27.理外の狂王
宮殿の二階。玉座の間に隣接する控えの間には、重苦しい空気が広がっていた。
長卓の上に広げられた巨大な地図。王都周辺の複雑な地形、幾重にも走る河川の筋、そして東方街道の要所に無慈悲に打たれた赤い木札。
それらはすべて、オルデンの案に基づいて一刻も早く配置を完了すべき軍勢の位置を示している。
部屋を埋め尽くすのは、オルデンが自らの眼鏡に適い、直々に引き抜いた若手の実務派官僚たちと、旧臣派から保身のために寝返った中堅の将校たちだった。
彼らの顔には隠しきれない動揺と、それ以上の張り詰めた緊張が色濃く滲み出ている。
ルクレツィア妃とその一派が宮殿の地下牢へと引きずり入れられてから、まだ幾ばくも経っていない。
「――以上が、東方街道『ルブル川』における布陣の決定案だ」
長卓の頭に立つオルデン宰相の声は、王都で起きた内乱など最初から無かったかのように、いささかの動揺も含んでいなかった。
彼は白手袋をはめた指先で、ルブル川の西――王都側に打たれた青い駒を弾いた。
「アルス殿下の率いる軍は、ルブル川を背に陣を布いている。それは包囲された瞬間に押しつぶされることを意味する。だが、無駄な迎撃に出る必要はない。我が軍は全軍を王都内部に留めて強固に籠城し、敵の焦燥をじっくりと誘えばいい。兵站の基盤に難のあるあちらは、勝手に自壊する」
「しかし、閣下!」
将校の一人が意を決したように、長卓から身を乗り出した。
「敵にはあのイェルナが率いる山岳部族の獣人たちも加わっているとの、確かな情報がございます!奴らは我々の常識の通じる相手ではありません。時間をかければ、険しい山間部を通って我が軍の側面を突いてくる懸念が――」
「言ったはずだ、もっと大局を見据えろと」
オルデンはわずかに顔を傾け、将校の言葉を遮った。
「山岳部族の獣人など、利害だけで動く獣の群れに過ぎない。奴らが求めるのは王都の富と掠奪の権利だ。もし我が軍に圧倒され、何の戦果も得られぬと分かれば、真っ先にアルスの喉元を噛み切るのはあの猛獣どもだ。我々がなすべきは、無駄な流血を徹底的に避け、消耗を最小限に抑えることだ。感情で戦争をするな」
将校は苦々しく喉を鳴らし、悔しそうに頭を下げた。
オルデンは、手にしていた繊細な筆を長卓上のインク壺へと戻した。
彼の脳内では、すでに「アルス軍の自壊」を導くための完璧な策略が美しく組み上げられていた。
ガルドの無能。ルクレツィアの愚行。
それらすべての政治的障害を排除し、今やこの腐敗した王国を実質的に動かしているのは、他ならぬ自分の明晰な頭脳である――。
その揺るぎない自負が、オルデンの背筋をわずかに、そして誇らしく伸ばさせていた。
静寂が、再び控えの間を支配する。
誰もがオルデンの次なる指示を待っていた、その時だった。
静寂を切り裂くように、靴音がひとつだけ響いた。
長卓の最奥、一段高くなった場所に置かれた豪華な肘掛けの付いた椅子。
そこに深く身体を沈め、軍議の始まりから終わりまで、意見を述べることもなく、ただ一言も発せずに聞いていたガルドが、ゆっくりと立ち上がった。
豪奢だがどこかくたびれた黒の衣を纏い、無精髭に覆われた荒れた顎をぞんざいに撫でながら、ガルドは気だるげにその体を起こした。
官僚たちの背筋が硬くなり、一斉に肩がわずかへこんだ。だが、それは王に対する敬意や畏怖から来るものではなかった。
ただ、また陛下の気まぐれが始まったという、底知れぬ呆れを含んだ倦怠感だった。
オルデンに至っては、振り返りすらもしなかった。
ただ、背後から近づく王の足音を聞きながら、オルデンは微かに鼻を鳴らし、手元の地図から一切視線を外さなかった。
妻と子が地下牢へ転がり落ちようが、権力の座から引きずり降ろされようが、ただ酒と怠惰に溺れるだけの無能な置物が近づいてくる。
そのまま玉座の片隅で朽ち果てていればいいものをと見下す気配が、わずかも揺るがないその背中に張り付いていた。
「……オルデン」
ガルドの声が響いた。
オルデンは、わずかに首だけを横に向けた。
「何かご不満でもございますか、陛下。作戦の詳細と布陣はすでに決定いたしました。陛下はただ、奥の執務室で吉報をお待ちいただければ――」
「お前の声は、相変わらず耳障りだな」
「……はい?」
オルデンが怪訝そうに眉をひそめた、次の瞬間だった。
空間そのものが破裂したような、不気味で重苦しい低重音が控えの間に響いた。
何が起きたのか、その場にいた誰一人として、瞬時に理解できた者はいなかった。
ただ、オルデンの視界が唐突に、おかしな角度へと歪み、傾いた。
ガルドの右腕が、常人には捉えられないほどの滑らかな残像を描いて突き出されていた。
いつの間に抜いたのかすら分からない。ガルドの腰に飾られていた、あの飾り物だと思っていた大剣。
その重厚な鉄の切っ先が、オルデンの右肩口から斜め下へと容赦なく深く突き刺さっていた。
「――がっ……!?」
オルデンの開いた喉から、声にならない空気が漏れ出た。
感覚が現実に追いつかない。激しい痛みが脳に届くより早く、強烈な衝撃と熱が全身の神経を一瞬で焼き切っていく。
身体を貫いた刀身ごと、ガルドが腕を大きくえぐるようにねじった。
肉を裂き、肋骨と脊椎が粉砕される鈍い音が、静まり返った控えの間に無残に響き渡った。
「へ……陛……下……?」
口から、真っ赤な泡が吹きこぼれた。
オルデンの瞳は、目の前で起きた信じられない現実を拒絶するかのように見開かれ、完全に焦点を失って宙を泳いでいた。
完璧だったはずの計算。
盤石だったはずの政治的盤面。
自分の頭脳が、完全に掌握していたはずの「現実」。
そのすべてが、前触れもなく目の前の「暴君の気まぐれ」によって、足元から叩き潰されたのだ。
「――ふん。こんなものか?」
ガルドは表情一つ変えず、無表情のまま立ち尽くしていた。
「自分の思い通りに、すべての人間が動くとでも思っていたのか? ……お前のような賢しい者が、俺は一番反吐が出る。反逆の意志すら、まっとうな理屈で固めなければ、抱くことすらできないような臆病者がな」
「あ……が……っ!」
ガルドは容赦なく、その大剣を力任せに引き抜いた。
肉と骨が引き剥がされる血生臭い音とともに、オルデンの身体が崩れ落ちる。
重い音を立てて長卓の上に倒れ込んだオルデンの身体から、大量の鮮血が一気に噴き出し、先ほどまで彼が誇らしげに指し示していた王国全土の地図を、赤黒く無惨に染め上げていった。
「ひ……ひいいいっ!?」
張り詰めていた沈黙が、悲鳴によって破られた。
若手官僚の一人が恐怖のあまり腰を抜かし、後方へと転げるようにして這いずった。
将校たちが、反射的に一斉に剣の柄に手をかける。
だが、誰も抜けない。
恐怖で指先が激しく震え、金属の擦れ合う虚しい音が室内に響くだけだった。
そこに立っているのは、もはや酒に溺れて無気力に衰えていた「飾り物の王」ではない。
かつて圧倒的な武力と底知れぬ冷酷さをもって王国を力でねじ伏せ、現在の血塗られた玉座を築き上げた正真正銘の「暴君」そのものの姿だった。
大剣の切先から滴り落ちるオルデンの鮮血を、ガルドは興味なさそうに一瞥した。
オルデンの指先がわずかに痙攣していたが、やがてその動きも完全に止まった。
王国最高の頭脳と謳われた男の最期は、驚くほどあっけなく、惨めなものだった。
「バロール!」
部屋の隅から黒衣の老人が音もなく進み出て、恭しくひざまずいた。
「ハッ。ここに」
「このゴミを片付けろ。ついでに、地下牢のルクレツィアとあのガキもまとめて処分しておけ。……これ以上、俺の耳を汚すような雑音を聞く気はない」
「御意にございます。いかように、処理いたしましょう……」
「好きにしろ」
ガルドはそう吐き捨てると、大剣についた血を、死んだオルデンの上着の裾で無造作に拭き取った。
そして、恐怖のあまり硬直している将校や官僚たちへと、ゆっくりと視線を向けた。
その瞳には、人間を人間とも思わぬ、底知れぬ狂気が宿っていた。
「……何をいつまで呆けておる」
ガルドは、控えの間にいる全員を見回した。
「宰相は始末した。……これより、軍の指揮はすべて俺が直接執る」
「へ、陛下……! しかし、オルデン閣下が組み上げた詳細な作戦計画は――」
一人の官僚が、死を覚悟した必死の思いで声を絞り出した。
「王都の防衛、および補給線の維持は、宰相閣下の綿密な指示があって初めて成り立つものでございます!突然の指揮権の変更など行えば、現場に致命的な混乱を招きます!」
「混乱だと?」
ガルドは鼻で嘲笑うように、息を吐いた。
「籠城だの、敵の自壊を待つだの……聞いていて反吐が出る。アルスが陣を張ってこちらと対峙する気になったのだ。ならば、奴の望み通りにしてやるまでのことだ」
ガルドは荒々しく歩を進め、血で濡れそぼった地図の前に踏み込んだ。
死んだオルデンの亡骸を容赦なく踏みつけ、その胸板を踏み台にして、ルブル川に布かれた敵の陣形を見下ろす。
「全軍に出撃を命じろ。王都に残る動かせる兵力すべてだ……奴らを一兵残らず、ルブル川へと叩き込む。川の水ごと赤く染め上げ、逃げるならば全員残らず踏み潰して殺す」
「全……全軍……!? それでは、王都の防備が完全に手薄になります! もし別動隊が隙を突いて――」
「黙れ」
ガルドの鋭い一言が、官僚の言い訳を完全に途切れさせた。
「そんなことは、どうでもいい」
ガルドの口元が、歪で凶暴な笑みに釣り上がった。
「あの生意気な小僧が、自分の首を賭けて戻ってきたのだ。……ならば、こちらも全力で正面から叩き潰してやるのが、親としてくれてやるべき、最大の愛というものだろう?」
ガルドはオルデンの亡骸から一歩退き、大剣を鞘に戻すと、ゆっくりと周囲を見回した。
他人の権謀術数も、王国がたどる運命も、この男の目に映る価値など最初からなかった。
求めていたのはただ一つ、己の足元を脅かす唯一の存在――アルスと、すべてを投げ出して殺し合うことだけだった。
「出陣の鐘を鳴らせ」
ガルドは窓の外、遠く東方の空を見据えて命じた。
「……アルス。お前が作ったその地獄、俺が直接出向いてやろう」




