06.父の言葉
ルクス砦を陥落させたアルスは、休む間もなくファウナスの全軍を率い、国境地帯へと進軍を開始していた。
サナリアのルクス砦が落ちたという報せは、瞬く間に両国の軍勢へと駆け巡った。
とりわけ、ガルダニア王国の前線に走った衝撃は計り知れない。
サナリアへ生贄として捨て置かれたはずの王太子が、生きて砦を陥落させ、舞い戻ってきた。さらには獣人のファウナスを、己の手足のごとく従えているという。
それはもはや、一人の人間の生存という事実を超え、ガルダニアの勢力図そのものを根底から揺るがす事件であった。
「……ほう。生きて戻るかアルスよ」
ガルダニア王国の本陣が敷かれた平原。天幕の中、軍装のまま野戦用の玉座に深く腰を下ろした男――ガルダニア国王ガルドは、息を切らして駆け込んできた伝令の報告を聞き終えると、苦々しく吐き捨てた。
荒野の部族を叩き潰してガルダニアを打ち立てた覇王も、今や老いと怠惰に身を委ねている。だが、その巨躯から漂う底知れぬ威圧感は、いまなお周囲の将校たちをすくませるに十分だった。
周囲を取り囲む屈強な将軍たちや近衛兵たちが、王太子の生還に浮き足立ち、動揺を隠せずにいる中、ガルドだけが静かに杯の酒を煽っていた。
「王よ……! サナリアの精鋭すら彼の者の前ではまるで歯が立たなかったとか。もしや、ファウナスと結託して我が陣へ攻め入るつもりでは――」
進み出た将校の言葉を、ガルドはわずかに上げた片手だけで遮った。
重苦しい沈黙が天幕を支配する。
ガルドの胸中に去来したのは、長年腹の底にこびりついていた胸の悪い『不快感』だった。
幼い頃から見せる鋭い眼光と異様な才覚。自分が築いた国を、いずれこの息子に奪われる――その本能的な危惧こそが、アルスを生贄として追いやった真の理由だった。
自身を脅かす唯一の存在を摘み取ったはずだった。だが、この男は地獄の底から、這い上がってきたのだ。
「騒ぐな、腰抜けどもが」
ガルドは重々しく立ち上がった。その巨躯が立ち上がるや、天幕の中は水を打ったような静寂に包まれた。
「我が愚息が、ご自慢の連れ合いを伴って挨拶に来たのだ。……ガルダニアの王たる余が、天幕の奥で震えて待つわけにもいかんだろう」
ガルドの重厚な声に応じるように、ガルダニアの精鋭騎兵三千が、寸分の狂いもなく陣形を整えて平原へと展開した。
緩やかな丘の向こうから迫る、黒山のようなファウナスの戦士たち。
そしてその先頭、太陽の光を浴びて白銀に輝く一頭の白馬――その上に青年はいた。
風が吹き抜ける平原の中央。
ガルダニア軍の陣前にて、アルスは静かに手綱を引いた。その背後には、ファウナスの長オルグと娘のリム、そしてバルド、アレン、ガルカン――共に死線を越えてきた猛者たちが、息を殺して控えている。
ガルダニアの兵列が左右に割れ、甲冑を纏ったガルドが静かに馬を進め出た。
二人の視線が交差する。
「――わざわざ出迎えていただけるとはな、父上」
アルスの声は荒野の風を突き抜け、真っ直ぐに届いた。三千の軍勢の喧騒を軽々と払うだけの凄みが宿っていた。
馬上で腕を組んだガルドは、無言のまま息子を見下ろした。
「……生きてその面を晒したか、アルス」
その一言だけで、三千の陣が静まり返る。
「サナリアの肥やしになるかと思えば、随分と妙な者どもを連れ込んできたものだ。人質として送られた先で耐えられず、逃げ出してきたか?
それとも、その化け物どもに命を乞うて生き永らえたか」
「あいにく、どちらでもない」
アルスは淡々とガルドを見返す。
「だが、感謝はしていますよ、父上。私をサナリアへ引き渡してくれたおかげで、頼もしい軍勢を得られた。後宮で毒を盛られるのを待つより、よほど有意義な時間でした」
ガルドは腕を組んだまま、静かに口を開く。
「ぬかしよるわ」
ガルドの深く刻まれた口元に、凶悪な笑みが浮かんだ。
ガルドの背後から、一騎の馬が静かに陣前に進み出た。ガルダニア軍の重鎮、ブラントン侯爵である。
その老眼はアルスではなく、彼が跨る白馬ヴェルトに深く注がれていた。
かつて大陸を統一した王の血を引く名馬。サナリアすら手綱を取れず持て余していた、人を寄せ付けぬ暴れ馬だ。
「……サナリアの暴れ馬を、御されたか」
ブラントン侯爵の声が、静まり返った陣前に響いた。
侯爵はガルドの制止を待たず、静かに馬から降りると、地面の上に深く片膝をついた。
「人を寄せつけぬ王の血脈が、自ら背を許した。武力で縛るにあらず、ただその器をもって屈服させた……これこそ、古より伝わる『覇王』の証」
老将軍は頭を垂れたまま、静かに言葉を続けた。
「お帰りなさいませ、アルス殿下」
その一言と姿に、ガルダニア軍の前線が大きく揺れた。
ガルドに従いながらも、現在の冷酷な統治に限界を感じていた騎士たちの間に、決定的な亀裂が走る。
「ブラントン様が……」
「アルス殿下は、白馬を従え戻られたというのか」
ざわめきは瞬く間に陣の後方へと伝播し、前線の兵たちが次々と槍を収めていった。
ガルドの目が細められた。
(……生かしておいてよい器ではなかったか)
大剣の柄に伸びかけたガルドの手が、途中で止まる。
揺らぐ自軍の兵士たち、控える異形の大群、そして白馬上のアルス。今この場で力で踏み潰すには、代償が大きすぎた。
アルスはヴェルトを一歩前に進ませた。
「父上。忘れたとは言わせない」
アルスは真っ直ぐにガルドを見据えた。
「サナリアへ引き渡されるあの日のことだ。あなたは私の顔も見ず、吐き捨てた。『生きて戻ることがあるなら、望みの一つも聞いてやろう』と」
三千の軍勢の前で突きつけられた言葉に、ガルドの眉根が一瞬だけ寄る。
死地へ送る生贄に向けた軽口を、いま全軍の前で拾い上げられたのだ。
ガルドは鼻で笑い、大剣から手を離した。
「……言ったな。余の言葉に二言はない。言ってみろ。生きて戻った褒美に何を望む? 領地か? 金か? それとも女か?」
「そのようなものは要らない」
アルスの返答は短かった。
「望みは一つ。このガルダニアの『軍旗公』の地位をいただきたい」
ガルドの目が、据わった。
「軍旗公」――全軍の指揮権を握り、実質的な次代の王を示す名。かつてガルド自身が兄弟の血を流し、力づくで奪い取った座であった。
「……正気か、アルス」
「断るなら、それもいい」
アルスは静かに言い放つ。
「だが、私が生きて戻った以上、『サナリアによる王太子殺害』を理由としたこの遠征の大義は消えた。ここで私を斬り捨て、全軍を納得させられるのなら、やってみせるがいい」
ガルドは黙したまま、息子を見据えた。
ここで約束を翻せば、全軍の前で己の言葉を汚すことになる。強行して刃を交えれば、すでに揺らぐ自軍が内部から崩れる。
ガルドは無言でアルスを見つめ返した。その瞳の中にあったのは、かつて兄弟から『軍旗公』の座を奪い取った頃の、若い己の影だった。
(……くくっ。よく育ったものだ)
ガルドの口元に、自嘲を交えた薄い笑みが浮かぶ。
かつて自分が兄弟から奪い取ったように、この息子は今、正当な顔をして己の喉元に刃を突きつけている。
「……よかろう」
押し殺したガルドの声が、平原の静寂を沈めた。
「お前に……『軍旗公』の位を与える」
その一言が落ちた瞬間、ガルドの後方に控える将校や、愛妾に取り入っていた貴族たちの顔から、いっせいに血の気が引いた。
異母弟を擁立して権力を握ろうとしていた彼らにとって、アルスの『軍旗公』就任は、宮廷での敗北を意味していた。
ガルドは馬の手綱を静かに引くと、陣幕へと馬首を向けた。怯える貴族たちの脇を通り過ぎ、背越しに一言だけ言い捨てる。
「首を獲るつもりなら、抜かるなよ。……次は、生かしてはおかん」
背後でファウナスたちの咆哮と、ガルダニア兵たちの茫然としたざわめきが湧き上がった。ガルドはその動揺を背に受けながら、陣幕の奥へと消えていった。
見捨てられた王太子アルスが、自らの力で『軍旗公』の座を奪い取った瞬間であった。
遠ざかるガルドの背中を見送りながら、アルスは静かに息を吐き出した。
「……さて、これで前座は終わりだ」
傍らに馬を寄せたオルグが、猛然とした笑みを浮かべる。
「一歩も引かんとはな。……それで、次は何をするつもりだ?」
アルスは口元を微かに緩める。
「この国を、一から作り直す」
その瞳には、すでにガルダニアのその先――大陸全土の未来が映っていた。




