16.狂い咲く赤い花
「――もう、用事は済んだでしょう、リリィ。すぐさま王宮へ戻りなさい。今回はよくやってくれたわ」
ルクレツィアからの文が届いたのは、偽報を放ってから三日後のことだった。
アルスの屋敷の一室で、リリィはその手紙を愛おしそうに指先でなぞり、濡れた瞳でそっと笑みをこぼした。
(……これは、見抜かれましたわね……)
その夜、月明かりも届かない闇夜に紛れ、リリィは誰にも告げず、自室を静かに抜け出した。
逃げるためではない。自分がここに留まれば、やがてルクレツィアの追手がアルスに害を及ぼすかもしれない。だからこそ彼女は自ら進んで――王宮へ戻る道を選んだのだ。
だが、その姿を暗がりの中から捉えた者があった。
――リムだ。
主人のいない執務室の前を通りかかったリムは、闇に溶け込むようなリリィの姿を認めて思わず足を止めた。
「……リリィ?」
夜風を切り裂くように、リムの声が微かに響いた。
リムが回廊の影から踏み出すと、リリィはわずかに足を止め、優雅に、そしてどこか面倒くさそうに首を傾けて見せた。
「こんな夜中に、どこに行く気よ……?」
リムの鋭い視線が、リリィの整った横顔を射抜く。
荷物も持たず、夜陰に乗じて一人で外へ出ようとする行動は、どう見ても不自然すぎた。
「……あら、リムさん。夜のお仕事、ご苦労さまですわ」
リリィの落ち着き払った態度が、かえってリムの警戒心を跳ね上げる。
「ふざけるな! 答えなさい!どこに行くつもりよ? もしかして……ルクレツィアの元へ戻る気なの!?」
怒気をはらんだリムの追及に、リリィは小さく吐息を漏らした。その瞳には、底知れぬ熱が宿っている。
「戻る、と言いますか……。私が流したあの嘘を、あの疑い深い女に『真実』として信じ込ませるためには、この私が自ら捕らえられ、王宮で傷ついてみせる役目が必要でしょう……?」
「なっ……! 正気なの!? 戻ればどうなるか分かっているの! 殺されるかもしれないのよ!」
「殺される? それの何が不都合ですの?」
軽やかなリリィの返答に、リムは息を呑んだ。
「私がどうなろうと、あの女の元でどう貶められようと、そんなものはどうでもいいの。……ただ、私が自らあの女の前に出ることで、アルス様の完璧な盤面を支える礎になれるなら……これほど甘美な愛の捧げ方など、この世に他にありませんわ」
「……この女、頭がおかしい……ッ!」
背筋が凍るような狂気に気圧されながらも、リムは反射的に弓の柄へと手をかけた。
行かせてはならない。彼女が抱えているのは逃亡の意志ではなく、自らの死を覚悟したアルスへの「狂おしい献身」だ。そんな死地へ向かう狂気をそのまま見逃せば、彼女は二度と生きて戻らない。
「動かないで、リリィ! 貴女を行かせるわけにはいかない!」
リリィは妖艶に微笑むと、一歩だけ闇の中へ身を引いた。
「あの方は、私がどこへ行こうと、どんな罠に落ちようと……すべてを飲み込んで圧倒してくださるわ。……あの方こそが、私のすべてですもの」
「待て……っ!」
リムが踏み込もうとした瞬間、リリィの姿は夜の闇の深みへと完全に溶け込み、音もなく消え去っていた。
残されたのは、わずかに漂う甘い残り香と、言い知れない不気味な気配だけだった。
「くそっ……!」
リムは歯噛みすると、二度と戻らない闇を睨みつけた後、背筋に走る悪寒を振り払うようにして、アルスの潜伏先の倉庫へと走り出した。
◇
王都、後宮の最奥――。
煌びやかな明かりが灯る豪奢な一室に、リリィは静かに姿を現した。
薔薇の香りが漂う部屋の中央。深紅の長椅子に腰掛けていたルクレツィアは、優雅に葡萄酒のグラスを傾けながら、細い目を緩めた。
「……どの面下げて私の前に現れたのかしら?」
その言葉とともに、部屋の扉が重々しい音を立てて閉ざされた。
部屋の陰の中から音もなく現れたのは、近衛兵のそれではない。ただ冷徹に主の命を遂行するためだけに用意された、異様な気配を纏う者たちだった。
「お戯れを、ルクレツィア様。私は――」
「お黙りっ!!」
鋭い風切り音が響き、ルクレツィアの手から放たれたグラスがリリィの額を捉えた。割れた破片が浅く肌を切り裂き、鮮やかな血が一筋、鼻筋を伝い落ちる。
「私を騙せると思ったのかしら? その瞳を見ればわかるわ。あの忌々しいアルスに、すっかり毒されているじゃないの!」
ルクレツィアは立ち上がり、ゆっくりとリリィへ歩み寄った。
「忘れたわけではあるまい? お前という人形に息を吹き込み、拾ってやったのは私だ。その命も、骨も、血のひと滴まで私のものだ……! なのに……あんな男に心を売るなんてねぇ!」
「……ふふ」
リリィの唇から漏れたのは、どこか哀れむような笑いだった。
「……お可哀想な、ルクレツィア様。貴女は一生理解できずに、死んでいくのでしょうね。あのお方の……背筋が凍るほどの偉大さを……」
「この……恩知らずの虫けらがッ!!」
ルクレツィアの顔が激怒で歪み、激しい平手打ちがリリィの顔面を捉えた。
床に倒れ込んだリリィの背を、黒衣の男たちが容赦なく踏みにじる。重いブーツと鎖が擦れ合う甲高い金属音が、室内に虚しく響き渡った。
後宮の地下室――
湿った石壁に、重々しい鎖の音が響き渡る。
「……言わないのかしら、リリィ? あの小僧が次に何を企んでいるのか」
黒衣の男の鞭がしなり、リリィの白い肌を苛烈に切り裂いた。
ドレスは引き裂かれ、爪は剥がれ、鮮血が地下室の石畳を赤く染めていく。
(……あぁ、思い出したわ……)
猛烈な激痛のなか、リリィの意識は混濁し、過去の底へと落ちていく。
親に売られ、路地裏で飢えと暴行に怯えていた幼少期。凍える冬の夜、残飯を漁って生き延びていた自分を見つけたのがルクレツィアだった。
『拾ってあげるわ。私に命を捧げなさい』
そう言って差し出された手には温もりなどなく、ただ都合よく使い潰すための「道具」に過ぎなかった。死よりも深い孤独の中で育ち、心を殺して生きてきた。
あの男、アルスに出会うまでは――
(私に命を与えたのは、貴女じゃない……。あのお方だけが、私という存在を……丸ごと飲み込んでくれた)
乱れた赤髪の間から、血に濡れた瞳が狂おしく見開かれる。リリィは舌の先で自らの血を舐めとり、爛々とした笑みを浮かべた。
痛みが走るたびに、胸の奥が熱く満たされていく。この痛みこそが、彼女がアルスに捧げる愛の証だとばかりに……。
「……ふふ……お可哀想な、ルクレツィア様……。……愛されなかった貴女には……絶対に届かない……」
「この……小娘がぁッ!!」
「そこまでになさい!」
暗がりから、静かな靴音を響かせてオルデンが歩み寄ってきた。
眼鏡の奥の冷たい瞳で、血塗れのリリィを見下ろす。
「死んでしまうと、『道具』としての価値がありません。この女の瞳を見れば分かります。完全に毒されている。ならば、この女には相応しい使い道を与えてあげましょう」
オルデンは眼鏡の縁をそっと指先で押し上げ、感情の失せた瞳で静かに告げた。
「アルスを引きずり出し、その自尊心を足元から打ち砕くための『餌』という使い道を……」
◇
王都の裏路地にある古びた地下倉庫――
淡い光のなか、アルスは壁に掲げた王都の地図を見つめていた。
「――リリィが、自ら王宮へ戻っただと?」
報告を聞き終えたアルスは、ほんの僅かだけ眉を動かした。その瞳が、報告を伝えたリムから逸らされる。彼は表情を一切変えず、数度、机を指先で叩いた。
「……間違いありません」
傍らに立つリムが、血相を変えて早口で告げる。
「昨夜、彼女が一人で王宮の方へ向かうのをこの目で見ました。アルス様!このままでは、リリィは……!」
ヴォルクや周囲のウルガノスの戦士たちも、険しい顔つきでアルスの出方をうかがっている。
アルスは広げた地図から視線を外し、腕を組んでわずかに目を細めた。
利用価値のある道具として手元に置いていたはずの女が、なぜ王宮の罠へと飛び込んだのか。彼女の行動原理は、アルスの予測の範囲から外れていた。
アルスはかすかに息を吐き出すと、視線を地図から外し、机の上に置いた短剣の柄に軽く指を添えた。
「……だが、だからと言って計画を止めるわけにはいかん」
「アルス様!このままでは、リリィは殺されてしまいます! 彼女をこのまま見殺しにするおつもりですか……!」
リムの必死の訴えを、アルスは片手で制した。
「リリィがどう動こうと、計画の骨子は変えん。明日未明、手薄になった警備を抜けて地下牢を叩き、お前たちの家族を奪還する」
すべての駒が、破滅と血塗れの罠へと吸い寄せられていく――。




