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08.蜜を喰らう

 王都ガルダインの一角にあるアルスの私邸に王宮からの使節が到着したのは、昼前のことだった。


 中庭に向かって歩くアルスの足取りに迷いはなかった。王宮から刺客混じりの使節が届くことなど、とうに織り込み済みだった。アルスは無表情のまま、石畳を踏みしめて前へ進む。


 中庭を囲む石畳には、衛兵のバルド率いる兵たちが緊張した面持ちで整列している。バルドは腰の柄に手をかけたまま、王都の大通りを抜けてやってきた馬車を厳しい目で見つめていた。


 車輪が重い音を立てて止まる。従者が扉を開けると、中から一人の女が降り立った。


 白い肌に鮮やかな赤い髪。仕立ての良いドレスを纏い、愛くるしい笑みを浮かべている。


 リリィはドレスの裾を軽やかに持ち上げると、小首をかしげて完璧な辞儀をしてみせた。


「お初にお目にかかります、アルス様ぁ。王宮よりガルド陛下の命を受け、参上いたしましたリリィと申しますぅ。栄えある軍旗公となられた殿下に、王家からの温かいお心遣いをお届けに上がりましたのぉ」


鈴を転がすような甘い声でそう言うと、リリィは王印の押された書状を取り出し、両手で差し出す。


 そこに記されていたのは――『軍旗公アルスを称え、リリィを妃候補として授ける』という縁談の勅書であった。


 リリィは瞬きひとつせずアルスの瞳を見つめ返し、可愛らしく首を傾げてみせた。


 バルドはその身のこなしに、うっすらと眉をひそめた。だが、アルスは表情を緩め、熱っぽい視線をリリィに向けた。


「これはご丁寧に。王宮からわざわざ足を運んでくださるとはご苦労なことだ。……それにしても、父上がこれほど美しい方を遣わしてくださるとは」


 アルスの露骨な鼻の下の伸ばしように、周囲の兵たちは呆気にとられた。バルドに至っては口を開けたまま、信じられないものを見る目で主君を二度見している。


 アルスはリリィへと一歩踏み込んだ。


「王宮からの移動で疲れただろう。まずは私の君の部屋へ案内しよう。これからは、私の傍を離れては困る」


 リリィは瞬時に目元を和らげると、うっとりと頬を染めて上目遣いに見つめ返した。


「まあ……アルス様はお優しいのですねぇ。私、胸が高鳴ってしまいましたわぁ。お言葉に甘えさせていただきますねぇ」


 リリィは差し出されたアルスの腕に、自分の細い腕をそっと絡ませた。



◇



 アルスに用意された私邸はかつての離宮を改装したものだが、調度品は最小限で殺風景だった。


 部屋へ入るなり、リリィは微笑を絶やさぬまま、部屋の二つの出入り口と窓の外の死角へわずかに視線を走らせた。


 護衛の配置を確認し、そのすべてを目に焼き付け、何事もなかったかのようにアルスへと向き直る。


「リリィ、ここが君の部屋だ。手狭で申し訳ないが、私の執務室の隣だけは譲れなくてね」


 アルスはリリィの背に手を添え、奥の執務室へと足を進めた。


 落ち着いた木調の室内に足を踏み入れると、アルスは湯気の立つ茶器を取り出し、二つの磁器のカップに温かい果実茶を注いだ。


 リリィは可憐な陶酔の表情を貼り付けたまま、しなやかに歩み寄る。


「アルス様ぁ……私のような者のために、それほどお優しくしてくださるなんてぇ。宮廷の恐ろしい噂なんて嘘ばかりですのねぇ。こんなにも温かいお方ですのにぃ」


「はは、いったいどのような噂を耳にされたのか」


 アルスは湯気の立つ磁器のカップをひとつリリィに手渡し、自らも自分のカップを口に運んだ。


「まあいい。我が屋敷へよく来てくれた。……これから始まる二人だけの時間のために、まずは喉を潤すといい」


「喜んでいただきますわぁ」


 リリィは甘い微笑みを浮かべながらカップを傾け、小さく口をつけた。温かい果実茶を一口含んだ後、さらに距離を詰め、アルスの胸元に華奢な手をそっと乗せる。


 「アルス様ぁ。王都ではぁ、あなたが血も涙もない悪鬼のようなお方だと、聞かされておりましたのぉ。ですがぁ、こうしてお側にいるとぉ、なんだか私が守ってあげたくなるようなぁ、そんな切ない気持ちになりましたのぉ」


 アルスは愛おしげな笑みを深め、リリィの腰にそっと手を回した。


「ふっ……そう言ってくれたのは、この王都で君が初めてだ。嬉しいよ、リリィ。君は私を裏切らないな?」


 その言葉の裏にある鋭い探りに、リリィの背筋にわずかな緊張が走る。


 リリィは完璧なタイミングで身体の力を抜き、アルスの胸元にしがみつくように身を寄せた。


「……意地悪なお質問ですことぉ、アルス様ぁ。私はあなたに尽くすために遣わされた身ぃ。この命も心もぉ、ずっとあなたのものですわぁ」



◇



 夜の帳が下り、王都の喧騒が遠ざかる頃。アルスの執務室から漏れる灯りが、中庭の石畳を淡く照らしていた。


 回廊の陰から、その様子を伺う影があった。ファウナスの族長の娘、リムだった。


「アルス様があんな女と……本当に、篭絡されているんじゃないの……?」


 リムが苦々しく呟いたとき、背後から足音が近づいてきた。


「リム様」


 振り向くと、そこには腕を組んだガルカンと、どこか落ち着かない様子のバルドが立っていた。


「バルド……アルス様を止めなくていいの!? あの女、怪しすぎるわ!」


「殿下の指示だからな」


バルドは心配した様子で、窓の向こうの灯りを見やった。


「警備の網をわざと甘くし、あの女を懐に引き込んでいる。殿下はあの女が刺客であることなど、最初から見抜いているさ」


ガルカンも鼻で短く笑った。


「あのお方はな、好き好んで女に現を抜かすような器じゃない。己の命すら盤上の駒にして生き延びてきた男だ。全て、織り込み済みだろうさ」


「……だけど!」


 リムは唇を噛み締め、爪が食い込むほど拳を握りしめた。


「あの女の匂いが気に入らない。甘ったるい香水の裏に、人を殺してきた奴特有の嫌な臭いが混ざってる。あんなのを野放しにして……!」


「信じろ」


 リムの言葉を遮ったバルドの横顔から、昼間の軽薄さは消えていた。


「殿下が部屋で体を張ってんだ。俺たちにできるのは外を固めることだけだ。……あの女がボロを出した瞬間、逃がさず叩き潰す」


 リムは息を呑み、再び執務室の窓へと視線を戻した。


 窓ガラスの向こうでは、アルスがリリィの手を取り、甘い言葉を囁いているような影が映っている。その光景に胸が締め付けられるような不快感を覚えたが、二人の言葉が焦りを冷ましていった。


「……分かっているわよ。アルス様が簡単にやられるわけないってことくらい」


リムは悔しそうに吐き捨て、再び拳を強く握りしめた。


「でも、あたしはあたしのやり方で、あの女の化けの皮を剥いでやるんだから」


 リムは静かに背を向け、去っていった。ガルカンとバルドはその背中を見送り、静かに夜の回廊へと戻った。



◇



 回廊の足音が完全に消え、室内にはリリィの残した甘い香水の匂いだけが漂っていた。


 リリィはアルスの胸元から顔を上げ、甘えるような上目遣いで視線を送った。


「アルス様ぁ……なんだか今日は、疲れてしまったようですのぉ。少しあちらで休ませていただいてもよろしいかしらぁ?」


 アルスは優しく微笑み、リリィの赤い髪に触れた。


「ああ、無理をさせるつもりはない。疲れただろう、リリィ。今夜はゆっくり休むといい」


「ありがとうございます、アルス様ぁ……」


 リリィはしおらしく頭を下げ、隣の寝室へと引き下がっていった。


 自室の扉を閉じ、音もなく鍵を下ろした瞬間。リリィの顔から、さっきまでの可憐な笑みが完全に消え失せた。暗がりの中でベッドの端に腰を下ろすと、リリィは声もなく息を整え、じっと扉の向こうへ視線を据えた。


 これまで何人もの男が、同じ顔で自分を抱こうとして喉を裂かれてきた。


 リリィは無言のまま、ドレスの縫い目から太腿の短剣へ指を滑らせた。革巻きの柄が、指先に確かな重みを伝える。

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