞬で叩き潰した。


「小僧が」


 身じろぎ一つせず、侯爵は腰の愛刀を鞘ごと一閃させた。


 重く鈍い衝撃音とともに、若い騎士の振るった剣は無残に弾き飛ばされ、その身体は圧倒的な膂力に、床へと叩き伏せられた。


「がはっ……! ……ル、クレツィア……様……」


 大量の血を吐き出しながら、若い騎士は最後にその名を漏らし、苦悶の表情のまま動かなくなった。


 静まり返った部屋に、血の匂いと重い息づかいだけが残される。


 すでにルクレツィアの手が東方にまで伸び、内応者として仕込まれていたのだ。


 侯爵は床に転がる男を見下ろすと、鞘に納めた刀の柄を静かに握り直した。


「王都の狗が混じっておったか……。その愚行、報いは地獄で受けるがいい」


 不穏な裏切りと内部の動揺を、その圧倒的な武力でねじ伏せて見せた。


 ブラントン侯爵は腹心たちを見据えて厳かに告げた。


「これよりブラントン家は、アルス殿との交渉を行う。私はアルス殿のもとへ発つ。全軍は私が戻るまで、東方の守りを固めよ!」


「はっ!!」


 腹心たちの力強い返声が、執務室の天井を揺らした。

老いた虎は、アルスのもとへ向けて駿馬を走らせた。

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