14.歪んだ献身
夜の森を渡る風は、木の焦げた匂いと、濃密な血の気配を漂わせていた。
燃え落ちた小屋の残骸から立ち上る煙が月光を遮り、夜空へと溶け込んでいく。
暗がりの中、足元に転がっているのは、ルクレツィアが送り込んだ討伐隊の無残な屍骸だ。
ウルガノスの戦士たちは静かに刃の血を払い、周囲を警戒して息を潜めている。
燃え残った木片が赤く燻る光の中に、傷だらけのアルスが立っていた。
「アルス様……そのお体、無茶をなさって……」
アルスの傍らに控えていたリムが、生々しい傷跡の残る全身へと視線を走らせる。
アルスは気にした様子もなく、それを一蹴した。
「命があるだけで十分だ。体は動く」
その背後で馬を降り、重々しい足取りで近づいたブラントン侯爵が、深々と頭を下げた。
「……老骨の不覚、重ねてお詫び申し上げます。まさか、あの崖の急襲が伏兵にすぎず、二重の罠が張られていようとは」
ブラントン侯爵が苦渋に満ちた表情で頭を垂れる。だが、アルスはそれにわずかに片手を上げて応じるだけで、感傷に浸る気配すらなかった。
「悔やんでもしょうがあるまい、侯爵。それよりも問題なのは王都の動きだ。あの女、俺が死んだと確信しなければ、すぐさま次の手を打ってくる」
「左様ですな……。ルクレツィアは疑い深い女です。討伐隊が全滅したと知れば、即座に次の手を打ってくるでしょう」
ブラントン侯爵は深く皺の刻まれた眉間を押さえ、苦い顔のまま押し黙った。
準備が整う前に警戒を強められれば、王都に囚われているウルガノスたちの家族を救い出すことすら不可能になる。
「……時間が足りん、か」
アルスが呟いた、その時だった。
風が草木を揺らす音に混じり、足音が近づいてくる。
林の奥の木立の影から、一人の女が月光を浴びて歩み出てきた。
血と煙の匂いに塗れた凄惨な夜の現場には、あまりにも不釣り合いな女。
乱れひとつない艶やかな赤髪。隙のない所作で泥と血を避け、優雅に裾を引く美しいドレス。
リリィだった――。
「なっ……貴様! よくも抜け抜けと……!」
リムが瞬時に弓を構え、アルスの前に立ちはだかる。ブラントン侯爵の護衛たちも一斉に柄へ手を伸ばした。
だが、リリィは周囲の緊迫した状況の中、優雅な微笑みを絶やさぬまま、静かに歩みを進める。その瞳には、最初から最後までアルス以外誰も映っていなかった。
「……あぁ、アルス様」
吐息のような囁きとともに、リリィはアルスの足元へとすっと歩み寄る。間に立つリムや護衛たちがどれほど険しい視線を向けようとも、彼女の瞳は一瞬たりともアルス以外の何かを捉えようとはしない。
「なんと美しい……。ウルガノスを己が配下に組み込み、差し向けられた討伐隊をあんなにも見事に返り討ちにしてお戻りになるなんて――あぁ、見ているだけで、私の中のすべてがあなた様に溶けていく……」
リリィは全身を微かに震わせ、うっとりと陶酔に満ちた目を細めた。
「戯言を! アルス様、この女は――」
「下がれ、リム」
アルスの短い制止の言葉に、リムは唇を噛み締めながらも静かに一歩退いた。
アルスは、近寄ってくるリリィを見据える。
「なぜ、お前がここにいる……、リリィ」
アルスの問いに、リリィはうっとりとしたように首を傾げ、可憐に微笑んだ。
「私、もうあの女の駒として生きるのは、飽きてしまいましたの」
「ほう」
アルスは細めた目で、じっとリリィを見据えた。
対するリリィは、微笑みを崩さぬまま優雅にスカートの裾をつまみ、アルスの前で浅く身を屈めて見せた。
「あのお方は、実に小さく、退屈な方ですわ。権力の座にしがみつくだけの、ただの浅はかな毒婦。私はあの方の便利な道具として飼われておりましたが……そんなものに私の人生を預けるなど、あまりにも不条理で、耐えられませんのよ」
リリィは顔を上げ、濡れた瞳でアルスを見つめた。その瞳の奥には、狂気的なまでの熱がゆらめいている。
「ですが、アルス様……あなた様は違いました。美しく、残酷で、なんと完璧なお方。私はこの身を捧げるに足る、主をこの目で選び取りたいのです」
「……この女、正気じゃない……」
リムが両目を見開いて呟く。
リリィはリムの言葉などどこ吹く風とばかりに、さらにアルスへと歩み寄り、その足元にすっと跪いた。汚れなきドレスの裾が泥と血に染まることなど、彼女にとっては些末なことにすぎなかった。
「私に考えがございます、アルス様」
「言ってみろ」
「私の伝令鳥を王都へ飛ばしますわ。その文にこう記すのです――『アルスはウルガノスの奇襲を受け、濁流呑み込む谷底へ転落して死亡。口封じのため、生き残った討伐隊も処分いたしました』……とね」
ブラントン侯爵がわずかに目を見張る。
「……ふむ。お前の手で、王都へ『偽りの訃報』を送るというわけか。だが、ルクレツィアほどの女が、そんな都合の良い報告を素直に信用するものか?」
リリィは艶然と微笑み、首を横に振った。
「いいえ、侯爵様。私だからこそ、意味があるのです。あの女にとって、私は長年手塩にかけて育て上げた『駒』。その私が打つ報告だからこそ、疑いようのない真実として彼女の脳裏に突き刺さるのですわ」
リリィは上体をとろりと傾け、アルスの膝へそっと額を預けた。
「あの疑い深い女は、『勝利の報』を目の前に差し出された瞬間、歓喜のあまり判断力を失うでしょう。……アルス様、私をこのまま野に放つも、ここで首をはねるも、あるいは愚かな毒婦の喉元を掻き切るための刃として使い潰すも――すべてはあなた様の御心のままに」
己の意志による、「歪んだ献身」――。
自分の命すら謀略の賭け札として、すべてをこの男の足元に差し出す。その狂気と色香が混ざり合う圧倒的な覚悟を前に、場が一瞬静まり返った。
長が低く唸り、ブラントン侯爵がアルスの判断を待つように押し黙ったその時――
「……ハハッ、ハハハハハッ!」
アルスの笑い声が、焦げ臭い夜の森に響き渡る。
アルスは躊躇なく右手を伸ばすと、跪くリリィの細い顎を力強く掴み上げ、強制的に己の目線へと引き据えた。
指先が白い皮膚に食い込むほどの強い力。だが、リリィはその痛みにむしろうっとりと目を細め、歓喜に肩を震わせた。
「面白い。自分の意志で俺に屈し、あの女を裏切るか。いいだろう、その話……乗ってやる」
「アルス様! 騙されてはなりません!」
リムが矢をつがえはしないものの、切迫した声を上げて一歩踏み出す。
「この女の言葉がどれほど甘くとも、元はルクレツィアの刺客です! 私たちを罠に嵌めるための、芝居かもしれないのですよ!?」
「そうだとして、何の問題がある?」
アルスはリムを振り返ることすらせず、リリィの瞳を覗き込んだまま言い放った。
「罠だろうと真実だろうと、乗ってやるまでだ。……あの女が『俺の死』を信じ込み、祝杯を挙げている瞬間こそ、奴の警戒が最も緩む刻だ」
アルスはリリィの顎を雑に放り捨てるように離した。
だが、リリィは顔を歪めるどころか、潤んだ瞳で陶酔の息を吐き出すばかりだった。
「あぁ……なんと素晴らしいお方……。仰せのままに、極上の報をあの女に届けてさしあげますわ」
アルスは冷徹な視線を周囲の者たちへと巡らせた。
「ブラントン侯爵」
「はっ!」
「お前は直ちに東方へ戻り、表向きは『アルス死亡の報に接し、戦意を喪失した』フリをしろ。王都の目がこちらから完全に逸れている隙に、東方で密かに軍勢を集めろ。俺の合図ひとつで、王都を包囲できる準備をしておけ」
「承知いたしました! このブラントン、完璧に役割を果たしてみせましょう!」
侯爵が力強く胸を叩く。
「お前、名は……」
「……ヴォルク」
ウルガノスの長が名乗る。
「ヴォルク。お前たちの家族は、王都の地下に囚われているはずだ。まずは、そこから助け出す」
ヴォルクの黄金色の獣眸が、激しい歓喜と底知れぬ殺意に揺れた。
「ハッ……! 望むところだ! 奴らの首をねじ切ってでも、家族を取り戻してやる!」
「そして、リム」
アルスに名を呼ばれ、リムはきりっと背筋を伸ばした。
「お前は……どうにか逃げ延びた者として、王都にある俺の屋敷へ戻れ。リリィの飛ばす偽報を、お前自身の帰還によって完璧に補強するのだ。……できるか?」
リムは一瞬だけ息を呑んだが、すぐに強い覚悟を込めた眼差しでアルスを見つめ返した。
「……はい!あの女を欺くための芝居、完璧にやり遂げてみせます」
「よし」
アルスは夜空を見上げた。暗雲の隙間から、月光が冷たく差し込んでいる。
「偽りの訃報を流す。ルクレツィアが油断している隙に、王都を叩くぞ」
アルスはそれだけ言い残すと、背中を向けて歩き出した。焦げ臭い煙の残る森の闇へ、その姿が消えていく。
王都へ向けた反撃の準備が、それぞれ動き出した。




