23.老狐の悪計
王都の片隅にある貴族の邸宅の応接室――。
オルデンの容赦ない政治的圧力に対し、生き残りを賭けて水面下で結びついた、反オルデン派の面々が顔を揃えていた。
王国の西部を治めるグレイブ伯爵を中心に、かつてガルドの側近として騎士団を支えた古参の貴族たちが、この緊迫した空間に身を置いている。
「……もはや、猶予はないな」
グレイブは、手元にあったワイングラスをテーブルへ乱暴に置くと、重苦しい沈黙の中、険しい視線を仲間に向けた。
「オルデンの奴は、次の軍議で西部騎士団の解体を上奏する気だ。それが通れば、我々は丸裸で放り出される。このままでは、家門の誇りどころか、一族全員が路頭に迷うことになる!」
「だが、陛下はもはや頼れん……!」
西方の老貴族の一人、ヴェルナーが顔を青ざめさせながら頭を抱えた。
「あの御方は、自らの平穏を脅かされないこと以外に関心をお持ちではない。妃のルクレツィアもだ。……クソッ、誰も彼も、私たち旧臣のことなど考えておらん!」
「ならば……どうする!」
グレイブはこめかみに青筋を浮かべ、頑丈なテーブルを我が身の不甲斐なさをぶつけるように拳で激しく叩いた。
「だが、誰かが腹を括らねばならん。……おい、お前たちはどうだ? まだ保身を考える余裕があるのか!?」
グレイブの問いに、隅に座っていた中年の男――バートレットが、血の気のない顔で小さく首を振った。
「余裕など、最初からありませんよ……。私の領地では、すでにオルデンの息がかかった監査官がうろつき始めています。明日にも、言いがかりで領地を没収される口実を作られることでしょう。……私には、妻も、まだ幼い子供もいる。このまま黙って首を差し出すなんて、到底できません」
バートレットの言葉に同調するように、今度は窓際に立っていた老貴族――ロードベルが、震える拳を叩きつけた。
「そうだ……! 私のところも同じだ。かつての部下どもは次々と寝返り、屋敷の者たちまで私を疑うような目を向け始めている。味方だと思っていた者たちに裏切られる恐怖を、お前たちは分かるか?敵に斬り殺される前に、身内から首を刎ねられかねんのだぞ!」
「ああ……。誰も彼も、明日の命さえ危ういというのに、綺麗事など言ってられるか」
ロードベルの掠れた怒声が響いたあと、室内に沈黙が広がる。
誰もが自らの首の皮一枚がどこにあるかを思い知らされ、荒い息を整えることしかできない。自分たちの叫び声ですら、外に漏れれば命取りになりかねないと気付いた者たちは、再び冷めた現実へと引き戻されていく。
張り詰めた静寂が支配する中――。
重厚な扉を叩く硬質な音が、静まり返った室内に妙に生々しく響いた。
「だ、誰だ!?」
全員が弾かれたように剣に手をかけ、一斉に緊張の色を浮かべる。
扉が力なく細めに開くと、入ってきたのは黒衣をまとい、少し背を丸めた年老いた男――バロールだった。
「――夜分遅くに失礼いたしますよ、皆様方」
バロールは身を縮こまらせ、恭しく頭を下げた。
「なっ……バロール!?」
グレイブが眉をひそめ、険しい顔で立ち上がった。
「貴様、何の真似だ! 陛下の犬が、なぜここにきた! 一体、どうやってこの屋敷の警備を抜けてきた!?」
「いやいや、表の門から入ってきましたよ。正門の警備の方も、私の顔を見るなり快く通してくれましてね」
「なっ……!?」
グレイブたちの顔から血の気が引く。警備を買収されていたのか、あるいは自分たちの動きが最初から宮廷側に筒抜けだったのか――。
「――おや、そんなに怯えなさるな」
室内に沈黙が走る中、当のバロールは、ゆっくりと部屋のなかに歩みを進めた。
バロールは両手を振り、深々と腰を折る。その態度は、武装した貴族たちの前でありながら、妙に落ち着き払っていた。
「私はただの老いぼれ……。ただ……夜の散歩をしておりましたら、皆様のあまりに高く熱いお志が、風に乗ってこの耳に届きましたものでね」
「戯言を言うな!」
ロードベルが一歩踏み出し、バロールを睨みつけた。
「お前が、誰とも繋がっていない保証がどこにある! 追い詰められた我々を嘲笑いに来たのか!」
「いいえ、決してそのようなことは……」
バロールは首を横に振った。
「老いぼれとて、あの宰相様の青白いお顔は苦手でしてな。皆様のような高潔な方が、あのような若造に潰されていくのを見るのは、実に心が痛む」
バロールはわざとらしく胸元に手を当て、しわがれた声で溜息をついた。
「……それはもう、心から」
バロールは懐から、使い込まれた黒ずんだ革製の文書筒を取り出すと、卑屈な笑みを浮かべたまま、そっと長机の端に転がした。
「ほんの、手土産にございます。私のような老いぼれには、何の価値もございませんが……皆様のようなお立場の方ならば、あるいは『お役に立つ』のではないかと」
グレイブは怪訝そうにバロールを睨みつけながら、慎重にその文書筒を引き寄せ、中身をあらためた。
そこに収められていた中身を見た瞬間、グレイブの目が見開かれた。
「な……これは……!?」
「な、なぜこんなものを……貴様が持っている!?」
バロールは、顔を歪めて笑った。
「言いましたでしょう、ただの手土産にございますと。……私のような者は、せいぜい自分の命を繋ぐだけで手一杯。皆様がこれを使ってどうなさろうと、老いぼれは何も知りませんし、見てもおりません」
バロールは恭しく一礼し、ゆっくりと後ずさりしながら扉へと向かった。
「ただ……もし皆様が立ち上がられるのでしたら、どうぞ存分にお使い召されよ。……高潔なる貴族の皆様の手で、あの鼻持ちならない宰相様に一泡吹かせてくだされば、老いぼれとしても実に胸がすく思いでございます……」
「待て、バロール! お前の望みは何だ! 」
グレイブの呼びかけにバロールは答えず、そのまま滑るように部屋を抜け出し、静かに扉を閉めた。
残された応接室には、重苦しい沈黙と長机の上の「革製の文書筒」だけが残された。
「……バロールの奴、我が身可愛さにオルデンを売ったか」
グレイブは文書筒を強く握りしめた。
「まあいい。あの老いぼれがどうあれ、これは本物だ。オルデンの喉元に手が届くこの一手……逃す手はない!」
◇
静まり返った暗い廊下。応接室から遠ざかるにつれて、バロールの足音は完全に闇へと溶けていった。
「……哀れなものだな」
バロールは背を丸めたまま立ち止まり、誰もいない暗がりへ向かって呟いた。
「己の意思で立ち上がった気でいる愚か者どもめ。私が仕掛けた罠とも知らずに、上手く踊って見せることだ」
視線をオルデンの邸宅がある方角へと向け、老いた唇をねっとりと吊り上げる。
「せいぜい血を流し、互いに潰し合うがいい。――東方の山から、あの男が戻ってくるまでの暇つぶしには、これ以上ない余興となろうよ……」
バロールは足音一つ立てず、再び回廊の深い闇の中へと消えていった。




