28.水は凍てつきて
ルブル川の西岸――。
早朝の冷たい濃霧が、淀んだ空気とともに川面を白く覆い尽くしていた。
まだ朝日に照らされない川沿いの低地は、じっとりと湿った冷気をはらみ、そこに築かれたアルス軍の陣地を、静寂で包み込んでいる。
木々の隙間を縫うように吹き抜ける風が、兵士たちの纏う鉄鎧の表面を冷やし、肌を刺すような緊張感を漂わせいていた。
陣地の片隅では、消えかけた焚火の煙が青白くくすぶっている。
その燻された臭いの中で、東方騎士団の若い兵士が震える手で膝を抱え、乾いた唇を震わせて呟いた。
「おい……本当にやるのかよ。あの王都の軍勢と戦うなんて……。俺たちは数で圧倒的に劣っているはずだ。包囲されたらおしまいだ。勝てるわけが……」
近くに座っていた老練な兵士が、自身の喉元までせり上がってきた恐怖を押し殺すように、苦い笑みをこぼした。
その足元で、東方の騎士と兵士が、同じ毛布を肩にかけ合って冷えた体を寄せ合っている。
口を開かず、ただ瞬きもせずに消えかけた焚火の残り火を見つめている者もいた。
お互いの肩が触れ合うほど密着し、わずかな熱を分け合っている者もいる。
すぐ傍らでは、屈強なファウナスの戦士と東方の騎士が、無言のまま同じ石に腰を下ろしていた。
かつて、いがみ合っていたはずの者同士が、今は言葉もなく砥石を取り出し、淡々と刃を研ぎ続けている。
「どいつもこいつも……怯えてやがるな」
重い足音を立てながら、その一団の脇を通り過ぎてきたのは、ファウナスの族長オルグだった。
愛用の鉄棍を肩に担いだ彼は、こわばった面持ちで身を寄せ合う兵士たちを一瞥すると、ふっと息を吐き、あえて周囲に聞こえるように声を張り上げた。
「お前ら、怖気づいたのか? 王都の連中がどれほど立派な鎧を着込んでいようと、中身はただの柔らかい肉の塊だ。俺の鉄棍で叩き潰せば、お前らと同じように血を流して地面を転がるぜ」
その声に、うつむいていた兵士たちが次々と顔を上げた。
震えていた若い兵士の肩の力が抜け、足元に短く息を吐き出す。
別の男は深く息を吸い込むと、乾いた喉から短く息を吐き出し、握りしめていた拳をそっと緩めた。
張り詰めていた重苦しい空気が、かすかな熱を取り戻していく。
「威勢がいいな、オルグ。だが、相手はただの烏合の衆ではない。あのオルデン自身が先頭に立っておるのだ。一筋縄ではいかんぞ」
陣地の点検を終えたブラントン侯爵が、深い皺の刻まれた顔に険しい表情を張り付かせながら歩み寄ってきた。
その歴戦の老将の瞳には、拭い切れない焦燥の色が滲んでいる。
「だからこそ良いんじゃねぇか」
オルグは豪快に胸を張り、愉快そうに笑い声を上げる。
「雑魚を相手にするより、でかい首を直接もぎ取った方が、男としてやりがいがあるだろ!」
「お前のその豪胆さには救われるな……。だが、こちらは一歩も引けない状況だ。一時の勢いで突っ込んで共倒れにならぬよう、心算はしておけよ」
ブラントンが首を振って苦笑を漏らしたその脇を抜け、オルグは豪快な笑い声を残して去っていく。
老将は険しい表情のまま遠ざかる背中を見送ると、やがて視線を自らの陣営へと戻し、吐き捨てるように小さく息をついた。
◇
その頃、天幕の中では、外の比ではないほど濃密で、息が詰まるような緊迫感が支配していた。
天幕の中央に置かれた机の上には、ルブル川周辺の詳細な地形図が広げられている。
リムは額に滲んだ汗を拭いもせず、最後の物資の割り振りと兵站の確認を進めていた。
その横で、カランドゥーラが腕を組みながら、険しい目を地図の一点に注いでいる。
「山岳部族の連中……。奴らが実際にどう動くかは、蓋を開けてみなければ分からん」
「分かっている」
アルスは背筋を真っ直ぐに伸ばし、机上の地図から視線を上げた。脳裏によぎるのは、山岳地帯でのイェルナの不敵な笑みだ。
――蒼嶺を揺るがす我が一族の牙、今よりお前のために貸してやる。ただし、我らは勝手に参戦する。
アルスは視線を天幕の隙間から覗く、険しい山影へと向け言い放った。
「だからこそ、初手で王都軍の勢いを完璧にへし折る。……相手がどう動こうと、我が軍の目的と取るべき手段は揺るがない」
アルスの揺るぎない声に、カランドゥーラはわずかに息を呑み、そして渋く頷いた。
直後、見張り番の兵士が慌ただしく天幕の布を押し広げ、一通の書簡をリムへと差し出した。
差し出された書簡を受け取ったリムは、瞬時に中身に目を通し、血の気の引いた顔のままアルスの元へと駆け寄る。
「どうした、リム」
アルスは地図からすっと視線を外し、振り返りながら声をかけた。
だが、その青ざめた表情を見た瞬間、アルスはわずかに眉をひそめる。
リムは息を詰まらせるようにして、震える声を絞り出した。
「信じられないことが起きています……! 王都に入った間者からの報告によれば、オルデンが……殺されました。ガルド自らの手によって、一刀のもとに斬り捨てられたとのことです」
その場に控えていた、カランドゥーラとバルトロが同時に目を見開いた。
「なに……!? オルデンが、ガルドの手で殺されただと!?」
バルトロが思わず声を荒らげ、天幕の頑丈な柱に手をついた。
「馬鹿な……! 王都の軍を完全に掌握していた男が、なぜ自らの王の手にかかって死ねばならんのだ!」
カランドゥーラも鋭く眉をひそめ、信じられないといった表情でその場に絶句した。
だが、アルスは動揺の色を一切見せず、ただ静かに天幕の外へと視線を投げた。
「アルス様、驚かれないのですか……?」
リムが信じられないものを見るような、すがるような目でアルスを見上げた。
「驚くほどの、ことではないさ」
アルスは小さく首を振った。
「あの男が、他人の描いた盤面の上でおとなしく踊り続けるはずがない。ガルドにとって、政治も権力も、すべては退屈を紛らわすための、暇つぶしでしかない」
「ですが、アルス殿!」
カランドゥーラが身を乗り出し、切迫した声を張り上げた。
「オルデンという『頭脳』を失えば、軍の混乱を抑えるため、堅牢な城壁の内に籠るはずだ。そうなれば、我々の限られた軍勢では、どれほど時間をかけても王都を攻め落とすことはできんぞ!」
「ああ。だか、その心配はない……ガルドは出てくる」
アルスは腰の鞘から静かに剣を抜き、刃に映る自分の顔をじっと見つめた。
「オルデンなら、我々の自壊を待って籠城を選んだだろう。だが、ガルドは違う。あの男は、理屈や損得で動かない。持てるすべての兵力を率いて、正面から俺を殺しにくる。……奴の目的は最初から最後まで、この俺の首なのだからな」
さらに書簡の後半に目を走らせていたリムが、息を呑み、声を震わせた。
「アルス様の仰る通りです……! ガルド自らの指揮のもとで、王都の東側に全軍が展開を開始したとのことです!」
バルトロが喉の奥で唾を飲み込み、血の気の引いた顔で呟く。
「……ガルドが自ら全軍を率いて、こちらへ向かってくるというのか」
「好都合だ」
アルスは剣を鞘に納めると、迷いのない足取りで天幕の外へと向かった。
「オルデンという『理性』が消え、ただの『狂気』が残った。……なら、話は早い。これより我々は陣地を畳み、ルブル川を背に軍を配置する」
「ルブル川を背に……ですか!?」
リムが息を呑み、一歩前に踏み出した。
「圧倒的な物量の王都軍を相手に、そんなことをすれば――」
「わかっている」
アルスはリムの言葉を遮るように言い放つと、天幕を出て、歩みを進めた。
夜明けの薄明かりの中、全将兵がただならぬ気配を察し、押し黙ったままアルスの姿を待ち受けている。
アルスが現れると、周囲は自然と息を呑み、静まり返った。
「聞け! これより、ルブル川を背にして布陣する」
「な……っ!」
ブラントン侯爵が大きく目を見開き、息を詰まらせる。
「退路を自ら断つと申されるのか!? 敵の機動力を殺すために川を渡らせるのは戦術の常道。ですが……川を背にすれば、少しでも押し返されれば、我々は全員が川の底に沈むことになりますぞ!」
「だからこそだ」
アルスは、揺るぎない声で言い放った。
「敵の数は我々を遥かに上回る。生半可な陣形では、敵の機動力と物量に翻弄され、すり潰されるだけだ。あえて退路を無くし、敵がこちらを包囲するよう動きを誘導して、薄くなった陣形の正面を一点突破する。……あの軍勢を撃ち破るには、この方法以外に勝機はない」
アルスの圧倒的な気魄と、その狂気すらはらんだ覚悟の前に、その場にいた者たちは言葉を失い、ただ息を呑んだ。
「……面白い」
オルグが鉄棍を地面に突き刺し、豪快に笑った。
「退路がないなら、後ろを振り返る必要がないってことだ! 前へ進んで敵の頭を叩き潰すしかねぇ!最高の布陣じゃねぇか!」
「全軍、移動を開始せよ!」
アルスの力強い号令が、陣地に響き渡る。
東方の騎士とファウナスの戦士たち。かつていがみ合っていた者たちが、一斉にルブル川へと足を踏み出す。
背後には冷たい水。
退路を断った死地の中、狂王ガルドが率いる全軍が、大地を揺るがしながら目前へと迫りつつあった。




