15.宰相の盤面
「――で、あるからして、東方のブラントン侯爵の動き、ならびに王都内の不穏分子の動向はすべて当方で抑えております。ご安心を、ルクレツィア様」
後宮の奥。南向きの大きな窓から差し込む眩い陽光が、丹念に平滑へと磨かれた灰色の切石の床を鏡のように映し出す、ルクレツィアの私室。
贅沢に設えられた調度品や白いレースのカーテンがまばゆい光を反射し、部屋全体が息を呑むほど明るく、清らかな空気に満ちていた。
その光あふれる優美な空間の中央。
黒を基調とした隙のない仕立ての官服を纏い、銀縁の眼鏡の奥で鋭利な刃物のような光を宿す瞳――王国貴族の頂点に立ち、実質的に王国の政務をすべて掌中に収めている男、宰相オルデンは、その眩しい陽光の下で表情ひとつ変えず、淡々と報告を締めくくった。
だが、オルデンの言葉が途切れた直後、ルクレツィアは手元の文に視線を落としたまま、あざけるように赤い唇の端を持ち上げた。
彼女の長くて艶やかな指先が、東方から届いたばかりのリリィからの直筆の文をひらりと持ち上げる。
「――『アルスはウルガノスの奇襲を受け、濁流呑み込む谷底へ転落して死亡。口封じのため、生き残った討伐隊も処分いたしました。』……ですって」
「……ふふっ、あははははッ!」
静寂を切り裂き、耳障りなほど甲高い、狂気をはらんだ笑い声が響き渡った。
絹の長椅子に深々と体を預けて肩を震わせるルクレツィアを、オルデンは無機質な眼鏡の奥で静かに見据えている。
「見たか、オルデン! あの忌々しい小僧の末路を! サナリアから生還したところで、所詮は野良犬に過ぎなかったのだわ!死体も残さず谷底の水泡と消えるとは、なんと相応しい最後でしょう!」
彼女の美しい顔が、極上の快楽に歪む。
アルスという存在は、彼女にとって常に喉の奥に刺さった鋭い骨だった。どんなに追い詰めても死なず、己を見下してくるあの目障りな王太子が、ついにこの世から消え失せたのだ。
「すぐに祝杯の宴の準備をさせなさい! それからヴィルを――あの子を一日も早く正式な王太子に据えて、この国を――!」
「――歓喜のところに水を差すようで心苦しいが、少々軽率ではありませんか、ルクレツィア様」
その一言が、室内の空気を一瞬で凍りつかせた。
オルデンの言葉に、ルクレツィアは不快そうに眉をひそめ、長椅子から立ち上がらんばかりの勢いでオルデンを睨みつけた。
「オルデン! 私が喜んでいる時に水を差すなんて……! それに軽率とはどういう意味です!?リリィからの確実な報告なのですよ!?」
「その『確実』という言葉ほど、当てにならないものはありません」
オルデン宰相は表情ひとつ変えず、すっと静かにルクレツィアの手元にある手紙に視線を送った。
「アルス殿下の死体は確認されたのですか?」
「……なっ?」
「手紙には『谷底へ転落し、死体も残さず死亡』とあります。つまり、彼の『死体』をその目で確かめた者は誰もいない、ということです」
オルデンはゆっくりと歩を進め、淡々とした口調のまま事実を突きつけた。
「アルスという男を、あなたが一番よく知っていたはずでは? 崖から落ちた程度で死ぬような玉でしょうか、あの王太子が。仮に崖下に転落したのが事実だとしても……本当に彼が死んだのなら、なぜリリィは自ら王都に戻り、文字で報告してきたのです? 口頭ではなく、わざわざ文面で寄こすなど……まるで、何者かの意志に誘導されているかのように」
「な……ッ! 妄想も大概にしなさい! リリィは私が幼少から手元で育て、絶対に裏切らないように仕込んだ忠実な僕ですわ! あの娘が……」
「女の忠誠など、より魅力的な『男』に出会えば容易く破綻する」
オルデンの短く切れ味鋭い一言に、ルクレツィアは息を呑み、言葉を詰まらせた。
「……リリィが、アルス殿下の放つ強烈な求心力に呑まれ、裏切った可能性……。あるいは、アルスが生きていて、あえて訃報を送ることで我々を欺こうとしているとしたら――ルクレツィア様、あなたの敗北は、そう遠くありませんな」
「な……なんですって……!?」
ルクレツィアの顔から一気に血の気が引いていく。
祝宴を催そうとしていた浮ついた高揚感が、直前まで政務の議論を交わしていた目の前の男の指摘によって急速に剥がれ落ちていく。
冷や汗が彼女の白い首筋を伝った。
アルスは生きている――。
そして、自分がその『死』を信じ込み、油断しきった隙をあの男が狙っているのだとしたら――。
「……っ、では、どうしろと言うのです……!? もしアルスが生きていて、王都に戻っているとしたら……!」
「簡単なことです」
オルデン宰相は眼鏡の縁を細い指先で静かに押し上げ、唇を微かに片側へ釣り上げた。
「生きていようが、死んでいようが、どちらでも良いように盤面を動かせばいいのです。……彼が本当に死んでいるのなら、そのまま葬り去ればいい。しかし、もし生きていて、我々の油断を誘うために訃報を送らせたのだとすれば……向こうから姿を現さざるを得ない『極上の餌』を撒いてやるだけです」
「極上の……餌……?」
「ええ。リリィの報告によれば、ウルガノスも処分済みとのことですが……もしアルス殿下が生きているとすれば、生き残った者たち、あるいはその家族を利用するはず。ならば彼らが喉から手が出るほど欲しがるもの――王都の地下に囚われているウルガノスの『人質』を餌にすればいいのです」
オルデンは窓の外へと視線を転じ、なんの感情の籠もらない平坦な声で淡々と告げた。
「アルス殿下の死を悼む『追悼の儀』を王都で公式に執り行いましょう。そして同時に、殿下を手にかけたあの獣人ども――ウルガノスに怒りの矛先を向け、王都の地下に囚われている者たちの『公開処刑』を宣言するのです」
ルクレツィアは目を見開いた。
「もし彼が死んでいるなら、何の問題もなく不穏分子を処刑して終わりです。しかし……もし彼が生きており、ウルガノスと手を組んで王都に潜入しているならば、家族を見捨てられず、必ずその罠へ飛び込んでくるでしょう。……彼を完膚なきまでに叩き潰す絶好の好機となりましょう」
どちらに転んでも、己に不利はない。
冷え込む背筋とは裏腹に、ルクレツィアの喉の奥からは熱を帯びた息が漏れ、歓喜に濡れた赤い唇が歪みはじめていた。
オルデンは恭しく一礼すると、音もなく踵を返した。
太陽光が差し込む優美な私室を背にして、オルデンは背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、静かに歩みを進める。
扉が音を立てて閉ざされ、背後で弾んでいたルクレツィアの笑い声が急速に飲み込まれていった。
(――さあ、アルス殿下。あなたが奈落の底から這い上がってきた怪物なのか、ただの屍なのか……私に見せていただこう)




