04.獣の契り
荒野を駆け抜けた一行がたどり着いたのは、そびえ立つ断崖に隠されたファウナスの隠れ里だった。
厳重な警戒網を潜り抜け、松明の灯りが照らす広場に降り立つと、そこには傷ついた戦士たちや、怯える子供たちの姿があった。
救い出された栗色の髪の少女――族長の娘であるリムは、アルスの馬の傍らに駆け寄り、その小さな手で白馬のたてがみをそっと撫でた。
「あのときは……本当に、ありがとうございました。あなたが助けてくれなければ、私は……」
アルスは馬の上から静かに首を横に振った。
「気にするな。あれは俺自身の目的のための行動だ」
素っ気ない返答にもかかわらず、リムの瞳には確固たる感謝と、自らの命を救ってくれた孤高の青年に対する強い敬意と憧憬の色が宿っていた。
そのやり取りを、少し離れた場所から重々しく腕を組んでオルグが見つめていた。
里の奥にある大きな焚き火の囲みへと、アルスと、バルドやアレン、ガルカンが招かれた。
乾いた肉と温かいスープが振る舞われ、緊迫した戦場から離れたつかの間の静寂が、張り詰めた空気を和らげていく。
「まさか、あのサナリアの城から白馬を奪い去り、あまつさえ我が娘まで救い出すとはな」
オルグは深く重厚な声を響かせ、木製の杯をアルスに差し出した。
「ガルダニアの王太子でありながら、その父に捨てられた男と言ったか」
アルスは迷いなく杯を受け取り、一口喉に通す。
「我が父ガルドは、俺を生贄としてサナリアに差し出した。だが、俺は死ななかった」
その言葉に、焚き火を囲んでいたファウナスの戦士たちのざわめきが止まる。
そこへ、焚き火で温められていた木椀を両手で抱え、リムが静かに歩み寄ってきた。彼女はアルスの足元へスープをそっと置くと、そのまま佇む白馬の方へと視線を向け、静かに、しかし朗々と古き詩を紡ぎ始めた。
『荒れ果てし夜の果てに、血を分かたれし者たちが、ひとつの痛みに泣くとき――
天駆ける白銀の神獣、その背に跨りし月影の王が現れん
白き獣は地を這う血の呪縛を解かれ、王は長き迷妄の闇を払わん
白き蹄が大地を打ち鳴らす時、分断されし垣根は消え失せ――
すべての群れはひとつの旗の下へ集い、新たな世界の夜明けを拓かん』
透き通った声が夜の広場に響き渡り、ファウナスの戦士たちは固唾をのんで耳を傾けた。
詩を詠み終えたリムは、アルスの隣にそっと腰を下ろすと、先ほど置いた木椀を促すように軽く指し示した。
「これは、我ら獣人族に遥か古より伝わる『月影の王の詩』です。……アルス様、あなたが連れ出したあの白馬は、我らが崇め奉る伝承の『神獣』なのです。決して人に心を許さなかった神獣が、自ら背を許したお方……」
リムの言葉に、アルスは薄暗がりの中に立つ白馬へ視線を投げた。
アルスは己の手を見つめ、無言のまま思いを巡らせる。ただ生き残るために手繰り寄せた手綱が、ファウナスにとって特別な意味を持つ伝承の白馬であったことを、この時初めて知ったのだ。
「父様。このお方は、私たちがこれまで見てきた人族とは違います。恐ろしいサナリアの追手を前にしても一切怯まず、私を救い出してくださいました」
無事を噛み締めつつも一途な眼差しでアルスを讃えるリムの姿に、周囲のファウナスの戦士たちが口元を緩める。
それに気づいたバルドが、豪快に笑った。
「おいおい、お嬢さん。そんな眼差しで見つめるならもっと別の奴にしときな。こいつは命を救ってくれた王子様かもしれんが、その腹の底はまったく見せない恐ろしい男だぜ?」
「なっ……! 私はただ、命の恩人として正当な敬意を払っているだけです!」
リムは毅然と反論しようとするも、どこか照れくさそうに顔を背けた。
アレンがニヤニヤしながら小声で冷やかす。
「いやいや、命を救われて、しかも聖獣に選ばれた男でしょ。憧れるのも無理はないね」
ガルカンが「若いってのはいい」と苦笑交じりに呟いた。
アルスは周囲の雑音に揺らぐことなく無表情のまま、手渡された温かい椀をじっと見つめていた。
一連のやり取りを聞き終えたオルグは、ふんと鼻を鳴らし、杯を地面に置いた。
「誇り高き我が娘がここまで人族を庇うとはな。だがアルス、我が娘を救ってくれた恩は忘れんが、一族の長として言わせてもらえば、お前という人間が何者なのか、それをまだ見極めたわけではない」
オルグは立ち上がり、アルスに向き直った。
「我らファウナスは、恩を忘れず、強者を敬う。サナリアという共通の敵を前に、当面はお前たちを客人として扱い、力を貸すことに異論はない。お前が真に新たな秩序を切り拓く器であるか、見定めさせてもらうぞ」
族長の言葉に、周囲の戦士たちから賛同のうなずきが漏れかけた――その時だった。
「――お待ちください、族長!」
押し黙っていたファウナスの中から、一人の戦士が歩み出てきた。
水門の前でアルスが馬を狂乱させた際、その瞬間の隙を見逃さず、真っ先に飛び出して鉄枷を撃ち砕いた猛将――戦士長のカランドゥーラである。
カランドゥーラはアルスを睨みつけ、苛立ちを隠さずに言い放った。
「確かに城内での機転、リム様を救い出した立ち回りはお見事でした。ですが……だからと言って、この男に一族の未来を賭けるなど到底承服しかねる!」
カランドゥーラは歩み寄り、アルスのボロ布の隙間から覗く痛々しい生傷を指し示した。
「見てみろ、この有様を! 自分の身一つすらまともに守れず、傷ついた人族一人に何ができる! 古の約定が破られ、サナリアの兵に祖地を追われたあの日の屈辱を、貴方は忘れたのか! 口先だけの覚悟や土壇場の運に、一族の命運は預けられん!」
カランドゥーラの激情に、周囲の戦士たちの間にも不安と苛立ちのざわめきが一気に広がった。
「……我が身すら満足に守れぬ、か」
アルスが膝に手を当て、力なく体を起こそうとすると、すぐ隣にいたバルドとアレンが咄嗟に身を乗り出してきた。バルドの太い腕がアルスの背を抱え込み、アレンがその腕を掴んで強引に体重を支えにかかる。
だが、アルスはその支えを拒むように、二人の手を強く振り払った。
荒い息を吐きながら、アルスは自らの足でしっかりと土を踏みしめ、ゆっくりと立ち上がっていった。
アルスはカランドゥーラのすぐ前まで歩みを進め、その視線を真っ向から受け止めた。
重みのある一言が、広場の雑音をかき消した。
「サナリアの地獄を這いずり回り、ガルダニアでは肉親との争いを生き延びて……俺は一つだけ学んだ」
「戦場において、頑丈な体や腕力などただの駒の価値でしかない。本物の強さは――骨を砕かれようが血を吐こうが、最後に敵の喉笛を食いちぎる執念のことだ」
アルスは一切の迷いなく、目の前の猛者を見据える。
「お前たちはこれまで、人族に虐げられ、敗北し、この荒野へ追いやられてきた。なぜか知っているか? お前たちの戦う理由が、過去の傷に縛られた『ただの復讐』でしかないからだ!」
「なに……!?」
「俺が見据えているのは、過去への哀れな復讐ではない。『この大陸の玉座』だ。ファウナスの戦士たちよ、俺と対等な『盟友』として血の誓いを結べ!
お前たちのその怒りと牙を、ただの野良犬の噛みつきで終わらせるか、それとも天下を揺るがす刃となるか――今、ここで選べ!」
静かに言い放つアルスと、それを見下ろすカランドゥーラ。満身創痍の男が放つ眼光には、百戦錬磨の猛者すら圧する鋭さがあった。
圧倒的な熱量と覇気、そして対等な「盟友」として共に高みを目指そうという苛烈な宣言に、戦士長カランドゥーラは言葉を失い、息を呑んだ。
静寂が広場を支配する。
やがて、カランドゥーラは深く不敵な息を吐き出すと、ゆっくりと膝をつき、己の胸に強く拳を叩きつけた。
「……ふん。傷だらけのくせに、とんでもない男だ。復讐ではなく大陸の玉座か……気に入った。お前となら、もう一度死線を潜る価値がある!」
カランドゥーラが膝を折った瞬間、族長オルグもまた満足げに口元を歪めた。
「見事だ、アルス! 誓いは立てられた! 我らファウナス、今日よりお前を対等なる『盟友』として迎え入れる!」
地鳴りのような歓声が夜の隠れ里に爆発した。戦士たちが武器を掲げて打ち鳴らし、アルスの名を叫ぶ。
バルドが豪快に笑い、アレンとガルカンも安堵の笑みを浮かべた。
リムは胸の前で手を組み、誇らしそうにアルスの背中を見つめている。
捨てられた王太子と、ファウナスの戦士たち。大陸を揺るがす盟約が、今ここに結ばれた。




