24.老狐の悪計、あるいは……
王都の裏で、バロールが旧臣たちの間を縫って暗躍していたその夜から、時は少し進み、王都に眩しい昼の光が差し込む頃。
宮殿の空気は、水面下の策謀によって静かに、しかし確実に歪み始めていた。
オルデン宰相は、自らの権力を絶対的なものとするため、王都内の実権をさらに強固に握り固めようとしていた。
その最初の足がかりとして、彼は宮殿の要職に巣食うルクレツィアの息のかかった官僚たちを、次々と左遷・排除していったのだ。
それは、妃の背後にいる息子ヴィルの王位継承の芽を、あらかじめ完全に摘み取るための一手だった。
積み上げてきた足場を容赦なく削ぎ落とされ、ルクレツィアの堪忍袋の緒はついに切れた。
宮殿の一角にある、オルデンの執務室の扉が激しい音を立てて開け放たれた。
「――いい加減になさい、オルデン!」
怒りに顔を紅潮させたルクレツィアが、侍女たちを振り払うようにして執務室へ乱入した。
オルデンは山積みの書類からいっさい視線を外さず、煩わしそうに声を発した。
「妃殿下。ここは公務の場です。そのような大声を出すのは、王妃の品格にかかわりますよ」
「品格ですって? ヴィルの王位継承をいつまで先延ばしにするつもり!あなたに何度言えば分かるの。国王はもう使い物にならない。今すぐにヴィルを王として即位させ、実権を握らせるのよ!」
オルデンは小さく溜息をつくと、筆を置き、ゆっくりと背もたれに体重を預けた。
「……妃殿下。あなたの焦る気持ちは理解できますが、今はまだその時ではありません。即位を迎えるには、もう少しの時間が必要です」
「その『時間』とやらは、いつまでまてばいいのよ! あなたはいつもそうやって、私を、ヴィルを待たせる!
もしかして、本当はヴィルを王にするつもりなんてないんじゃないでしょうね!?」
ルクレツィアの悲鳴に近い叫びに、オルデンはあからさまな倦怠感を浮かべて冷たく返す。
「耳を貸してください、妃殿下。ヴィル王子は、この国の『象徴』にならねばならない。彼が王位に就くべき時は、私がそう判断した時です。あなたのご都合で決まるものではありません」
「黙りなさい! あなたは私と契約したはずよ! 私があなたの権力を支える代わりに、ヴィルを王にすると!」
「私は、あの子が『王』にふさわしい器になるまで、静かにしていなさいと言ったはずだ。私の仕事を邪魔するような真似は、二度となさらないで頂きたい」
オルデンの言葉には、反論を許さない鋭利な圧があった。
「……あぁ、そう……。そうなのね。あなたが何を考えているか、やっと分かったわ」
ルクレツィアは、オルデンを指差すと吐き捨てるように言った。
「あなたも、ガルドも、結局は私をバカにしているのね。いいわ!私は、どんな手を使ってでも、ヴィルを王にするわ!」
「ご随意に。ただし、後悔しても知りませんよ」
オルデンは再び書類に視線を落とした。
ルクレツィアは悲鳴に近い叫びを喉の奥に飲み込み、踵を返して執務室を飛び出した。
ルクレツィアの私室へ戻るまでの廊下は、まるで彼女の荒れ狂う心そのものだった。
私室にたどり着くや否や、彼女は室内にあった花瓶を、鏡を、目に映るすべての装飾品を床へと叩きつけた。
「ふざけないで……! 誰も私の思い通りにならないなんて……!」
ルクレツィアは髪を振り乱し、その美しい顔は怒りで醜く歪んでいる。
「ヴィルだけは、絶対に守らなきゃ。あの子こそがこの国の次の王なのよ……。そのためなら、私は、私はどんな手だって……!」
その時だった――。
ルクレツィアの私室の扉を叩く音が響き、許可も得ぬままバロールが滑り込んできた。
「オルデン宰相には、随分とお気に召さぬ扱いを受けたようでございますな……」
ルクレツィアの視線の先には、いつもの卑屈な笑みを浮かべたバロールが、深々と頭を下げて立っていた。
「……バロール? 誰がここへ入っていいと言った!」
「宰相という男は、花を愛でる心すら持ち合わせておりませぬからな。妃殿下の未来を案ずる老いぼれとして、あまりに心が痛んだのですよ」
バロールは床に跪き、ルクレツィアを見上げる。
「宰相は、ヴィル王子をもはや『駒』とすら見ておりません。……ですが、私ならば。この王国で唯一、殿下を正当な王座へ導く手段を知っております」
その言葉に、ルクレツィアの顔色が変わる。
「本当なの? 教えて。何をすれば、ヴィルを王座に就けられるの?」
バロールは仮面のような笑みを深め、ルクレツィアの手をそっと取り――。
「まずは……王権を奪い取るのです」
バロールの声は、ねっとりと耳の奥に直接這い寄ってくるかのように滑らかだった。
ルクレツィアの手を包み込むその指先は、まるで蛇の皮のように生々しい感触で皮膚を這いずる。
ぞっとするような気色の悪さに、ルクレツィアは反射的に身じろぎした。
「王権を……奪う? どうやって。ガルドが私に王権を譲るはずがないでしょう。私に権力を渡すなど、死んでもあり得ないことだわ」
「ガルド陛下に、お言葉を発していただく必要などございません。……陛下が夜の静寂を愛でておられる隙に、『専横を極めるオルデン宰相を排し、その討伐と全権の掌握をヴィル殿下およびルクレツィア様に委ねる』という王勅を仕立て上げるのです」
バロールは細い目をさらに細め、ルクレツィアの耳元へと顔を寄せた。
その提案の恐ろしさに、ルクレツィアの背筋を冷たいものが走る。
王の直命である王勅の捏造は、一歩踏み外せばそのまま国家反逆の大罪――自らの首だけでなく、愛息子ヴィルの未来すら一瞬で灰燼に帰す、二度と引き返せない禁忌の賭けだった。
頭の片隅で、それがどれほど危うい賭けであるかを彼女の理性が警告している。
しかし、オルデンに突きつけられた拒絶と、自分の無力さに対する焦燥が、その警告を無理やりかき消していく。
「そんな真似をして、万が一にも露見すれば……!」
「露見するかどうかは、妃殿下のご決断次第にございます」
バロールは懐から、重厚な金細工の塊をそっと取り出し、ルクレツィアの目の前に差し出した。
それは、絶対的な王権の象徴である「王印」だった。
宮殿の奥深く、普段から王の身辺を影のように支えてきた老いぼれだからこそ、容易く待ち出せたその金の塊が持つ物理的な重みは、そのまま王国を傾けるほどの圧倒的な力を持っている。
本物の王印が持つ圧倒的な権威の重圧を目の当たりにした瞬間、ルクレツィアの脳裏で、危うい現実と甘美な幻覚の境界が溶け合っていった。
――これさえあれば、あの傲慢なオルデンをひれ伏させられる。ヴィルを玉座へ据えられる。
恐怖と理性は、我が子を王にするという狂気の前にはあまりに無力だった。ルクレツィアの瞳から恐怖の色が消え、代わりに歪んだ歓喜の光が宿る。
「……実を言えば、すでに反オルデン派の貴族ども、グレイヴ伯爵らの手には、水面下で集めさせた『オルデンの不正を示す機密文書』を握らせてございます。奴らは今、オルデンの首を取ろうと血を煮やしておりますが……足りないのは、奴らを動かす決定的な『大義名分』のみ」
バロールは仮面のような笑みをさらに深くした。
「そこへ、ルクレツィア様のお手で作られた王勅を与えるのです。『不正を働いた裏切り者オルデンを討て』と。本物の王印に裏打ちされた証拠と王勅……この二つが揃えば、貴族どもは歓喜の声を上げてオルデンへ襲いかかるでしょう。彼らは己の保身と失墜した誇りを取り戻すため、喜んで刃を振るいます」
「王勅を……捏造し、あいつを『逆賊』として貴族たちに討たせる……!」
ルクレツィアは震える手でその王印を奪い取るように掴み取ると、自嘲と狂気が入り混じった笑みを浮かべた。
オルデンを追い詰め、我が子を王座に据える未来が、あまりに鮮明に脳裏を過り、彼女の理性を完全に焼き尽くす。
「そうよ……! 王命と不正の証拠があれば、あの男は逃げられない! 貴族どもを焚きつけて、今すぐに動き出させなさい!」
「御意にございます、妃殿下」
バロールは恭しく膝をつき、深々と頭を下げた。
「どうぞ、貴族どもを存分に『捨て駒』としてお使いくだされ。老いぼれは、これにて失礼いたします」
狂気に満ちた笑みを残すルクレツィアをその場に置き去りにし、バロールは音もなく身を翻し、静かに部屋を退出した。
窓から差し込む昼の光すら届かぬ、薄暗い宮殿の回廊。
扉が閉ざされた先、バロールは独り静かに足を止める。
(クク……愚かな女め。私が仕掛けたとも知らず、貴族が持つ文書と偽の王勅でオルデンを追い詰めた気になっているようだが……)
バロールの脳裏には、この謀略がもたらす結末がすでに見えていた。
身に覚えのない汚名を着せられたオルデンは、おとなしく首を差し出すような男であるはずがない。
王勅を掲げる反オルデン派の貴族たち、そしてその後ろ盾のルクレツィアに対し、オルデンは国家の維持などという大義名目を捨て、生き残りをかけた容赦ない血の粛清に出る。
それは宮殿と王都の全域を巻き込んだ、底なしの混乱以外にあり得なかった。
王都の二大勢力が、ぶつかり合って血を流し尽くす。
双方が疲弊し、王都の秩序が完全に崩壊したその時――。
それこそが、バロールが仕込んだ筋書きだった。
「せいぜい盛大に燃え上がるがいい……」
老狐の薄い唇から漏れた嘲笑は、宮殿の石造りの回廊の闇の中へと静かに溶けて消えていった。




