05.反撃のルクス砦
断崖の切れ目に築かれたファウナスの隠れ里に潜伏して短い月日が流れた。
昼なお薄暗い岩穴のなか、アルスは素肌の上に直接晒布を巻き直していた。サナリアの馬小屋で叩きのめされた脇腹の骨はまだきしむ。
兵士の靴底に何度も踏みにじられた背中の打撲痕は、黒ずんだ紫色から黄色く退色しつつあったが、深く息を吸い込むたびに肋骨の隙間が熱く疼いた。
「あまり動くなと言ったはずだ。また剣を振り回してやがったな」
洞窟の入口から、膏薬を手にしたガルカンが入ってきた。古傷だらけの指で、アルスの背中に冷たい薬を粗っぽく塗りたくる。
「傷は塞がりかけている。……だが骨はまだ繋がりきっちゃいねぇ」
アルスは短い頷きだけで返すと、麻の着衣を静かに引っ張り上げた。
「……じっとしていれば体が鈍る。実戦で慣らせばいい」
「頑固な若造だ」
ガルカンが鼻で笑い、膏薬の壺を岩棚に置いたところへ、奥からアレンが入ってきた。
「殿下。動静が掴めました」
アレンは床の土を踏みならすと、拾い上げた鋭い小枝の先で、地面に直接いくつもの線を走り書きし始めた。
この数日、見張りの目を盗んで自らの足で調べ上げてきた周辺の地形と、遠方から観察した敵部隊の動きだ。
「ここが我々のいる断崖、そしてここが国境線上にあるサナリアの拠点です」
枝の先が、土に深く刻まれた丸印を突く。
「サナリア城のドルガー王は完全に頭に血が上っています。殿下の身を追う兵卒どもは、周辺の村落や我らのような流れ者の集落を片っ端から、しらみ潰しの捜索を続けています。ですが……問題はそれだけではありません」
アレンの指先が、サナリアとガルダニアの国境線上――北方へと伸びる街道の要所を指した。
「ガルダニア本国――ガルド王が動きました。サナリア側から『王太子処刑』の報が届かないことに苛立ったのか、あるいはこの混乱に乗じて国境の利権を掠め取るつもりか、三千の正規兵を率いて国境砦へ進張してきたとのことです」
狭い岩穴の空気が、重く沈んだ。
ガルカンが吐き捨てるように唾を吐く。
「へっ……息子の首が落ちたかどうかも確かめずに、さっそく軍を動かしたってわけか。どこまでも大層な親父殿だな」
アルスは無言のまま、地面に描かれた拙い線と土の窪みを見つめた。
「……国境に三千か」
アルスはしゃがみ込み、土の上の国境線を指先で強く擦り潰した。指腹に黒い土がまとわりつく。
「父は、俺が死んだという報せを待っている。ならば……生きている姿を直接見せてやるのが親孝行というものだ」
「殿下、まさか本陣に飛び込むおつもりですか?」
アレンが顔を寄せる。
「飛び込む。……だが、その前にやることがある」
アルスは立ち上がり、腰の短剣の柄を握りしめた。
「サナリアの追手がこの隠れ里を特定する前に、こちらから仕掛ける。国境にあるサナリアの拠点を潰せば、ガルドの軍も、ドルガーの軍も、嫌でもこちらに目を向けざるを得なくなる」
「作戦を立てる。……刻限までに人を集めてくれ」
集まったオルグやバルドたちにルクス砦攻略の意図を簡潔に伝えた後、アルスは決行の刻限まで、里の奥に設けられた囲いへと足を運んだ。
湿った土の匂いと、青草の匂いが漂う広場。そこに、白馬が佇んでいた。
サナリアの兵たちが鉄鎖と激痛をもってしても慣らすことができなかった巨獣。純白の毛並みは、里の湧き水で洗われ、泥汚れひとつない。太い蹄が地面の小石を踏みくだく音が、静まり返った場内に響いていた。
アルスが近づくと、白馬は耳を倒すこともなく、静かにアルスのもとへ歩み寄ってきた。
「……ヴェルト」
静かに名を呼ぶと、白馬は大きな鼻穴から、温かい息をふっと吹きかけてきた。
「ヴェルト……それが、この子の名ですか?」
背後から声がした。振り返ると、リムが立っていた。
背には小ぶりだが固い木材で補強された半月弓を背負い、腰の革袋には鷲の羽を削った矢が詰まっている。
栗色の髪を後ろで固く結い上げたその姿には、先日までの庇護される娘としての面影はなかった。
「お前も来る気か」
アルスが問うと、リムは足元を固く踏みしめた。
「父様から聞きました。ルクス砦を叩くのでしょう。……あそこは、かつて我がファウナスがサナリアに奪われた土地でもあります。それに、私の弓は飾りではありません」
リムは腰の矢を一本引き抜き、その切っ先を指で撫でた。
「あの砦の物見櫓は、夜間、東からの風で見張りの耳が塞がります。弓の射程に入れば、鐘を鳴らされる前に二人殺せる。私を連れていけば、確実に戦力になります」
アルスはリムの目を見つめた。その瞳に一切の揺らぎがないことを確認すると、短く頷いた。
「遅れるなよ」
「そちらこそ、傷が開いて馬から落ちないでくださいね」
リムはかすかに唇の端を上げると、胸の前で拳を握り締め、己の陣営へと戻っていった。
♢
夜が明ける直前。空が藍色から淡い灰色へと移り変わる刻限。サナリア国境の要衝『ルクス砦』は、深い朝靄の中に沈んでいた。
高さ五メートルの石積みの城壁。分厚い木材で作られた二重の門柱。見張り櫓には、防寒用の毛皮を羽織ったサナリアの兵が二人、長槍に身を預けて立っている。
「……寒ィな。おい、酒の残りはどうした」
「昨日の夜、隊長に没収されたろ。諦めて足を動かせ」
見張りの会話。槍の柄が甲冑に当たるカチカチという乾いた金属音。
その音を、風が吹き抜けてかき消した。
細い葦の管を吹き抜けるような、鋭い摩擦音が夜気を切り裂く。次の瞬間、左側の兵士の喉頭に、根元まで羽矢が突き刺さった。
「がっ……!?」
声を出す猶予すら与えられなかった。血を吐く間もなく、兵士の膝が折れ、石壁に背中をこすりつけながら崩れ落ちる。
もう一人の兵が不審に思い、首を巡らせようとした瞬間、二本目の矢が正確に彼の右目を貫いた。矢先が後頭部を突き抜け、兵士は声もなく櫓の床へと倒れ込んだ。
砦の下の草むらから、リムがすっと立ち上がり、後ろへ向けて手首を小さく振った。
朝靄を切り裂き、巨躯が躍り出た。
ファウナスの族長オルグと、戦士長カランドゥーラ率いる五十人の戦士たちだ。彼らは掛け声すら上げず、音もなく地を蹴り、一気に門へと肉薄する。
オルグの合図とともにファウナスの二人の戦士が、鉄の帯を巻きつけた巨大な丸太を担ぎ上げ、全身の体重を乗せて、かんぬきめがけて叩きつける。
叩きつけられた衝撃で重厚な木材が悲鳴を上げ、内側の横木が弾け飛んだ。間髪入れず、カランドゥーラが隙間に鉄棍をねじ込み、強引に扉をこじ開ける。
「敵襲! 門が破られたぞ!」
「武器を持て! 弓兵、上で構えろ!」
砦の内部から、混乱した兵士たちの怒号と足音が湧き上がった。甲冑を付ける暇もなく、下着同然の姿で剣を抜く者、弓の弦を張ろうとしてパニックに陥る者。
そこへ、破られた門の隙間から、ヴェルトがなだれ込んだ。
ヴェルトの踏み込みは、並の軍馬のそれとは根底から異なっていた。地鳴りのような足音が石畳を叩き、前方に立ち塞がったサナリア兵を重楯ごと、その巨躯でなぎ倒す。
鉄と骨がひしゃげる凄惨な砕裂音が響き渡り、弾き飛ばされた兵士が二人、宙を舞って土間に叩きつけられた。
その背で、アルスは右手に握った剣を構えていた。
サナリアの兵士が、なりふり構わず長槍を突き出してくる。突きは鋭い。だが、アルスはヴェルトの腹を右足の踵で小突き、馬首をわずかに右へ滑らせた。
槍の穂先が空を切り、互いの体がすれ違う。
アルスは手首の返しだけで、すれ違いざまに兵士の首筋へ刃を滑らせた。
皮鎧の縫い目を切り裂く手応え。首筋を断ち切ると同時に鮮血が跳ね、男は声もなく崩れ落ちた。
「ひ……ヒィッ! 化け物だ!」
後方にいた若い兵士が、血まみれの剣を下げたアルスと、その下で血に濡れて荒い息を吐く白馬の姿を見て、握っていた剣を落とした。
ファウナスの戦士たちが怒涛のごとく雪崩れ込み、残りの兵を容赦なく組み伏せ、あるいは取り囲んで叩き伏せていく。勝敗は、門が破られてからわずかな時間で決した。
静まり返ったルクス砦の広場。
転がる死体と、拘束された数十人のサナリア兵の前に、アルスはゆっくりと馬を進めた。
ヴェルトの蹄が石畳の血溜まりを踏みつけ、生々しい音を立てて肉迫する。
アルスは馬上から、地面に膝をつき、恐怖に身を震わせているサナリアの守備隊長を見下ろした。
「ひ、ヒィ……助けてくれ……、命だけは……」
隊長は汗に汚れた顔を上げ、噛み合わない歯を打ち鳴らした。
アルスは剣についた血を振り払うと、静かに鞘へ納めた。硬い金属音が広場に響く。
「命乞いか。殺す価値もない」
アルスは静かに言い放った。
「ドルガーに伝えろ――ガルダニアのアルスが、いずれお前の首を貰いにいくとな」
アルスは馬首を返し、東の空――徐々に赤みを帯びていく朝焼けを見つめた。
アルスが手綱を引くと、ヴェルトは力強く地面を蹴り、崩れかけた門を抜けて荒野へと走り出した。
後には、恐怖に震えるサナリアの兵たちと、昇り始めた陽光に照らされる血塗られた砦だけが残されていた。




