↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/36

02.白い巨獣

 重い木箱を抱えたアルスの背を、兵士の革靴が容赦なく蹴り飛ばした。


 石畳に膝を打ちつけ、使い古した木箱から乾いた干し草がこぼれ落ちる。


「仕事をさっさと済ませろ、このグズが!」


 あざ笑う兵士の視線の先――そこは、普段は立ち入りが許されない、特別な厩舎へ続く分厚い扉があった。


 扉の奥の回廊からは、他の馬房とは明らかに異なる殺気だった獣の気配と、熟成された甘く濃厚な青草の匂いが漂ってくる。


 暴れて人を殺しかねない危険な巨獣の世話を、兵士たちは「死んでも構わない人質」であるアルスに押し付けたのだ。


 アルスは無言のまま立ち上がり、散らばった干し草を拾い集めると、扉を抜け回廊の奥へと足を踏み入れた。


「おい、近づくな! 噛み殺されるぞ!」

「気の触れた化け物め……! 獣人どもが崇める神獣だかなんだか知らんが、手綱すら付けさせやがらん!」


 罵声と怒号が交錯する馬房の奥――そこに、その巨獣はいた。


 姿を見せた瞬間、アルスは息を呑んだ。


 軍馬を見慣れたアルスの目から見ても、その馬格はあまりに異様だった。


 純白の毛並みは汚れ一つなく、並みの軍馬を圧倒する筋骨隆々の巨躯がそびえていた。重甲冑の騎士ごと踏み潰しかねない、異様なほど太い蹄が固い地面を捉えている。


 だが、真に異彩を放っていたのはその巨躯ではない。

その瞳は、暴れ狂う獣特有の血走った眼光ではなかった。白馬のその眼差しは、驚くほど静寂に満ちている。


 瞳に宿っていたのは、人間を値踏みするかのような、静かで底知れない知性だった。


「この化け物め……!」


 業を煮やした兵士が、革鞭を激しく振り下ろした。肉を割く乾いた衝撃音が回廊に響き渡る。


 美しい白毛に一筋の血線が走った瞬間、巨躯が凄まじい勢いとしなりで跳ね上がり、前足の蹄が鉄格子を粉砕せんばかりに叩きつけられた。


「ひっ……! 殺されるぞ!」

兵士たちが我先にと後ずさる。


 逃げ惑う者たちの喧噪のなか、アルスだけが動かず、その場に立ちつくしていた。


――その時だった。


 暴れていた白馬の動きが、ぴたりと止まる。


 荒い鼻息を吐きながら、巨獣は首を巡らせて回廊の隅に立つアルスを見下ろした。


 差し込む光を背にして立つアルスを、影の中に佇む巨獣の目がまっすぐにとらえていた。


 獣は小さく嘶き、アルスも動かない。息を殺した沈黙の中、二者の視線だけが静かに交差していた。


「――おい、何をしてる! さっさと離れろ!」


 正気に戻った兵士がアルスの肩を乱暴に掴み、馬房から力任せに引き離す。


 アルスは抗うことなく、無言でその場を去った。


 その夜。馬小屋の藁の上。全身を苛む痛みと、隙間風の冷たさが肌を刺す。


 足音もなく近づく気配があった。忍び込んできたのは、ガルカンだった。


 ランタンの微かな明かりの下、ガルカンは藁に横たわるアルスを見下ろし、小さく咳払いをすると声を潜めた。


「……若いの。昼間、あの白馬を見ていたな。何を考えておる」


「あの馬を、奪う」


 アルスの迷いのない言葉に、ガルカンは息を詰まらせ、身を震わせた。


「……正気か。俺たちの明日なんざぁ、奴らの胸三寸でどこかの穴に放り出されて終わりだ。だが、あの白馬を奪うとなれば話は別だぞ。失敗すれば首を晒されるだけでは済まん」


「警備をかいくぐるつもりはない。力任せに突破も論外だ」


アルスはゆっくりと体を起こし、薄明りの中でガルカンを直視した。


「巨大な『混乱』の前には、どんな堅固なものにも必ず等しく綻びが生じる」


「混乱だと……?」


「月のない夜を選び、この城の兵糧庫に火を放つ。兵たちが消火に追われ、あの馬を逃がそうと馬房を開けた瞬間を狙う」


「放火だと……!?」


ガルカンは思わず息を呑み、周囲を警戒するように声を潜めた。


「狂ったか! 失敗すればお前一人にとどまらず、俺たちのような使い捨ての人間までその罪を問われ、根絶やしにされるぞ!」


「ガルカン。惨めに泥水をすすって死ぬか、死地を潜り抜けて奴らの頭を踏みつけるか――選べ」


 ガルカンは絶句した‥‥‥。


 やがて、深く刻まれた顔のシワをさらに深め、鼻から低く息を漏らした。


「……くくっ。言うようになったじゃねえか……いいだろう、乗ってやるよ」


 翌日から、表向きは何の変化もない日々が続いた。


 アルスは相変わらず虐げられ、無言で苦痛に耐え続ける無力な人質を演じ続けた。しかし、その従順な仮面の下で、ガルカンを介した網の目が静かに、確実に広がっていく。


 数日後の深夜。馬小屋の暗がりに集まったのは、ガルカンを含めてわずか三人。


 巨躯の男――バルドが吐き捨てた。


「……敵国の王太子と組んで裏切るか。正気じゃねぇな」


「お前たちが日々貪っているのは、ただ死を先延ばしにするための残飯だ。この城にひざまずいている限り、奪われたものは永久に返りはしない」


 バルドの荒い息遣いだけが響いていた。


 アレンが懐から小さな瓶を取り出す。

「……北西の兵糧庫だ。あそこには乾燥した藁と古薪が山積みになっている。この油で一気に火を回す」


「西の旧水門の裏手だ」

 バルドが短く息を吐いた。


「崩れかけた格子がある。見張りは二人だ……俺が片付ける」



「――失敗すれば、即座に全員が酷刑だ」

 アルスの淡々とした宣告に、誰一人として背を向ける者はいなかった。


「……元より捨てた命だ。お前に預けてやるよ、若いの」

 ガルカンは、静かにランタンの火を消した。



♢



 決行は、月明かりのない新月の夜だった。


 アルスは馬小屋の藁の上で静かに立ち上がった。全身の傷が疼くが、その感覚すらも研ぎ澄まされた神経の糧となる。


「……始まったぞ、若いの」

 ガルカンが影の中から忍び寄り、囁いた。


 次の瞬間、夜の静寂を切り裂いて、城の北西から、怒号と警鐘が響き渡った。


「火事だ! 兵糧庫が燃えているぞ!」


「水を持ってこい! 敵襲か!? 誰かが火をつけやがった!」


 夜空を真っ赤に染め上げる大炎。甲冑を鳴らして右往左往する兵士たちの足音が、城内に広がっていく。


「行くぞ」


アルスは馬小屋を後にした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。