11.長き悔根の果てに
王都から少し離れた湖畔に佇む、王家の保養地――。
緑に囲まれた静寂な邸宅へ、アルスは『お気に入りの側室候補』としてリリィを伴い、気晴らしの静養に訪れていた。
陽光が差し込む邸宅のテラスで、リリィは可憐に茶を注ぐと、両手の指をあごの下で組み、覗き込むようにアルスを見つめた。
「……で? わざわざこうしてお茶に誘ってくださる理由はなぁに、軍旗公殿下?」
アルスは差し出された磁器のカップを受け取ると、口元へ運ぶフリをしながら静かに湯気を揺らし、テラスのテーブル越しにリリィへ視線を戻した。
「君と一緒にお茶を、飲んでみたいと思ってね」
アルスは静かにカップをテーブルの中央へと滑らせた。
リリィは、そのカップを取り上げ、唇を寄せて一口飲み干してみせる。
「残念でした。これは本当にただのハーブティーよ。……私だって、一目でそれと分かるような下手な盛り方はしないわ」
「そうか。それは結構なことだ」
リリィは背もたれに深く身体を預け、赤い髪を指先で弄びながら、底意地悪く目を細めた。
「本当に呆れた度胸ね。……正体が割れている私を殺しもせず、こうしてテラスでお茶に付き合せるなんて、頭がどうかしてるとしか思えないわ」
アルスは、両手を組んで背もたれに体を預けた。
「君をこうして生かしておけば、次の刺客が来ない。王宮の目を眩ますのに、実に都合が良いのでね」
「……私を、そんな風に使うつもり?」
リリィは呆れたように息を吐き出すと、頭を軽く横に振った。
「後悔しても知らないわよ?」
「試してみるといい」
リリィはため息をついて、肘をついていた手を引いて背もたれへと深く身体を預けた。
胸の前で腕を組み、アルスの全身を品定めするように上から下へと舐め回す。
「……ふふ、本当に面白い男。その余裕、いつまで保つかしらね」
リリィは再び机に肘をつき、アルスへ顔を近づけて声を潜めた。
アルスは表情を変えず、ただ背もたれに体を預けたまま無言でリリィを見据え返した。
通路から足音が近づき、老いた使用人の声が届いた。
「アルス様。お客様をお連れいたしました」
執事に案内され、テラスへ足を踏み入れてきたのは一人の大柄な男だった。
東方を長年守り続けてきた大貴族、ブラントン侯爵その人だ。
「これは、アルス様。……それに、可愛らしいお供を連れておられるか」
侯爵の纏う空気は、歴戦の猛者特有の重厚な威圧感を帯びていた。白髪混じりの髪を綺麗に整え、深いシワの刻まれた顔には、初対面の人間を萎縮させるほどの気魄がある。
その鋭い眼光はアルスの背後に控えるリリィを一瞥したあと、すぐにアルスへと向けられた。
「退屈していたところだ、侯爵。この庭の景色も悪くはないが、どうにも風通しが良すぎてね」
アルスは、椅子から立ち上がると、真っ直ぐに侯爵の目を捉えて皮肉交じりに笑った。
その視線の端で、リリィは侯爵の突然の訪問にわずかに眉をひそめつつも、すぐに可憐な作り笑いを浮かべて一歩前に出た。
「アルス様、お客人にお茶をご用意いたしますわ。どうぞお掛けになって……」
「リリィ。今は少し男同士の静かな時間が欲しい。君は下がっていてくれ」
リリィの瞳が一瞬だけ細くなったが、すぐに笑みを浮かべ直し、ドレスの裾を持ち上げて静かに頭を下げた。
「……かしこまりました。それでは、お部屋でお帰りをお待ちしておりますわ、アルス様」
甘い言葉を残し、リリィは静かに姿を消した。
彼女の気配が遠ざかると、ブラントン侯爵はふっと小さく息を吐き、これまでの社交辞令的な笑みを消し去った。
「……ふん、あのような女を傍に置いておるのか。あれは若気の至りでは、済まされんぞ」
「侯爵、馬を出さないか」
アルスのその言葉に、ブラントン侯爵はわずかに目を見張り、そして深く頷いた。
「よかろう。この近くの絶景を案内しよう」
二人はそのまま邸宅の門を抜け、並んで山道へと馬を走らせた。山道を吹き抜ける風は、青々とした木々の匂いと、土の湿った香りで満ちている。
しばらく言葉はなく、ただ馬蹄の音と鞍が擦れる音だけが響いていた。
険しい岩肌が剥き出しになった崖近くの小道に差し掛かったところで、侯爵は馬を止め、振り返らずに声を発した。
「アルスよ。先の戦場では見事であった。サナリアから生還し、ガルドをその器量で威圧し、さらにはファウナスの民を従えるとはな」
アルスは馬を並べ、微笑んだ。
「それがどうした。俺はこの王国を根底からひっくり返すつもりでいる。侯爵、あなたはどうだ? 王都の機嫌をとり、ジリ貧ですり潰される東方を守り続けるか。それとも、俺の手をとるか」
それは、あまりにも直接的で、傲慢ともいえる問いかけだった。
だが、ブラントン侯爵は動じなかった。それどころか、馬の上でわずかに体を震わせて笑い始めた。
「ハハハ……! 痛快だな。その物言い、若い頃のガルドに似ているようで――いや、あの男よりもはるかに不遜で鋭い」
侯爵は馬首を返し、アルスの目をまっすぐに見据えた。値踏みするような視線を収めると、深く刻まれた目尻をわずかに歪め、どこか遠くを追うように目を細める。
「アルスよ。私はずっと、ひとつの悔いを抱えて生きてきた」
「……何が言いたい」
「お前が幼くして王宮の隅に追いやられ、冷たい雨風に晒されていたことを、私は知っている。知っていながら、動かなかった」
侯爵の声が震え、手綱を握る指先に思わず力が入る。
長年刻み込まれた深い目尻のシワを、苦々しげに固く寄せた。
「お前の母が亡くなった時、私は王都にいた。あの女が権力を握り、お前を排除しようとしている動きも知っていた。だが……私は目を背けたのだ。王宮の権力闘争に関われば東方全体が火の海になると、もっともらしい理屈をつけてな……」
風が、二人の間を通り抜けていく。
木々のざわめきだけが聞こえる静寂の中、その背中がわずかに小さくなったように見えた。
「王太子としての誇りを奪われ、命の危険すらある日々をお前がどう生き延びてきたか。それを想像するたびに、私の胸のうちは長年、消えないこの思いに苛まれていた。……だからこそ、お前が自らの力で這い上がってきた姿を見た時、私は決意したのだ」
侯爵は顔を上げ、アルスを真正面から見据えた。その視線には、もう迷いなど一切なかった。
「今度こそ、間違えはせぬ。あの時果たせなかった後ろ盾としての役目を、たとえこの老骨が砕け散ろうとも果たそう。アルスよ、このブラントン、そして東方の軍勢のすべてをあなたに捧げたい」
アルスは小さく息をつき、目の前にいる老いた男の瞳の奥を見た。
「いいだろう、侯爵。お前がこれから示す忠誠の重さは、その言葉通り命を削って証明してもらうぞ」
「はっ……! この命、アルス様のためにこそ使い潰してみせましょう」
老いた虎が満足げに、そして誇らしげに笑ったその瞬間だった。
白い影の群れが崖上の林から崩れ落ちるように飛び出した。先頭の刺客が岩肌を蹴り、地を這うような低い体勢で猛進してくる。
歴戦の猛者である侯爵ですら、一瞬反応が遅れるほどの一手だった。侯爵が剣に手をかけるより早く、刺客が地を蹴り跳躍した。
「なっ……!?」
ヴェルトが激しく嘶くのと同時に、刺客の太い両腕がアルスの胴を丸ごと締め上げた。力任せの衝撃がアルスを鞍から引き剥がす。
「うっ……!」
間髪入れず、刺客はそのまま自重をかけてアルスを抱きかかえたまま地を転がった。二人の体が勢いよく岩肌を削りながら崖際へ滑り落ちる。
「アルスッ!!」
侯爵の叫びとヴェルトの嘶きを残し、アルスは刺客に抱きつかれたまま、底知れぬ奈落の底へと落ちていった。




