34.捨てられた鷹の凱旋
王都の大手門が開かれ、重々しい鉄の軋みが昼前の空に響き渡った。
ルブル川での死闘を制し、サナリア軍を追い払ったアルス達の軍勢が、ゆっくりと王都へと足を踏み入れる。
城門をくぐった瞬間、視界を埋め尽くした石畳の路地が、一斉に色を取り戻したかのような熱狂が爆発した。
「アルス様万歳ッ!」
「ガルダニアを守ってくれた英雄だッ!」
大通りを隙間なく埋め尽くした民衆から、天地を揺るがすほどの歓声と、安堵に満ちた歓喜の叫びが沸き起こる。
開け放たれた窓からも人々が身を乗り出し、色とりどりの花びらが紙吹雪のように頭上から降り注いだ。
幼子を抱いた母親は感極まって涙を流し、老いた男たちは泥にまみれた兵士たちの姿に向かって力強く両手を突き上げている。
国を救った青年の帰還に、誰もが酔いしれるようにその名を叫び続けていた。
先頭を行くのは、ヴェルトに跨がるアルスである。
その姿は血と泥に汚れ、鎧には幾つもの生々しい傷が刻まれていたが、その佇まいには、すべてを背負う者特有の揺るぎない決意が纏われていた。
「見ろよアルス。さっきまで怯えて隠れていた連中が、よくもまぁ手のひらを返したように大歓声だぜ」
並走するオルグが鉄棍を肩に担ぎ、豪快に笑った。
「民が求めているのは正義ではない。今日を生き延びられるという安心だ」
アルスは静かに応え、湧き上がる歓声の中に視線を向けた。
東方騎士団の先頭を行くブラントン侯爵は、誇り高く掲げられたガルダニアの旗を見据え、複雑な思いをにじませていた。
(古臭い忠義にしがみついていた我が身が、まさかあの若者に未来を託すことになろうとはな……。だが、腐りきった王都の威光よりも、彼の瞳の奥には本物の光があった。……新しい時代が、本当に来るのかもしれん……)
その隣で、カランドゥーラが腕を組み、鋭い眼光のまま周囲の気配を警戒しつつも、どこか満足げな息を吐き出す。
「ふん、命拾いした連どもの歓声にしてはやけに威勢がいい。だが、この熱狂を味方につけた今のアルス殿なら、この国を本当に立て直せるかもしれん……」
さらに、かつて王都の重圧に押し潰されそうになりながらも、最前線でブラントン侯爵を支え前線を守り抜いたバルトロが、深い感慨を込めて兜を脱ぎ、汗に濡れた額を拭った。
「……生き残ったな、本当に。あの地獄の釜の底から、俺たちは這い上がってきたんだ……」
隊列の中ほど、リムは馬の歩みを緩めながら先頭を行くアルスの背中を見つめていた。
その栗色の髪は風に揺れ、瞳には涙ではなく、眩い光のような誇らしさが満ちている。
(アルス様……あなたは、本当にお一人でここまで……いいえ、私たちはこれからも、ずっとあなたの背中を支え続けます)
幾多の血と泥を越え、かつて争い、憎しみ合っていた幾多の陣営が、いまや固い結束のもと、堂々たる大群となって王都の大通りを進んでいく。
かつて王都を追われた青年が、今や真の「王」として帰還を果たした瞬間だった。
街中が光と歓喜の熱狂に包み込まれる中、一行は静かに、しかし確かな足取りで王宮へと向かって進んでいった。
◇
激しい死闘が繰り広げられる戦場から遠く離れた、王宮の最深部。
太陽の光も届かぬ冷たく湿った地下牢には、立ち込める血の匂いと腐臭だけが満ちていた。
「ガッ……、あ……っ……!」
暗がりの中、喉を掻きむしりながら泡を吹いて身悶えしていた少年――第二王子ヴィルが、小さく痙攣した後に動きを止めた。
「……フッ、実に呆気ない最期だな。ガルド殿が『好きに処分しろ』と残していったが、面倒ごとを押し付けおって」
松明の残り火に照らされた闇の中から、バロールがゆっくりと姿を現した。
その口元には、いつもの冷酷な笑みが浮かんでいる。手元の杯を床へ捨てると、毒液の残る杯の金属音が響いた。
「……ヴィル……! ああ……ヴィル……ッ!」
牢の奥で鎖に繋がれた王妃ルクレツィアが、髪を振り乱し、血の滲む爪で石床を掻きながら惨めな声を上げた。
かつて王宮の頂点に君臨し、他者を虫ケラのように見下していた高貴な面影は、どこにもない。
「そんな……そんな……!私のヴィルが……ヴィルが……ッ!」
絶望に打ちひしがれ、涙と鼻水で顔を汚すルクレツィアへ、バロールは冷ややかな視線を投げかけた。
「さて、ワシはサナリアへ発つ。ドルガー国王とは、すでに話がついておるでな。……お前はどうする?ここに残ってアルスの慈悲でも乞うか? 確実に打首だろうがね」
「ひっ……! い、嫌……! 死にたくない……! 死にたくないわバロール……ッ!」
ルクレツィアは狂ったように頭を振り、鎖をジャラジャラと鳴らしてバロールの足元へ這い寄った。
身にまとっていたドレスは破れ、泥と埃に塗れている。
彼女はバロールの足元に額を擦り付け、必死にしがみついた。
「お願い……私を連れて行って!何でもするわ! あなたの奴隷でも、足蹴にする犬でもいい……! あなたの物として生かして……! お願いだから、私を置いていかないで……ッ!」
かつての王妃が、尊厳の全てを投げ出し、命乞いをして足元で蠢いている。
バロールは心底愉しそうに目を細めると、ルクレツィアの顎を靴の先で乱暴にすくい上げた。
「……くくく、素晴らしい。かつての高貴な王妃様が、生き残るためにワシの牝犬になると宣うか。……良いだろう。サナリアでの退屈しのぎの玩具くらいにはなりそうだ」
バロールは彼女の髪を無造作に掴み上げ、強引に立ち上がらせた。
ルクレツィアは痛みに耐えながらも、見捨てられなかった安堵から涙を流し、縋りつくようにその手に顔を寄せた。
「さあ、参りましょうか。足手まといにならぬよう、しっかりついておいでなさい」
バロールは、地下牢の奥に隠された秘密の通路へと足を踏み入れた。
王都が光に包まれる裏側で、暗躍の老狐は次の火種を抱えたまま、静かに落ち伸びていった。




