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29.退路なき咆哮

 ルブル川の西岸。


 アルス軍の背後に広がるのは、幅広く深い緑に濁ったルブル川の水面である。


 敵の猛威に押し込まれれば、そのまま深淵へと呑み込まれ、二度と戻ることはできない。


 だが、逃げ場を自ら潰すことで全軍の退路を断ち、迷いやためらいを捨てて一丸となって立ち向かう――それ以外に、大きな戦力差を誇る王都の軍勢を呑み込む術はなかった。


 視界の先、王都の城壁の前から、地を抉るような無数の足音と重苦しい地響きが伝わってくる。


 平地を塗りつぶすように揺らめく、おびただしい数のガルダニアの国旗。


 自ら大剣を手に陣頭へと立ったガルド率いる王都の全軍が、すでに展開を完了させていた。


 その前線から放たれるのは、単なる大軍の圧迫感だけではない。


 頂点に君臨するガルドという男が放つ、すべてを力で踏みにじってきた絶望的な殺意と威圧感だった。


 遠く離れたこの地にまで届くその重圧に、前線の空気が異様なまでに張り詰めていく。


 陣地の右翼を固めるのは、ブラントン侯爵が率いる東方騎士団だった。


 かつては王都の威光を背負い、東方の聖エトリア王国と真正面から戦ってきた彼らにとっても、背後に川を控え、自ら退路を絶って王都の全軍を迎撃するなど、正気の沙汰とは思えない布陣だった。


「……おい、嘘だろ……あんな数の軍勢を、俺たちが本当に止められるのか……?」


 若い騎士が剣の柄を握りしめたその手は激しく震え、柄の冷たさがやけに生々しく伝わってくる。


「静かにしろ!」


 すぐ隣で古参の騎士が険しい表情で目を剥き、怒声を飛ばした。彼の額からも汗が滝のように流れ落ちている。


「今さらどこへ逃げるというのだ! 王都に戻れば、我らは一族そろって逆賊の汚名を着せられ、処刑台行きだ。……ここで引けば、それこそ終わりなんだよ!」


 頭では分かっていても、胃のあたりが締め付けられるような胸の苦しさが、騎士たちの体を内側から蝕んでいく。


 王都の強大な軍勢、そして何よりガルドという怪物の存在を知っているからこそ、その姿が目の前に迫るにつれて、己の精神をすり潰していくのだ。


 そのただ中で、ブラントン侯爵は馬の首を叩き、震える息を整えながら、自らの騎士団を見据えて、剣の柄にかけた手に渾身の力を込めた。


「臆するな! 我らが背負うのは、あの腐りきった王都の威光ではない!ここで生き残るために己で選んだ、誇りと意地だ! 退けば一族すべてが逆賊の汚名に沈むが、この地獄を耐え抜けば、必ずや新しい道が拓ける!剣を引くな、恐怖に呑まれるな!命の限り、目の前の敵を斬り伏せろ!」


 侯爵の絞り出すような、しかし気魄をはらんだ一喝が、東方騎士団の空気を強引に引き締めた。


 恐怖が消えたわけではない。だが、その恐怖を押し隠すための意地が、騎士たちの背筋を再びまっすぐに立たせた。


◇


 一方、陣地の左翼――野性的な気配が色濃く漂う一角では、まったく異なる狂熱と焦燥が入り混じった空気が渦巻いていた。


「ククク……おい、見てみろあの数をよ! 余裕かましてやがる! いい気なもんだな!」


 巨体を誇るファウナスの族長オルグが、分厚い両手で鉄棍を地面に突き立て、荒い息を吐きながら笑い声を上げた。


「族長! さすがにあの数はやばくねぇか……!? 退路もねぇし、挟み撃ちにされたらおしまいだぞ!」


 周囲のファウナスの兵士たちが、武器を持つ手をわずかに震わせながら声を荒らげる。


 普段は荒々しく気炎を上げる彼らとて、兵数の暴力と、王都軍の先頭から漂う異様な気配を前に、野生の本能が激しい警鐘を鳴らしていた。


 オルグはそんな仲間たちの動揺を一瞥すると、一層激しく怒鳴り散らした。


「ビビってんじゃねぇぞ、この腑抜けどもが! 大軍、最高じゃねぇか!逃げ道がない? 余計なことを考えるな! 目の前に現れた敵の頭蓋を片っ端から叩き割れ!生き残りたければ、殺って! 殺って! 殺りまくれ!」


 オルグの野蛮で、だが力強さに満ちた怒声が、ファウナスたちの胸に眠る闘争本能を無理やり叩き起こした。


 彼らは獣のような唸り声を上げ、それぞれの武器を大地に叩きつけて恐怖を殺戮の本能と変えていく。


◇


 極限の緊張状態の中、二つの異なる種族が気炎を上げたその瞬間――。


 アルスは迷うことなくヴェルトに跨がり最前列へと進み出ると、川を背にした陣地の前に立った。


 背後から吹きつけるルブル川の冷たく湿った風が、彼とヴェルトのたてがみを激しく煽る。


 アルスが片手を高く掲げた。


 たったそれだけの動作で、それまで渦巻いていた喧騒が一瞬で消え去り、静寂だけがその場を包み込む。


 遠く王都軍の陣頭――鎧の上から黒い外套を纏いこちらを見据えるガルドの視線と、アルスの黒い瞳が正面から交錯する。


 アルスは静かに、しかし戦場全体をねじ伏せるような通る声で口を開いた。


「――聞こえるか!」


「お前たちが今、どれほどの恐怖を抱え、どれほどの焦燥に駆られているか、それは俺にも分かっている。背後には冷たい川があり、目の前には王都の全軍がいる。逃げ場などない。ここで足がすくみ、命を惜しんで後ろを向けば、待っているのは死だけだ」


 アルスの言葉に、周囲の兵士たちが固唾を呑んで聞き入る。


「だが、忘れるな。お前たちがここで戦うのは、誰かの駒として使い捨てられるためではない。己の平穏を、己の誇りを、そして今日まで生き延びてきた大切な場所を守り抜くためだ。恐怖を覚えるのは恥ではない。だが、その恐怖に屈して背中を晒すな!」


 アルスは剣をぐっと握り締め、王都に向かって切先を力強く突きつけた。


「退路はない。ならば、目の前の敵をすべて飲み込め! 守るべきものがあるなら、ここでその手で掴み取れ!俺の背中についてこい!勝利をくれてやる!」


 アルスは突き出した剣を、前方の王都軍へ向けて鋭く一閃した。


 その一声が、そしてその一刃が、溜め込まれていたすべてを解放する圧倒的な熱量を生み出す。


 恐怖が、焦燥が、迷いが、ことごとく炎のような熱狂に焼き尽くされる。


 東方騎士団の兵士たちが地を鳴らすような歓声とともに剣を構え直し、ファウナスの戦士たちが大地を揺らすほどの咆哮を上げて武器を打ち鳴らした。


 その熱狂に応じるかのように、あるいはそれを叩き潰さんと、対面する王都軍の陣頭から出撃を告げる太鼓の音が地鳴りのように響き渡る。


「行くぞ――!!」


 突き抜けるアルスの号令とともに、全軍が一斉に大地を蹴り出した。


 双方の巨大な兵の波が、互いの殺気を爆発させながら、目と鼻の先の距離へと一気に縮まっていく。


 鉄と鉄が噛み合う直前、息の詰まるような緊張が弾けた――。

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