12.炎の死戦
アルスは底知れぬ谷底へと叩き落とされた。
水面へと叩きつけられた体は、荒れ狂う滝つぼの濁流に呑み込まれていく。
視界を覆う暗い水底へと引きずり込まれそうになるなか、必死に手足を掻いて水面へと這い上がる。
岸辺の岩場へ這い上がった瞬間、全身を襲う激痛に、アルスは思わず喉の奥から苦悶の息を漏らす。
鋭い痛みが、麻痺しかけた感覚を強引に引き戻す。指先を泥にめり込ませて身を起こし、頭上を見上げれば、高く切り立った岩壁の隙間に、空がわずかな白い筋となって見えているだけだった。
視線を自分の体へと戻す。
腰の剣は転落の衝撃でどこかへ吹き飛び、右肩は脱臼を起こして不自然な方向を向いていた。
「……フン。さすがに、崖から川底へ叩き落されては、立ち上がることもままならんか」
岩陰から、足音もなく低い声が降りてきた。
濡れた岩の突起に、音もなく影が降り立つ。先ほど崖上で急襲を仕かけてきた一団だ。
先頭に立つ男は、狼の耳と尾をもつ獣人族。濡れた毛皮を肩に羽織り、引き結んだ口元から鋭い犬歯をわずかに覗かせ、黄金色の瞳でアルスを見下ろす。
「……お前たち、ルクレツィアの狗か……」
アルスは冷たい岩肌に背を預け、崩れ落ちそうになる膝を壁に押し当てて睨み返した。手元に武器はない。濡れた服の上から鮮血が滲み、意識の輪郭が揺らぎ始めている。
ウルガノスの男はわずかに眉根を寄せつつも、一切の油断なく、じりじりと間合いを詰めてくる。
「恨むなよ。王都のあの女に……俺たちの家族が人質に取られているのだ。お前をここで仕留めねば、家族が殺される」
アルスは掠れた息のまま、薄く口元を歪めた。
その言葉の途中で男が合図を送ると、影から躍り出た部下たちがアルスの両腕を背後からねじ上げる。
外れた右肩に強い衝撃が走り、額から一気に冷や汗が噴き出す。噛み締めた奥歯の隙間から苦悶の息が漏れた。抵抗する術など、今の身体には残されていなかった。
激痛に全身の力が抜け、意識が遠のく中で、男の吐き出す声がわずかに耳へ届いた。
「首を刎ねるのは後だ。……連れて行く。こいつの身柄を条件にして、あの女から家族を奪い返す……」
男の声が遠のくと同時に、アルスは完全に意識を失った。
♢
次に目を覚ました時、背中に板張りの床が触れ、両手首に食い込む太い縄の厚みが伝わってきた。
粗末な山小屋の中だ。
激痛に軋む身体を強引に起こし、背中を壁に預ける。古い木製の机の脇で、ウルガノスの男が腕を組んで椅子にもたれかかっていた。その後方では、部下たちが苛立ちと不安を抑えきれず、狭い小屋の中を行き来しては視線を交わし合っていた。
「気がついたか、王太子」
ウルガノスの男は腕を組んだまま、静かに視線を低くしてアルスをとらえた。
「傷ついたお前をここまで運ぶのは骨だったぞ。だが、これで準備は整った。これから王都へ使者を送る。『王太子と交換に、囚われているウルガノスの者を今すぐ全員解放しろ』とな」
裂けた唇の端をわずかに歪め、アルスは痛みを押し隠すように笑みを浮かべた。
「……お前は本気で……そんな子供だましが、あの女に通用すると思っているのか?」
ウルガノスの男の眉間が深く狭まり、その顔からわずかな余裕すら消えた。
「なんだと……?」
「よく考えてみろ。他人の命など銅貨一枚ほどにも思わず、己の保身と欲望だけで生きている女が……素直に、人質との交換などで手放すと思うか?」
静かな問いかけに、男は言葉を詰まらせた。
「あの女が取る行動は一つだ。交渉に応じる振りをしながら、お前たちを口封じのために消し去る。……それが、あの女のやり口だ」
部屋の誰もが息を飲み、行き来していた部下たちの足が止まる。互いに顔を見合わせてざわめき始める。
「長……っ、もしこいつの言う通りなら、俺たちの家族は……!」
「黙れッ!」
ウルガノスの男の怒号が狭い小屋に響いた。だが、握り締められた拳は細かく震えている。男は床を強く踏み鳴らして間合いを詰め、アルスの胸倉を力任せに掴み上げた。
「なら……どうしろと言うんだ! お前を殺すことも、人質にすることもできんというなら、俺たちはどうやって家族を救い出せばいいッ!?」
胸倉を引き絞られ、背中が壁に叩きつけられる。
アルスは呼吸を乱しながらも、目線を落とさず静かに口を開いた。
「あの女が一番警戒しているのはお前たちじゃない、俺だ。俺を生かして連れて行き、引き渡しの隙を突く以外に、あの女の喉元に刃を届かせる方法はない」
胸倉を掴んでいた男の手からわずかに力が抜け、掴まれた布地が緩んだ。
「ふざけるなッ!!」
部屋の隅にいた若いウルガノスが、鞘から短剣を抜き放ち、床を蹴って踏み込んできた。切先がアルスの喉元で止まる。
「長! こいつの口車に乗るな! 人間の王太子だぞ!? 信用できるわけがない! こんな奴の話に乗って、一族を全滅させる気か!」
「待て!」
長は若いウルガノスを制止した。が、止まらない。
「俺は反対だ! 人質を救うどころか、人間に丸め込まれて自滅する気かよ! なら、いっそこの人間の首をあの女に差し出して、俺たちの手で家族を取り戻す方がまだマシだ!」
若い男の怒声に応じるように、周囲の部下たちが次々と腰の柄に手をかけ、一歩ずつ間合いを詰めてくる。
アルスは咽喉に突きつけられた刃先を見据えたまま、一度深く息を吐き出し、若い男の目を睨み据えた。さらなる一言を口にしかけた、その時――木枠が軋む音が鳴り響いた。
小屋の隙間から炎が吹き出し、激しい衝撃とともに黒煙が室内へ一気に吹き渡った。
「なっ……なんだ!?」
アルスは押し寄せた煙に咳き込んだが、壁に背を預けたまま、煙の向こうの男を睨み据えた。
「言ったはずだ。あの女が、追手を生かして返すはずがないとな……」
小窓から外を覗いた部下の一人が、裏返った悲鳴を上げた。
「ば、馬鹿な……!? 外だ! 小屋の周りが、いつの間に……兵に囲まれてやがるっ!!」
充満する黒煙の向こうで、炎が木枠を呑み込み、屋外から無数の甲冑が擦れる音が近づいてくる。




