31.退路なき盤面
「突っ込め! 敵の先陣を食い破れぇッ!」
オルグの野太い声が、ルブル川西岸の戦場を震わせた。
すさまじい激突とともに衝撃が走り、最前線の兵士たちが宙を舞い、血飛沫が朝霧を赤く染め上げた。
「押し通る! このままガルドの本陣まで道をこじ開けるぞ!」
ブラントン侯爵が血煙の中で剣を振るい、立ちはだかる敵兵の喉笛を断った。
「アルス様! 道が開きました!」
バルトロが開いた隙間を目指し、アルスはヴェルトの手綱を引き絞る。敵の包囲網は内側から確実に破られつつあった。
ガルドの首筋まで、あとわずか。自らを囮としたルスの強襲は、勝利への道をこじ開けかけていた。
だが――。
「……ハッ、底が見えたな、アルスよ」
重厚な甲冑が擦れ合う音が響くと同時に、王都軍の前線に異様な緊張が走った。
動揺し、崩れかけていた敵兵たちが、息を吹き返したように押し寄せてくる。
人の群を割って、馬に跨がり踊り出たのは――ガルドだった。
「な……ッ!?」
リムの顔から血の気が引く。
ガルドは、兜の隙間から覗く黒い瞳で、突き進んでくるアルスを一瞥した。その手には、大剣が重々しく握られている。
「よくぞここまで届いた。……だが、遊びは終わりだ」
その瞬間――。
「死ねぇぇぇッ!」
先頭を走っていたファウナスの戦士数名が、手柄を立てんとガルドへ躍りかかった。鋭い斧と剣が、容赦なくガルドの頭部と胴体を狙って繰り出される。
「退け。邪魔だ」
ガルドは剣を、ただ一振り、横一文字に薙ぎ払う。
凄まじい風圧とともに閃いた刃が、躍りかかった戦士たちの身体を鎧ごと、肉ごと両断した。一瞬の遅れののち、鮮血の雨が豪快に降り注ぎ、肉片が地面に散らばる。
「ひっ……!?」
東方騎士団の練達の騎士たちすら、その人知を超えた一撃に息を呑み、足が竦んだ。
「ガルド……ッ!」
アルスはヴェルトを制し、剣を構え直す。
ガルドは鼻で笑い、馬の腹を蹴って一歩前へ踏み出した。再び振るわれた大剣が周囲の空気を爆裂させ、最前線の兵たちがまとめて吹き飛ばされる。
形成されたばかりの陣形が、たった一人によって大きく歪められていく。
「させるかよぉぉぉッ!」
暴虐の嵐を打ち破るように、オルグが跳躍した。両手に握り締めた鉄棍を全身の腕力で叩きつけ、ガルドの頭部を砕かんと肉薄する。
「死ねぇ、ガルドッ!」
激しい金属音が、戦場の空気を引き裂いた。
だが、ファウナス随一の腕力を誇るオルグの全身全霊の一撃を、ガルドは事もなげに大剣の刀身で受け止めた。
「……なっ!?」
オルグの目が驚愕で見開かれる。
「力任せの野獣が。……失せろ」
「がはっ……!?」
ガルドが大剣を無造作に切り返すと、オルグの胸板に凄まじい衝撃が叩き込まれた。鈍い音が響き、オルグの巨体が地面の上を幾度も転がっていく。
「オルグ!」
カランドゥーラが、倒れたオルグへ駆け寄る。
「く……そっ……! なんだあの化け物は……! 腕が、痺れて動かねぇ……!」
胸を強く打たれたオルグは血を吐き、荒い息を吐きながら歯噛みした。
頼みのオルグですらあっけなく吹き飛ばされ、ガルドが馬を進めて大剣を構え直すやいなや、先頭の戦士たちが一瞬で血煙へと変えられた。
その人知を超えた暴虐を目の当たりにし、血飛沫を浴びた後方の兵たちは顔から血の気を引き、生きた心地もなく固まりついた。
「全軍、押し潰せ! 一兵たりとも生かしてルブル川を渡らせるな!」
ガルドの咆哮が戦場を揺らすと、動揺していた王都軍の兵たちが一斉に足を踏み鳴らした。
「押し返せ! 踏み止まれッ!」
ブラントン侯爵が血を吐くような叫びで剣を振るい、バルトロが迫る槍の穂先を必死に叩き落とす。
だが、正面からはガルドが圧力をかけ、左右からは無数の兵が襲いかかってくる。殺到する足音と甲冑の擦れ合う音が、アルスの軍の退路を削り取っていった。
「くっ……包囲網が締まる! 押されているぞ!」
「抑えろ! 踏み止まれ!」
ブラントン侯爵やバルトロの必死の叱咤も、一度潰された勢いを完全に取り戻すには至らない。
正面にはガルドという巨大な壁が立ち塞がり、左右からは圧倒的な物量の王都軍が重圧をかけてくる。
アルスの軍の勢いは完全に殺された。
アルスは、目の前に立ち塞がるガルドを鋭く睨みつけた。
「どうした、アルス! 貴様の策とやらは、この程度か!」
ガルドが大剣を担ぎ上げ、馬の歩を進めてくる。
「貴様がどれほど知恵を絞ろうと、目の前の圧倒的な力の前には無力だ。ここで死ね!」
ガルドの言葉に応じるように、王都軍の兵たちが槍の穂先を密に並べ、徐々に距離を詰めてくる。
もはや、打つ手はないかに思えた。
――その時だった。
戦場の北側、王都軍の左翼のさらに外縁から、地響きのような重苦しい振動が鳴り響き始めた。
大地を踏み抜くような、不規則で荒々しい振動。
それは統率された騎馬隊の蹄音でもなければ、歩兵の整然とした足音でもない。もっと野蛮で、飢えた獣の群れがもたらす地鳴りだった。
「……なに?」
ガルドが僅かに眉をひそめ、北側の左翼へ視線を向けた。
次の瞬間、戦場の一切を支配していた喧騒を切り裂くような、耳を衝く咆哮が轟いた。
「「「ウオオオオオオオオオオオオッ!!!」」」
「な、何事だ!?」
「敵襲!? しかし、北側には誰もいないはずでは――」
王都軍の左翼陣形を守っていた将校たちが狼狽し、北側を凝視する。
そこに姿を現したのは――異形の軍勢だった。
革の甲冑を身に纏い、歪な斧や太刀を掲げた一万数千の戦士たち。彼らは陣形など一無視し、まるで血に飢えた野獣の群れのように雪崩れ込んできた。
長髪を風になびかせ、その先頭に立つのは――蒼嶺の王イェルナだった。
「ハハハハハッ! 蹂躙しろ! 王都の奴らに我らの力を見せてやれ!」
イェルナが掲げた曲刀を鋭く振り下ろす。
「奪え! 殺せ! 奴らの肉と血を我が山の糧とせよ! 喰い散らかせぇッ!」
「「「ウハハハハハハッ!!」」」
イェルナの命を受け、およそ一万数千の異形の戦士たちが、王都軍の左翼へなだれ込んでいった。
「ひっ、防御陣形をとれ! 兵を北へ向けろ!」
王都軍の将校が叫ぶが、すでに遅すぎた。凄まじい激突とともに、前線が砕け散る。
イェルナ軍の突撃は、戦術や陣形といった概念を容赦なく踏み潰す暴威そのものだった。
獣人たちは整然と並ぶ王都軍の盾の隙間に強引に体を割り込ませ、武具を奪い、兵の首を跳ね、狂ったように肉を切り刻んでいく。
「な、なんだこいつらは!? こちらの陣形を無視して突っ込んでくるぞ!?」
「狂ってる! 命を惜しまないのか!?」
王都軍の左翼は、包囲網を完成させようと前方のアルスたちに集中していた。その無防備な脇腹へ、最も凶暴な野性の集団が突き刺さったのだ。
イェルナの曲刀が舞うたび、王都軍の兵士の首が宙を舞う。
「ぬるい! ぬるいぞ! 王都の兵よ! 山の猛獣の方が、よほど骨があるわ!」
イェルナ軍の乱入により、王都軍の左翼は一瞬にして混乱に陥った。
横腹を食い荒らされた陣形は一気に崩れ始め、味方同士が逃げ惑って押し合い、自滅していく。
「ああっ……! イェルナ殿が!」
リムが驚愕の声を上げた。
「アルス様! あれを……!」
バルトロが声を弾ませる。
アルスの軍を四方から押し潰そうとしていた王都軍の巨大な包囲網。その一角が、イェルナの想定外の乱入によって、外側から崩壊し始めていたのだ。
「……やっと来たか。……本当に、勝手な連中だ」
アルスは荒い息を整えながら、冷や汗の滲む額を拭う。
王都軍の左翼が蹂躙され、混乱は本陣近くにまで波及していく。
「退くな! 落ち着いて北の敵を迎え撃て!」
「ダメです! 将校が切り伏せられ、指示が通りません!」
「悲鳴を上げるな! 押せ、押し返せ!」
王都軍の悲鳴と怒号が交錯する。
イェルナ軍の猛威は止まらない。
敵の槍を素手で掴んで引きずり倒し、殺した敵の武器を奪って次の敵を穿つ。
その凄惨な蹂躙劇は、王都軍全体に恐怖を感染させていった。
「敵の包囲が崩れていくぞ!」
カランドゥーラが歓喜の声を上げる。
倒れていたオルグも、カランドゥーラに肩を貸されながら立ち上がり、獰猛な笑みを浮かべた。
「ケッ……いいところ、もっていきやがって! おいアルス、今なら行けるぞ!」
東方騎士団の兵たちも士気を取り戻し、一斉に叫び声を上げた。
「全軍、この混乱に乗じろ! 押し返せぇッ!」
王都軍の強大な物量が崩壊しかけ、アルスの軍の絶望的な状況が一変した――かに見えた。
だが――。
アルスは軍の士気が最高潮に達する中、ふと視線を西方――王都のさらに向こうへと向けた。
なぜか、胸騒ぎが消えない。優勢に転じたはずなのに、背筋を流れる冷たい汗が止まらない。
「アルス様……?」
リムがアルスの異変に気づき、不安そうに顔を覗き込む。
アルスは唇を噛み締め、深く息を吐き捨てた。
(……なにか……来る……)
叫喚と悲鳴が渦巻く狂乱の盤面で、さらなる暗雲が静かに垂れ込めようとしていた。




