07.甘い蜜の香り
ガルダニアの王都ガルダイン。
その日――国境から「王太子の生還」、そしてガルド王による新たな「軍旗公」の補任という驚愕の報がもたらされた瞬間、王宮の静寂は脆くも崩れ去り、貴族たちの思惑と悲鳴が入り乱れる大混乱へと陥った。
――後宮の奥深く。
市井の民が飢えや重税に苦しむ外の世界とは切り離され、陽の届かない回廊には重厚な調度品が並び、息が詰まるほど強い香水の匂いが立ち込めていた。
その一角で、若い侍女が床に膝をつき、小さく震えている。ルクレツィアに差し出した紅茶の温度がわずかにぬるかった――理由はただそれだけであった。
「……この役立たずが。私の機嫌を損ねるなど、いい度胸ね」
ルクレツィアは笑うと、手近にあった銀の燭台を掴み、怯える侍女へ叩きつけた。
侍女の悲鳴が室内に響く。ルクレツィアは感情の失せた目で側近の衛兵を見やった。指示を解した衛兵が歩み寄り、床に縮こまる侍女を容赦なく蹴りつけ始める。ルクレツィアにとって、これは腹いせというよりも単なる日常の娯楽に過ぎなかった。
後宮を手中に収めたこの女にとって、他人の命など踏みつける石ころと変わりなかった。身をよじって動かなくなった侍女を見下ろし、ルクレツィアはつま先でその横腹を蹴り飛ばした。
だが、侍女を痛めつけた程度では苛立ちは収まらず、彼女は手元にあった花瓶を掴むと、床へ向けて叩きつけた。
硬い破砕音が室内に響き、細工の施された瑠璃の花瓶が砕け散った。散乱するガラス片とともにこぼれ出た水が、床の絨毯へ足元から染み込んでいく。
「サナリアで野たれ死にするはずの奴が……どうして今さら、次の王座を目前にしているの」
花瓶の割れる音に怯え、ルクレツィアの足元で小さく身を縮こませていたのは、第二王子のヴィルだった。まだ十歳にも満たない幼い少年である。
だが、ルクレツィアは縮こまる息子を気に留めることもなく、苛立ちのままにその両肩を強く掴み上げた。
「ヴィル、聞きなさい。この国の正統な後継者はお前なの。私たちが築き上げてきたすべてを奪われてたまるものですか!」
「……母上、痛い……」
ヴィルが涙をにじませ、か細く訴える。ルクレツィアはひとつ息を吐き出すと、肩の力を抜き、怯える我が子を強く抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。
「……可哀想に。怖がらせてごめんなさいね、ヴィル。でもね、そんな情けない顔をしてはダメ。お前はこの国の王になる、私の愛しい宝物なのだから」
ルクレツィアは我が子の濡れた頬を丁寧に指で拭うと、愛おしそうにその額へ唇を寄せた。そのまま背中をあやすように撫でながら、その目はすでに向かうべき場所を見定めていた。
「いいわ。あの野良犬が図に乗るのもここまでよ。ガルドに会いに行くわ」
ルクレツィアは立ち上がると、まだ状況を飲み込めていないヴィルの手を引き、速足で部屋を出た。短く小さな歩幅で必死についてくる息子の手を握り締めたまま、王の執務室へと向かう。
◇
扉を押し分け、ルクレツィアはガルドの執務室へと足を踏み入れた。
奥の机で書類に目を通していたガルドは、荒々しい足音にも視線すら上げなかった。寛げた襟元から覗く首筋や胸元には太い筋が浮き、わずかに酒の匂いを漂わせているが、その体躯に衰えはない。
卓上に広げられた軍の報告書の上を、王の太い指先が淡々と撫でていく。押し寄せてきた愛妾の息遣いにも動じることなく、ただ手元の文字だけを追っていた。
「……騒々しい」
ガルドは書類に目を落としたまま、億劫そうに口を開いた。ルクレツィアは息を荒げ、絨毯を踏みつける。
「どうしたもこうしたもありません! あの忌々しいアルスが生きて戻ったのよ! あなたが生かし伸ばしにするからこんなことになるのよ!」
ガルドは肘掛けに頬杖をつき、鼻から深く息を吐き出した。
「国境でのあいつの面構えを見た。白馬を駆り、ファウナスの異形どもを従え、ブラントンまで膝をつかせた。あそこで強行に討ち取ろうとすれば、我が三千の兵の半数が寝返り、王都まで火の海になっていたぞ」
「なら、指をくわえてあいつが乗り込んでくるのを待つというの!? 兵が使えないのなら、頭を使えばいいでしょう!」
ルクレツィアは机の脇へ踏み込むと、ガルドの肘元に身を寄せた。
「表向きは、アルスへ軍旗公就任の祝賀を贈り、正式な縁談を持ちかけるのです。我が国の高貴な令嬢を嫁がせる……後継者として妃を娶ることが必要と言えば、拒む理由はなくなります」
ガルドはうっすらと目を細めた。
「縁談だと……? 一体、誰を送り込む。あいつは幼い頃から謀略の渦中で生き延びてきた。並の女の企みなど、歯牙にもかけんぞ」
「ご安心なさい。私のもとに、打ってつけの者がおりますわ――入りなさい」
ルクレツィアが短く手を叩くと、壁際の影から一人の女が音もなく歩み出た。
白い肌に赤い髪。リリィはドレスの裾を軽やかに持ち上げ、小首をかしげて完璧な辞儀をしてみせた。愛くるしい笑みと、鈴を転がすような甘い声。だが、その瞳はまばたき一つせずガルドの顔を捉えている。
「表向きは子爵家の令嬢リリィです。私の下でどんな汚れ仕事もこなしてきた影……今までも、見事に動いてくれた手練れですわ」
「お初にお目に掛かります、ガルド陛下ぁ。あんな未熟な王子様なんて、私の笑顔とお甘い言葉で落として見せますわぁ。偽りの愛にたっぷり酔いしれさせて……油断したところで、喉笛をすっぱり掻っ切って差し上げますわぁ」
ルクレツィアは満足げに、リリィの細い肩を引き寄せた。
「噛みつくしか能のない野良犬には、甘い蜜を舐めさせればいいの。アルスに擦り寄り、内部から腐らせなさい。あの首を持ち帰れば、我が愛しいヴィルの王位は盤石となるわ」
ガルドは二人を冷ややかな目で見つめ、短く鼻を鳴らした。
サナリアの地獄から這い上がってきた男が、それほどの甘い罠に引っかかるはずもない。だが、刺客が成功すればよし、失敗してアルスに返り討ちに遭ったところで、己の手は汚れない。
「好きにするがいい。……ただし、余は一切関知せん」
ガルドはそう言い捨てると、再び手元の書類へ視線を落とした。
◇
数日後――。
王宮の門を抜け、絢爛な使節の馬車が静かに走り出した。金銀の装飾が施された車内、リリィは薄絹の幕越しに王都の街並みを眺めていた。
「軍旗公アルス……」
小さく呟いた声に感情はない。
男など、望む通りの女を演じてやれば勝手に酔いしれ、隙を晒す。戦場でどれほど修羅を潜ろうと、喉元に刃を突き立てれば死ぬ。それだけの話だった。
馬車は王都の喧騒を抜け、アルスの屋敷へと向かって静かに走った。




