22.蒼嶺の王
東方の空から昇った朝日が、険しい山並みを茜色に染め上げていく。
その清々しい朝の光は、ブラントン侯爵邸の執務室の窓ガラスを突き破り、容赦なく室内にまで流れ込んでいた。
王都の目を盗み、この屋敷に身を潜めるアルスたち。
外の世界の輝かしい陽光とは裏腹に、室内の空気は重苦しかった。執務室でアルスは、東方周辺の地図に目を落としていた。
室内に集まっているのは、アルスとリム、オルグ、ブラントン侯爵、そして護衛として控えるカランドゥーラの五人だった。
「――西の街道の警戒、怠るなよ。王都の犬どもに嗅ぎつけられるのは避けたい」
アルスの声に、ブラントン侯爵は深く眉間にシワを寄せ、黙って静かにうなずいた。
「承知しております。ですが、アルス様……問題はそこだけではございません」
侯爵は、地図の東方を指し示した。
「王都の軍に対抗し、真正面からぶつかろうとすると、どうしても兵数が足りませぬ。かといって、大々的に兵を集めれば即座に王都へ居場所が漏れ、討伐の兵を向けられるでしょう」
「……手駒が足りん、ということか」
アルスが眉間を押さえると、傍らに控えていたオルグは、腕組みをしたまま、声を漏らした。
「だったら、あの山奥にうずくまっている山岳地帯の獣人族を引っ張り出すのはどうだ? 連中なら、腕っ節の強さは一級品だ」
その提案に、リムがわずかに表情を引き締めて口を開いた。
「父の言う通り、あの山岳地帯の戦力さえ手に入れば強力な戦力となりますが……甘くはありません。あそこは極度の人間嫌いで有名です」
ブラントン侯爵が苦渋に満ちた表情で補足した。
「実は、何度か使者を送り、同盟の打診を試みました。だが、我らの言葉など聞く耳持たず、ことごとく門前払いを食らいました。――『これ以上しつこく使者を寄越せば、その首を跳ねて送り返す』とまで言われる始末です」
利害だけで動かせるほど単純ではなく、背負ってきた血の歴史がその扉を固く閉ざしていた。
重苦しい沈黙が、冷え切った執務室の空気を押し潰す。動かせば王都の網にかかり、頼ろうとすれば門前払いに遭う。
アルスはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……ならば、使者を送るのが間違っていたということだ」
「アルス様……?」
リムが息を呑んで見上げる。アルスは痛む右太腿をわずかに押さえながらも、迷いのない足取りで机から離れた。
「あいつらに伝えるべき言葉がある。あの古の詩を持っていけばいい。向こうが拒絶しようとも、その意味を直接突きつけてやる」
「なっ……! 危険すぎます!山岳地帯に巣食うのは、蒼嶺の狂獣と恐れられる、ガロナス(大虎族)の連中ですよ!もし罠に嵌められたり、本当に首を跳ねられたりしたら……!」
リムが必死に止めようとするが、アルスの決意は揺るがなかった。
アルスが立ち上がったのを見ると、待機していたカランドゥーラが静かに歩み寄り告げた。
「アルス様、山へ入るおつもりであれば、護衛として私も同行いたします」
アルスは視線を据えて、一つうなずいた。
「……頼む。行くぞ、リム」
◇
険しいこと山道を越えた先にある、獣人族の総本山。そこへ至るまでの道程は、厳しいものだった。
切り立つ山岳地帯の険しい回廊、一歩足を踏み外せば底の見えない深い谷底へと転落する断崖絶壁の要所が連続する。
背後から押し寄せる異様な気配に振り返った瞬間、視界のすべてが殺意に塗りつぶされた。
「――動くな」
頭上を掠めるようにして、音もなく数筋の矢が放たれた。それはアルスたちの退路を塞ぐように、背後の岩肌へ深く突き刺さる。
風のうねりに紛れ、周囲の岩場から黒い影が音もなく滑り出る。気配を完全に断った獣人たちが、瞬く間にアルスたちの周囲を幾重にも包み込んだ。
反射的に剣の柄へ伸びかけたカランドゥーラの手首を、鋭い風圧を伴う矢がかすめ、足元の岩肌を粉々に削り飛ばした。
「カランドゥーラ、待て」
カランドゥーラは歯噛みしながら動きを止め、周囲を覆う無数の殺気に合わせて鋭く目を細めた。
しかし、呼吸を整える間もなく、頭上や足元を縫うように突き刺さる無数の矢の気配を悟り、渋い表情で肩をすくめる。
狭く入り組んだこの断崖では、剣を抜く隙すらない。一歩でも動けば蜂の巣になるか、底知れぬ谷底へ放り出されることを、カランドゥーラの全身が嫌というほど理解していた。
「……武器を収めろ。降伏する」
アルスの指示が飛ぶと同時に、リムやカランドゥーラたちは帯びていた武器を足元へ落とした。
それを合図にしたかのように、岩陰から音もなく獣人たちが現れた。屈強な腕が容赦なくアルスたちの腕を掴み上げ、そのまま背後へとねじ上げる。
獣人たちは警戒の色を捨てぬまま、アルスたちの背中を乱暴に突き飛ばして連行していった。
幾重もの厳重な門をくぐり、荘厳な空気が満ちる巨大な岩屋の最奥。
光の届かない闇から、やがて松明の炎が照らし出す広大な空間――要塞の心臓部である謁見の間へと、アルスたちは引きずり出されていく。
そこには、各部族の猛者どもを束ねる蒼嶺の王が待ち構えていた。
玉座に腰掛けるその蒼嶺の王は、顔の半分以上を仮面で覆い、身に纏う甲冑をわずかに軋ませた。
殺気をはらんだ沈黙の中、蒼嶺の王は一切身じろぎせず、武装を剥ぎ取られてなお背筋を伸ばすアルスの姿を、ただじっと見据えている。
屈強な戦士たちがアルスの懐を探り、懐から引きずり出した一枚の書簡を恭しく蒼嶺の王へと差し出す。
蒼嶺の王は無言のまま、封を切って静かに目を通す。数行にわたる古の詩に目を通し終えると、その紙くずを無造作に床へと放り投げた。
「――よくもまあ、そんな子供だましを、この期に及んで私の前に持ち出せたものだな」
仮面の下から覗く瞳が薄い笑みを湛えながら、手向かうことも許されずに囚われたアルスたちを見据え、その提案を鼻で笑い飛ばした。
「人間。お前は『分け隔てない世界へ導く』と言ったな。だが、現状はどうだ。王都から逃げ延びた明日をも知れぬ亡霊に、我が一族がなぜ手を貸さねばならん。
伝説の神獣だと? 冗談を言うな。それが我らの飢えを癒やすのか? 王都の大軍と矢の雨をすべて防げるというのか?……お前にあるのは、敗者の妄想と甘ったれた虚言だけだ」
傍らに控えていたカランドゥーラやリムが息を呑み、わずかに身構える。理詰めで追い詰められた極限の沈黙の中、蒼嶺の王は仮面の下から黄金色の瞳をアルスに向けた。
「聞かせてもらおうか、人間。我が一族の血を、お前という『敗者』の賭けに差し出す理由を。お前は何を求め、なぜ我々の力が必要なのか。命乞い以外の、私が納得できる『理由』をここで証明してみせろ。できなければ――お前たちの首をはねて終いだ」
アルスは静かに口を開いた。
「……俺が求めるのは、王国でも、名誉でもない」
アルスの黒い瞳が、蒼嶺の王の視線を真正面から見据えた。
「俺が欲しいものは、ただ一つ。――何者にも踏みにじられず、誰にも害されることのない、真の平穏だ。そのためならば、どれほど手を血に染めようとも、地獄の底を這いずり回ろうとも構わない。嘲笑うなら嘲笑うがいい。俺は俺の誓いを守るために、この世界を壊し尽くす。そのための犠牲も、すべて飲み込む覚悟でここまで来た」
玉座の蒼嶺の王は、しばらくの間、言葉を失ったように動かなかった。だが次の瞬間、微かに息を吐き、玉座から立ち上がった。
緊詰した空気の中、鎧が擦れ合う音だけが耳を打つ。
蒼嶺の王は無言のまま、顔の半分以上を覆っていた無機質な仮面へとゆっくり指を掛けた。
その一挙手一投足に、謁見の間を支配していた殺気が引き、代わりに息の詰まるような静寂が落ちる。
松明の火が爆ぜる音すら、やけに鮮明に響いた。
誰一人として口を開く者はいない。拘束されたファウナスの戦士たちも、アルスを庇うように立つリムも、ただその指先の動きに目を奪われていた。
仮面を外す短い金属音が、静寂を切り裂く。
蒼嶺の王は仮面をゆっくりと持ち上げ、そのまま無造作に床へと放り捨てた。
――乾いた音が岩屋に響き渡る。
現れた素顔に、周囲の空気が凍りついた。
そこに立っていたのは、戦慄を覚えるほどの威圧感を纏う一人の女性だった。
銀髪に黒の縞模様が走る獣耳を揺らし、気高い黄金色の瞳がアルスを射抜く。それは、荒々しい野獣の群れを従える「王」そのものの姿だった。
「……なっ……!?」
リムが思わず小さく声を漏らし、屈強なファウナスの戦士たちすらも、動揺の色を隠せずにざわめく。
野蛮な獣人たちの頂点に君臨していたのは、想像を絶するほどの美しい女性だったのだ。
蒼嶺の王は、アルス陣営の動揺を面白そうに一瞥すると、銀髪を揺らしながら喉の奥を鳴らして笑った。
「……クク……。ハハハハハッ!」
その透き通るような笑い声は、謁見の間に鮮烈な波紋を広げた。
蒼嶺の王は床を踏み鳴らしながら圧倒的な威圧感を放ってアルスへと歩み寄る。
その動きに合わせ、周囲を取り囲む獣人族たちが一斉に殺気を解き放ち、いつでも飛びかかれるよう身構えた。
蒼嶺の王はアルスの目前まで歩み寄ると、その黄金色の瞳でアルスの瞳を間近に覗き込み、微笑んだ。
「面白い……。英雄ぶる偽善者どもや、玉座にしがみつくだけの愚か者どもは飽きるほど見てきたが、『平穏を守るために王座を奪う修羅』か。……だが、口先だけの綺麗事なら、今すぐその喉を引き裂いてくれる。お前の言葉に、命を張るだけの価値はあるのか?」
殺気が肌を刺すような重圧の中、アルスは一歩も引かず、蒼嶺の王の黄金色の瞳を真正面から見据えた。
「俺の命は、最初からここにある。欲しければくれてやるさ。ただし、俺の背中についてくるなら、王都の連中だけでなく、お前たちの欲望すら飲み込んでやるがな」
その不敵な返答に、蒼嶺の王はしばらく沈黙した後、唇の端を妖しく釣り上げて笑みを深めた。
「――いいだろう。その狂気、気に入った」
蒼嶺の王は身を翻すと再び玉座に戻り、堂々たる佇まいでアルスに言い放った。
「我が名は、イェルナ・ザヴァル。お前の覚悟のほど、この目で確かめてやろう。蒼嶺を揺るがす我が一族の牙、今よりお前のために貸してやる。ただし、途中でその足がもつれて折れたなら……その時は、真っ先に私がその首を狩り取ってくれる」
「ああ、望むところだ、イェルナ」
アルスは笑い返し、その危険な賭けを真っ向から受けて立った。




