02.白い巨獣
重い木箱を抱えたアルスの背を、兵士の革靴が容赦なく蹴り飛ばした。
石畳に膝を打ちつけ、使い古した木箱から乾いた干し草がこぼれ落ちる。
「仕事をさっさと済ませろ、このグズが!」
あざ笑う兵士の視線の先――そこは、普段は立ち入りが許されない、特別な厩舎へ続く分厚い扉があった。
扉の奥の回廊からは、他の馬房とは明らかに異なる殺気だった獣の気配と、熟成された甘く濃厚な青草の匂いが漂ってくる。
暴れて人を殺しかねない危険な巨獣の世話を、兵士たちは「死んでも構わない人質」であるアルスに押し付けたのだ。
アルスは無言のまま立ち上がり、散らばった干し草を拾い集めると、扉を抜け回廊の奥へと足を踏み入れた。
「おい、近づくな! 噛み殺されるぞ!」
「気の触れた化け物め……! 獣人どもが崇める神獣だかなんだか知らんが、手綱すら付けさせやがらん!」
罵声と怒号が交錯する馬房の奥――そこに、その巨獣はいた。
姿を見せた瞬間、アルスは息を呑んだ。
軍馬を見慣れたアルスの目から見ても、その馬格はあまりに異様だった。
純白の毛並みは汚れ一つなく、並みの軍馬を圧倒する筋骨隆々の巨躯がそびえていた。重甲冑の騎士ごと踏み潰しかねない、異様なほど太い蹄が固い地面を捉えている。
だが、真に異彩を放っていたのはその巨躯ではない。
その瞳は、暴れ狂う獣特有の血走った眼光ではなかった。白馬のその眼差しは、驚くほど静寂に満ちている。
瞳に宿っていたのは、人間を値踏みするかのような、静かで底知れない知性だった。
「この化け物め……!」
業を煮やした兵士が、革鞭を激しく振り下ろした。肉を割く乾いた衝撃音が回廊に響き渡る。
美しい白毛に一筋の血線が走った瞬間、巨躯が凄まじい勢いとしなりで跳ね上がり、前足の蹄が鉄格子を粉砕せんばかりに叩きつけられた。
「ひっ……! 殺されるぞ!」
兵士たちが我先にと後ずさる。
逃げ惑う者たちの喧噪のなか、アルスだけが動かず、その場に立ちつくしていた。
――その時だった。
暴れていた白馬の動きが、ぴたりと止まる。
荒い鼻息を吐きながら、巨獣は首を巡らせて回廊の隅に立つアルスを見下ろした。
差し込む光を背にして立つアルスを、影の中に佇む巨獣の目がまっすぐにとらえていた。
獣は小さく嘶き、アルスも動かない。息を殺した沈黙の中、二者の視線だけが静かに交差していた。
「――おい、何をしてる! さっさと離れろ!」
正気に戻った兵士がアルスの肩を乱暴に掴み、馬房から力任せに引き離す。
アルスは抗うことなく、無言でその場を去った。
その夜。馬小屋の藁の上。全身を苛む痛みと、隙間風の冷たさが肌を刺す。
足音もなく近づく気配があった。忍び込んできたのは、ガルカンだった。
ランタンの微かな明かりの下、ガルカンは藁に横たわるアルスを見下ろし、小さく咳払いをすると声を潜めた。
「……若いの。昼間、あの白馬を見ていたな。何を考えておる」
「あの馬を、奪う」
アルスの迷いのない言葉に、ガルカンは息を詰まらせ、身を震わせた。
「……正気か。俺たちの明日なんざぁ、奴らの胸三寸でどこかの穴に放り出されて終わりだ。だが、あの白馬を奪うとなれば話は別だぞ。失敗すれば首を晒されるだけでは済まん」
「警備をかいくぐるつもりはない。力任せに突破も論外だ」
アルスはゆっくりと体を起こし、薄明りの中でガルカンを直視した。
「巨大な『混乱』の前には、どんな堅固なものにも必ず等しく綻びが生じる」
「混乱だと……?」
「月のない夜を選び、この城の兵糧庫に火を放つ。兵たちが消火に追われ、あの馬を逃がそうと馬房を開けた瞬間を狙う」
「放火だと……!?」
ガルカンは思わず息を呑み、周囲を警戒するように声を潜めた。
「狂ったか! 失敗すればお前一人にとどまらず、俺たちのような使い捨ての人間までその罪を問われ、根絶やしにされるぞ!」
「ガルカン。惨めに泥水をすすって死ぬか、死地を潜り抜けて奴らの頭を踏みつけるか――選べ」
ガルカンは絶句した‥‥‥。
やがて、深く刻まれた顔のシワをさらに深め、鼻から低く息を漏らした。
「……くくっ。言うようになったじゃねえか……いいだろう、乗ってやるよ」
翌日から、表向きは何の変化もない日々が続いた。
アルスは相変わらず虐げられ、無言で苦痛に耐え続ける無力な人質を演じ続けた。しかし、その従順な仮面の下で、ガルカンを介した網の目が静かに、確実に広がっていく。
数日後の深夜。馬小屋の暗がりに集まったのは、ガルカンを含めてわずか三人。
巨躯の男――バルドが吐き捨てた。
「……敵国の王太子と組んで裏切るか。正気じゃねぇな」
「お前たちが日々貪っているのは、ただ死を先延ばしにするための残飯だ。この城にひざまずいている限り、奪われたものは永久に返りはしない」
バルドの荒い息遣いだけが響いていた。
アレンが懐から小さな瓶を取り出す。
「……北西の兵糧庫だ。あそこには乾燥した藁と古薪が山積みになっている。この油で一気に火を回す」
「西の旧水門の裏手だ」
バルドが短く息を吐いた。
「崩れかけた格子がある。見張りは二人だ……俺が片付ける」
「――失敗すれば、即座に全員が酷刑だ」
アルスの淡々とした宣告に、誰一人として背を向ける者はいなかった。
「……元より捨てた命だ。お前に預けてやるよ、若いの」
ガルカンは、静かにランタンの火を消した。
♢
決行は、月明かりのない新月の夜だった。
アルスは馬小屋の藁の上で静かに立ち上がった。全身の傷が疼くが、その感覚すらも研ぎ澄まされた神経の糧となる。
「……始まったぞ、若いの」
ガルカンが影の中から忍び寄り、囁いた。
次の瞬間、夜の静寂を切り裂いて、城の北西から、怒号と警鐘が響き渡った。
「火事だ! 兵糧庫が燃えているぞ!」
「水を持ってこい! 敵襲か!? 誰かが火をつけやがった!」
夜空を真っ赤に染め上げる大炎。甲冑を鳴らして右往左往する兵士たちの足音が、城内に広がっていく。
「行くぞ」
アルスは馬小屋を後にした。




