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13.萌芽

「火を放て! 屋敷ごと、虫ケラどもを焼き尽くせ!」


 熱を帯びた壁の隙間から、黒い煙が這い出し、瞬く間に室内を呑み込んでいく。


 激しい熱量にさらされた木枠が次々とひしゃげ、若いウルガノスたちは咳き込みながら絶望に顔を歪めた。


「くそっ……俺たちの家族はどうなるんだ!? あの女、最初から俺たちを逃がす気なんてなかったのか……!」


 煙の充満する中、アルスは迷うことなく動いた。


 太い縄で縛られた両手を無理やり顔の高さまで押し上げ、全身の体重を乗せた右肩を、容赦なく壁へ激しく叩きつける。


「なっ……!」


 ウルガノスの長は、目の前で起きている光景が信じられず、その黄金色の瞳が揺らいだ。


 一方のアルスは、額に冷たい脂汗をびっしりと浮かべたまま、喉の奥でわずかに息を詰まらせただけでその場に踏みとどまる。壁から離れた彼の右腕は、先ほどまでの不自然な角度から、確かな位置へと戻っていた。


「……ハッ、どうせ外へ出れば殺されるだけか!」


 長は短剣を握りしめると、意を決したように足を踏み出した。その手首に食い込む太縄へ刃を向けた瞬間、背後から制止の声が飛ぶ。


「長! そいつの縄を切ったら――!」


「黙れッ!」


 長は怒号で部下を制すと、なおも迷う者たちを鋭く睨みつけ、そのままアルスの手首の縄を一気に断ち切った。切断された縄が音を立てて床へと転がり落ちた。


「……ふう。俺が飛び出して奴らの注意を引き付ける。お前たちは、奴らが俺を追った瞬間に背後から突撃しろ」


「……ハッ! 狂人が。死生を共にする義理はないが……今は乗ってやる!」


 長は牙を剥き出しにして笑うと、燃え盛る部屋の出口へと振り返った。


「野郎ども、聞いたな! こいつが敵を引き付ける。その背中を突いて、外の奴らを蹂躙するぞ!」


 外では、炎上する建物を包囲する兵たちが、獲物が焙り出されるのを今か今かと待ち構えていた。


 その燃え崩れる木枠の扉から、傷だらけのアルスが突如として飛び出した。


「おっと、逃がすな! 囲め!」


 討伐隊の視線が一斉にアルスへと釘付けになる。


 隊長の声に導かれ、前衛の兵たちが一斉にアルスめがけて襲い掛かった。


「撃ち漏らすな!」


 討伐隊の兵がアルスの背中を追いかけ、意識が一点に集中した――その瞬間。


 死角となった背後から、ウルガノスの戦士たちが猛然と兵士たちに襲い掛かった。


「なっ……! 」


 逃走するアルスを追うことに夢中になっていた兵たちの陣形は、完全に崩れていた。


 野獣のごとき攻撃が、無防備な背中や鎧の隙間を容赦なく切り裂いていく。


「うあぁぁッ!?」


「ぐっ……背後を突かれた!?」


 兵たちの陣形が内側から大きく割れ、怒号が悲鳴へと変わる。


「ひっ……! 退け、引きあげろ――っ!」


 討伐隊長が血相を変えて叫んだが、その視界を遮るように巨大な影が跳んだ。長が放った鋭い一撃が隊長の喉元を深く断ち切り、血の泡を吐きながら地面へ沈む。


 残された兵士たちも次々と追い詰められ、逃げ場を失ったまま地面へと崩れ落ちていった。


 燃え盛る屋敷の赤黒い火光が、足元に転がる屍の山を照らし出す。


 血の匂いが立ち込める戦場に、静寂が戻ろうとしたその時だった。


――ドドド……ッ!


 静寂を破り、激しい馬蹄の音が頭上から響き渡った。


「アルス様ッ!!」


 暗闇を切り裂く切迫した叫びとともに、崖上の木々を掻き分けて飛び出してきたのは、息を荒らげたリムだった。


 その背後には、重厚な甲冑に身を包んだブラントン侯爵と、護衛の騎士たちが数名馬を駆っている。


 馬上から降り立ったリムは、血に染まった地面と異様な惨状に息を呑み、アルスを見つけると、弾かれたように駆け寄った。


「アルス様、お怪我を――っ!」


 震える手でアルスに触れようとしたリムを、アルスはわずかに片手を上げて制する。その場に踏みとどまったリムは、唇を噛み締めながらも、主の無事を確認してようやく硬く息を吐き出した。


 遅れて、馬上から見下ろすブラントン侯爵の鋭い視線が、地べたに広がる討伐隊の残骸とアルスの姿を捉える。


 アルスは痛む右肩をそっと押さえ、荒い息を数度呑み込んでから、ゆっくりと顔を上げた。


「……遅かったな、侯爵」


 ブラントン侯爵は視線を這わせたまま手綱を強く握りしめ、ただ静かにうなずいた。


「老骨の不覚、お許しくだされ」


「構わん」


 アルスが視線を向けるその先で、ウルガノスの長が血に汚れた短剣を固く握りしめていた。


 周囲には生き残った数名のウルガノスが立ち尽くしているが、その顔に勝利の歓喜はない。


 王都へ戻れば待ち受ける処断と、置き去りにされた家族を思う焦燥が、彼らの息を詰まらせていた。


長はその視線をアルスに向ける。


「……勝ったところで、俺たちの居場所はもうどこにもねぇ。王都に残した家族も、あの女にどう扱われるか……」


 長が吐き捨てるように呟いたその言葉を遮るように、アルスが痛む右肩を踏みしめて一歩前に出た。


「ルクレツィアに囚われたお前たちの家族は、俺が必ず取り戻す」


 アルスが視線をわずかに横へやると、重厚な甲冑に身を包んだブラントン侯爵と、その後ろに控える精鋭の騎士たちが静かにうなずいた。


 長は血に汚れた手掌で顔を乱暴に拭い、アルスの横顔と、その後ろで馬首を並べる侯爵の兵を凝視した。


 その瞳の奥で、先ほどまでの焦燥が消え、噛み締めた奥歯の隙間から荒い息が漏れ出る。


「……一族の命運を、お前のような狂った人間に預けることになるとはな」


 長は短剣を鞘に納めると、牙を剥き出しにして不敵に笑った。


「いいだろう。俺たちの牙は、今日からお前のために振るってやる。――我が一族の家族を連れ戻すまで、死ぬことは許さんぞ」


「ああ、約束しよう」


 アルスは燃え盛る屋敷の炎を背にして、静かに頷いた。



◇



 少し離れた崖の木陰から、静かにその光景を見つめる姿があった。


――リリィだ。


 ウルガノスを配下に収め、侯爵を従えるアルス。その圧倒的な姿を映すリリィの瞳に、かすかな熱が宿る。


 白く細い指先が、そっと己の唇をなぞった。


 あの若くして、圧倒的な才を持つ男の隣。そこは冷たくも惨たらしい死地だが、同時にこの世で最も甘美な特等席に見えた。


 誰かの道具として終わるつもりはない。


 ならば――あの男に、私自身を丸ごと食わせる価値はある。リリィの口元に、どこか熱をはらんだ薄く美しい笑みが浮かんだ。

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