01.捨てられた鷹
遮るもののない平原を吹き抜ける風は、刃のように鋭く肌を切り裂き、凍てついた雪を巻き上げては遠く空へと舞い上がっていた。
また、吐き出した呼気は瞬時に白い煙となって散る。その雪原を、数頭の馬が疾走していく。馬背に縛り付けられているのは、一人の青年だった。
国境付近に差しかかったところで、馬の足音が止まる。荒々しく地面に引きずり下ろされ、引き立てられるようにして歩かされた――。
肌を刺すような冷気が断たれたのは、ひときわ大きな天幕の中へ放り込まれた時だった。
充満するのは、白い灰の底からじわじわと熱を放つ木炭の匂いと、――そして、肌を刺すような露骨な敵意。
「――ほう。ガルドの奴は、我が国に王太子を差し出したか」
分厚い毛皮の敷物にどっかりと腰を据えた男――西方サナリア王国の国王ドルガーは、面倒くさそうに吐き捨てた。
その足元には、両手両足を太い縄で縛られた青年が、無造作に転がされている。
乱暴な扱いを受け乱れた髪、そして泥に頬を汚したその姿。そこには、かつての王太子としての気高さの片鱗も見られない。
周囲を取り囲む騎士たちは、汚物を見るような侮蔑の視線を隠そうともしなかった。
ドルガーが重々しい足取りで立ち上がり、歩み寄る。その腰から抜かれた長剣が、光を反射して鈍く光った。
「お前の父は、我が国の国境を何度も荒らしておきながら、いまさら何のつもりだ? それとも、お前という生贄を差し出して、我が怒りをなだめるつもりか?」
天幕のあちこちから、下品な嘲笑と「首をはねろ」という怒号が沸き起こった。
だが、地面に投げ出された青年――アルスは、眉ひとつ動かさなかった。顔をゆっくりと上げ、ドルガーを見据える。
「……好きにするがいい」
天幕の喧騒をかき消すように、静かに、しかし鮮明に響いた。
「だが――私を殺した瞬間、『ガルダニアの王太子が惨殺された』という大義名分を得たガルドがどう動くか。……お前たちが、一番よく知っているはずだ」
天幕の中は異様な静寂へと引きずり込まれた。
ドルガーの剣が、アルスの喉元で止まる。沈黙の中、ドルガーの喉が小さく鳴った。やがて、その口元に獰猛な笑みが浮かび上がる。
「……いい度胸だ。殺すのは、いつでもできる」
剣を鞘へと収める金属音が響く。ドルガーの瞳の奥には、死地に踏み込んだ者を踏みにじる愉悦の色がはっきりと滲んでいた。
「このガルダニアの王太子にふさわしい、寝床を用意してやれ」
♢
サナリア城の片隅にある薄汚れた馬小屋。それが、アルスに与えられた寝床だった。
ガルダニアの王太子からの転落は、サナリアの兵士や民衆にとって絶好の憂さ晴らしとなった。
「おい! 腹が減ったなら、この靴を舐めて綺麗にしてみせろ!」
面白半分に集まった兵士たちが、アルスの頭から泥水を浴びせかける。苛烈な足蹴りが腹部を襲い、固い靴底が何度も背中を踏みつける。
屈辱に顔を歪め、命乞いをする姿を誰もが期待していた。だが、アルスは血の混ざった唾を吐き出し、無言のまま真っ直ぐに兵士たちの顔を見据え続けた。
「……なんだその目は! 気に入らねぇ!」
兵士の一人が顔を真っ赤にして叫ぶ。
「そのふてぶてしい目を引っこ抜いてやろうか、クソ野郎が!」
怒号とともに、容赦のない暴虐が降り注いだ。
頭部を蹴られ、地面へと幾度も叩きつけられる。視界の端が赤く染まり、骨のきしむ嫌な音が体内に響いた。それでもアルスは声を漏らさない。
血に染まった唇を固く結び、意識が途切れそうになるその瞬間まで、敵の顔を脳裏に刻み付けるように見据え続けた。
「くそっ、気味の悪い奴だ!」
吐き捨てられた言葉とともに最後の一蹴りが叩き込まれ、やがて兵士たちは去っていった。
血と泥にまみれたまま、アルスはその場に取り残された。
♢
底冷えする夜。馬小屋の湿った藁の上で、アルスは全身を苛む痛みに身を震わせていた。
しかし、アルスの脳裏を占めていたのは、あの日、王宮で投げかけられた父の一言に他ならない。
『お前を、サナリアへ人質として出す』
あれはすべてが破滅へと向かった始まりだった。
諸部族を力で統合し、覇を唱えた偉大な父ガルド。その輝かしい栄光の陰で、貢物として差し出された女が、甘ったるい香水を纏って王の傍らにいた。
やがてその女が第二王子を産み落とした時、正室の血を引くアルスの立ち位置は、明確な「邪魔者」へと成り下がった。
後宮の奥深く。母と子は豪華な衣を纏いながらも、いつ殺されるか分からない見えない檻の中で息を潜めていた。
『アルス、お前は決して誰の甘い言葉も信じてはならないわ』
幼い頃、母が自分の手を握りしめて囁いた言葉。
その母も、春の祝いの宴の最中に激しい痙攣を起こし、床に崩れ落ちた。泣き叫ぶ自分をよそに、王宮医が下した診断は『持病の悪化による急死』という無機質な一言だった。
直前まで健やかだった母の死は、後宮を牛耳る愛妾の謀略によって闇へと葬り去られた。権力の前では、どれほど明白な毒殺であっても、ただの病死として処理される。それだけの話だった。
母の死後、周囲の人間は潮が引くように去っていった。最初から、味方など一人もいなかった。
そして、サナリアへ連行される日。父王ガルドは息子の顔すら見ようとせず、冷ややかな一言だけを残した。
『生きて戻ることがあるなら、貴様の望みの一つも聞いてやろう』
――端から、切り捨てられていたのだ。
サナリアで殺されれば侵攻の大義名分となり、殺されなくとも惨めな野良犬としての生。どちらに転んでも父にとっては不都合のない駒。
「……ふっ」
薄汚れた藁の上、アルスは目を見開き、暗い天井を睨みつけていた。
――死ぬものか。父上、あなたが私を葬るために選んだこの地で、私は必ず生き残ってみせる。
不意に、馬小屋の重い木戸が軋んだ音を立てて開いた。冷たい夜気とともに、足を引きずる歪な足音が近づいてくる。
現れたのは、手にランタンを持った年老いた厩舎番――ガルカンだった。年老いて戦えなくなり、底辺の奴隷同然として虐げられている男だ。
この城には彼のように、王国から惨めに取り残され、使い捨ての道具として扱われている小部族の生き残りや負傷兵たちが数多く這いずり回っていた。
「……ふん。憎たらしい面構えをしてやがるな。そんな目で睨みつけていたら、明日の朝には首と胴体が離れるぞ、若いの」
ガルカンは、カビの生えた乾燥パンを無造作に投げて寄こした。
パンが藁の上に転がる。アルスは視線だけを動かした。
「……お前も、私の惨めな様を笑いに来たのか」
「ばかを言え。傷だらけの若造を笑って腹が膨れるかよ」
ガルカンは膝を折り、ランタンのぼんやりとした光の中で、ギラリと光る鋭い眼光をアルスに向けた。
「俺はな、あいつらに頭を垂れたまま死んでいくのは御免だ。……お前のその目は死んじゃいねぇ。まだ、何かをやろうって目だ」
「……ならば、お前は何を望む」
「俺か? ……さあな。だが、このまま終わる気はねぇよ」
ガルカンはそれ以上何も言わず、暗闇の中へ消えていった。
アルスは藁の上に転がる固いパンを拾い上げ、一人、黙々と噛み締めた。
初めて小説家になろうに投稿します。
同じタイトル、作者名でカクヨムにも投稿してます。
これは、【『ガルダニア戦記』改稿版】になります。
よろしくお願いします。




