03.炎の中の逃亡
夜空を赤く染め上げた炎が、サナリア城の北西から噴き上がった。アレンが撒いた油脂が薪に燃え移り、兵糧庫を巨大な火柱に変えている。
非常鐘が鳴り響き、兵士たちが木桶を持って走り回る。城内は混乱に包まれた。
「火を消せ! 指揮官はどこだ!」
怒号が飛び交う中、アルスは陰を縫って走る。目指すのはあの白馬の繋がれた馬房だ。
「おい、この馬を早く外へ出せ! 火が回ったらどうする!」
馬房の入り口、三人の兵士が手縄を引っ張り、白馬を無理やり引っ張り出そうとしていた。
アルスは息を殺し、壁の影から滑り出すように兵士の背後へ回る。最後尾にいた兵士の隙を突き、腰の短剣を抜き去ると、迷うことなくその喉元を横一文字に切り裂く。
噴き出す鮮血。兵士が崩れ落ちる音に、残る二人が瞬時に振り向いた。
「なっ……! 貴様、何をしている!」
すぐさま、隊長格の男か切り掛かってくる。正面からの突きをアルスは短剣でいなすが、繰り出された追撃をかわしきれない。冷たい鉄の切っ先がアルスの額を浅くかすめた。
「ぐっ……!」
視界が赤く染まり、体勢が崩れ足元が大きくよろめく。
「死ね、野良犬が!」
隊長格の男が険しい顔で剣を振り下ろす。
――その刹那。
「――うおおおおおおおっ!」
低い怒号とともに、巨躯が滑り込んできた。
元衛兵のバルドだ。片足に不自由を抱えながらも、その太い腕は隊長格の男の胴を抱え込み、そのまま壁へと叩きつけた。金属の鎧が壁とぶつかり激しい音が響く。
「なっ、どこから入り込んだ……!」
「地獄の底からよ!」
バルドが叫び、襲いかかる残りの隊長格の男へと食らいつく。しかし、踏み込みの甘さから体勢を崩し、隊長格の男に激しく振り払われた。
混戦のただ中。
それを打ち砕いたのは、白馬の響き渡る嘶きだった。
白馬は手綱を握る兵士を吹き飛ばし、巨体を躍らせて隊長格の男へと突進する。前脚の蹄が胸板を直撃し、その身体を地面へと叩きつけた。
白馬はアルスの前へ歩み寄り、そっとその背を差し出した。
「……乗せてくれるのか」
アルスは血をぬぐい、白馬の背へと跨がった。
「早く行きましょう。馬を用意しました」
馬房から奪取した軍馬を手にしたアレンと、ガルカンが出てくる。バルドも、近くの軍馬に飛び乗る。
「――行くぞ。旧水門を抜ける」
アルスの声とともに、彼らは燃え盛る城内広場を駆け抜けた。
降り注ぐ火の粉、崩れ落ちる梁、混乱するサナリア兵の合間を、白馬を先頭に疾風のごとく駆け抜けていく。
前方に、バルドが開けた旧水門が迫る。その向こうには、夜の荒野が広がっていた。
バルドが前方を指して叫ぶ。
「抜けるぞ、水門の向こうへ――!」
だが、その歓喜は一瞬で叩き潰された。
水門脇の石積みの陰から、音もなく滑り出してきた影があった。
それは、サナリアの兵士ではない。
頭部に誇らしげな、そして不気味な螺旋の巨大な角を生やし、武具を纏った屈強な戦士たち。
「……な、なんだあいつらは……!?」
バルドが馬の手綱を強引に引き絞り、蹄が地面を激しく削る。
前方を完全に塞ぐ、異形の一団。手には重厚な戦槌や鉄棍が握られ、その瞳は、じっとこちらを捉えていた。
「……ファウナスか」
ガルカンは枯れた声で呟いた。
引き返そうと馬首を返した瞬間、背後から甲冑を鳴らす無数の足音が押し寄せた。
「囲め! 火をつけた鼠どもを逃がすな!」
前方を塞ぐ、ファウナスの一団。背後を固める、サナリア王国の追撃部隊。
旧水門付近の路地で、馬上の四人は完全に退路を断たれていた。
ファウナスの一団が殺気を高め、前へ足を踏み出そうとしたその時、戦士たちの列を割って一人の男が歩み出た。銀色の装飾が施された武具を纏い、頭部にひときわ立派な角を掲げた男の瞳が、アルスの乗る白馬を見据える。
「……その馬。なぜ、人間がそれを従えている」
「従えてなどいない」
アルスは、一歩も退かずに告げた。
「我が名はアルス。ガルダニアの王太子だ。この馬はただ、俺と共に歩むことを選んだに過ぎない」
ファウナスの間に動揺が走る。
そのやり取りの最中、燃え盛る炎を突き破り、地鳴りのような馬蹄の音とともに現れたのは、サナリアの王ドルガーだった。
その傍らには、鉄枷に繋がれた一人のファウナスの少女。栗色の髪を持つその娘の首筋に、容赦なく刃が添えられている。
「動くな、獣人ども! 一歩でも動けば、こいつの首を刎ねる!」
ドルガーの怒声が響く。
村を襲われ連れ去られた族長の娘を救うため、ファウナスたちはこの混乱に乗じて城内へ侵入していたのだ。人質を取られたことで、屈強な戦士たちの足が完全に縛られる。
「その娘を解放しろ」
ファウナスの銀甲を纏った巨躯の男が押し殺した声で言うが、ドルガーは鼻で笑い飛ばした。
「圧倒的に有利なこちらが、なぜ交渉に応じる? 全員殺して、馬も娘も力で奪えば終わりだ!」
だが、アルスは動いた。
アルスは白馬の首を返すと、迷うことなくその背から跳ねるように地面に降り立つ。
次の瞬間、アルスが手綱を強く引き絞ったことで、白馬が前脚を大きく掲げて激しく暴れだした。周囲の地面を蹴砕く巨獣の威圧感に、サナリア兵たちの乗る軍馬が連鎖して狂乱し、一斉に跳ね上がる。
「ぬあっ!? 馬鹿、落ち着かせろ!」
人質を拘束していた騎士の体勢が、暴れる馬の上で大きく崩れた。
「――今だ!」
アルスの叫びと同時に、ファウナスの屈強な戦士の一人が呼応して路面を蹴って跳んだ。重厚な戦槌が騎士の腕ごと鉄枷を粉砕する。
拘束を解かれた少女がよろめいた瞬間、アルスは数完歩の距離を一気に駆け抜け、その細い手首を掴んで強引に自身の胸元へと引き寄せた。
不意の接触に少女の瞳が大きく見開かれ、至近距離でアルスの顔を捉える。
「……無事か」
少女は言葉を失ったままうなずく。
アルスは白馬の脇からファウナスの娘を押し上げるように飛び乗らせ、その後ろから自らも飛び付くように跨がって手綱を握り締めた。
「――殺せええっ!」
ドルガーが絶叫する。
しかし、ファウナスの銀甲を纏った男の号令が混戦の中に響いた。
「まとめて相手をしてやれ!」
解放された獣の群れが溜め込んでいた怒りをぶつけるように、サナリア軍へと雪崩れ込んでいく。
「――行くぞ!」
乱戦の渦中、アルスは白馬の頭を巡らせ、旧水門を走り抜けた。
「置いてけぼりにするなよ、殿下!」
バルドたちが馬を走らせて追従する。サナリアの兵士はファウナスの猛攻に阻まれ、もはや追撃の余力はなかった。
旧水門を抜け、冷たい夜風が吹き抜ける荒野へ。
アレンが息を吐き、バルドが笑う。
「やった……! 出られたぞ!」
♢
サナリア軍の追撃が途絶えた闇の中、馬足を緩めた一行の傍らに、馬に跨るファウナスの男影が現れた。
血に染まった銀甲を纏うファウナスの巨躯の戦士。彼は、静かにアルスへ視線を向ける。
「……オルグだ。我が娘を救ってくれたこと、礼を言う」
太い響きを持つ声でオルグ名乗った戦士は、わずかに表情を和らげたかと思うと、すぐに引き締めて続けた。
「だが、サナリアを逃れ出たところで、ここからが大変だぞ。追手が諦めるはずもない。当面の行き場がないのなら、俺たちの隠れ里へ来い。この貸しはそこで返してやる」
アルスは痛みを鼻で笑い、鋭い視線を突き返した。
「――借りにしては安すぎるな。俺を匿えば、サナリアだけでなくガルダニアも敵に回すことになるぞ」
「ふん。元より我らと奴らは敵でしかないわ」
オルグは短く鼻を鳴らし、先頭へと馬首を向けた。
アルスもまた、静かに思惑を巡らせる。
若き王子は馬腹を蹴り、まだ先が見えない夜の荒野へと走り出した。




