20.帰還
森の奥から、草木を踏みしめる足音が近づき、やがてその動きを止める。
アルスは痛みに顔を歪めながらも、手元にあった短剣の柄へ指をかけた。
すぐ傍らでは、リムが弓を素早く引き絞り、傷ついたアルスを庇うようにして気配の方向へと鋭い矢先を向けている。
「アルス様……っ!」
緊迫した空気が、周囲の森に立ち込める冷たい霧さえも切り裂いていく。
二人の視線の先、鬱蒼とした木々の陰から、ひとりの人影がぬかるんだ地面を踏みしめながらゆっくりと姿を現した。
ずぶ濡れの外套を纏い、顔立ちには深く刻まれたシワと濃い疲労の色が張り付いている。
追手にしては殺気が薄く、むしろ驚愕と安堵の色が入り交じっていた。
その姿を認めた瞬間、矢を構えていたリムの呼吸が完全に止まった。
男の唇から、かすれた声が漏れる。
「……リム、様……?」
その震えた声に、リムは大きく目を見開いた。
「……イガラム……? なぜ……どうして貴方がここに……!?」
かつて幼き日のリムの面倒を見ていた世話係のイガラム。なぜこんな深い森の中にいるのか。
動揺の色を隠せないリムの背後で、アルスは静かに短剣の柄を握り締め、鋭い眼光をその老人に向けた。
「やはり……! 生きておられたか……!」
イガラムと呼ばれた男は、手にしていた杖を投げ出すと、ドサリと両膝を地面の上に突いた。その肩が、激しい安堵と疲労で細かく震えている。
「王都で処刑が行われたと……アルス様がウルガノスともども全滅したとの知らせが届き、我らは絶望の底に叩き落とされました。だが……ブラントン侯爵が『アルス様は死なん、必ず生き延びて東方の森を目指すはずだ』と……!我らファウナスの一族に、アルス様の捜索と保護を頼まれたのです!」
イガラムは荒い息を吐きながら頭を垂れ、地面に額をこすりつけた。
「お探し申し上げました、アルス様……!」
アルスの胸の奥底で、冷え切っていた血がにわかに脈打ち始める。アルスの脳裏から完全に抜け落ちていた存在。サナリアの地で仲間となった、リムの出自でもある——ファウナス。
目立ちすぎる彼らを、アルスは王都には連れて行かなかった。万が一の際の戦力、そして東方のブラントン侯爵との連絡線として、東方領と王都を隔てる大森林の中に潜伏させていたのだ。
「……よくぞたどり着いてくれた」
アルスは息を呑み、剣の柄からてをはなす。
「はい! ですが、長くは持ちません。追手が本格的な山狩りを始めれば、この森も危うい……!」
イガラムの切迫した言葉に、リムは厳しい表情のままアルスを支え直した。その温もりが、痺れたアルスの手足に確かな生の熱を取り戻させていく。
「行くぞ、リム。一刻も早くブラントン侯爵のもとへ向かう」
◇
山小屋をあとにしたアルスたちは、監視の隙間を縫いブラントン侯爵の館を目指した。
王都から逃げだし、二日がたった。日が沈み静まり返った宵の口――ついにアルスたちは、ブラントン侯爵の館へと潜り込んだ。
暗がりの中、待っていたのはブラントン侯爵その人であった。黒い外套を羽織り、厳めしく眉を寄せた老将は、目の前に現れたアルスの満身創痍の姿を目にした瞬間、息を呑んだ。
「……アルス様……」
ブラントン侯爵の唇が、震えた。
老将は一歩、また一歩と足を引きずるように近づくと、従者たちの前であることも忘れ、アルスの前に崩れるように両膝をついた。
「……よくぞ……よくぞご無事で……! よくぞ、生きて戻ってくださいました……っ!」
老将の絞り出すような声に、深い悔恨と焦燥が混じっていた。
「侯爵……」
アルスは痛みに耐えながら、自嘲気味に笑った。
「無様だろう。手札をすべて失い、命からがら逃げ戻ってきた。……失望したか?」
「何を……何を仰いますかッ!!」
ブラントン侯爵は頭を跳ね上げ、赤く走った瞳でアルスを直視した。
「手札を失った!? 逃げもどった!? 違います! あなた様は、あのオルデンが仕掛けた罠を潜り抜け、生きてここにおられる!それだけで……我らの希望はまだ潰えていないのです!」
ブラントン侯爵は立ち上がり、周囲に警戒の目を向けてから、二人の腕を引っ張るように館の奥へと急がせた。
ブラントン侯爵の館の二階。
熱を帯びたアルスの傷口には薬草が塗り込まれ、熟練の軍医の手によって素早く再縫合が施されていた。
痛みに耐えるアルスの傍らには、片時も離れようとしないリムが静かに寄り添っている。
そして部屋の暗がりには、アルス帰還の報を受け駆けつけた、オルグの姿もあった。
「……王都の情勢はどうなっている」
アルスはベッドに背を預けながら、ブラントン侯爵を見つめた。
「最悪にございます」
ブラントン侯爵はアルスのベットの上に王都周辺の地図を広げ、語り始めた。
「王都は現在、実質的にはオルデン宰相の独裁となっております。ウルガノスの処刑により、貴族の反対勢力も完全に沈黙させられました。……そして、問題はここからです」
ブラントン侯爵は、地図の東方周辺を指し示した。
「処刑場での出来事の直後に、東方がざわついたことから、奴はアルス様がこちらにいる可能性を見つけ出したようです。……ですが、すぐには動かないはずです」
「……なぜだ?」
「追撃を行っていたオルデンの猟犬どもが、中途半端に捜索を打ち切りました。私は、奴があえて負傷したあなた様を泳がせていると考えます」
部屋に、重苦しい沈黙が落ちた。
リムやオルグの顔に緊張の色が走る。
だが、アルスは違った。
一瞬の静寂の後、アルスの喉の奥から、突然、笑い声が漏れ出した。
「クク……ハハハッ……!」
「アルス様……?」
リムが、何事かと不思議そうに見つめる。
「やってくれるな、オルデン。……俺を生かして、東方全体を狙うか」
アルスは黒い瞳の奥に、かつてないほど濃密な殺意を宿らせた。
「だがな、侯爵。奴が俺を逃がして、東方を警戒しているということは……裏を返せば、こちらの動き次第でいくらでも裏をかけるということだ」
「アルスよ」
部屋の影から一歩踏み出し、声をかけたのはオルグだった。
「東方の森林に潜むファウナス三千、そしてブラントン家の兵がある。正面からぶつかれば潰されるが……奇襲なら、勝機もあるかもしれんぞ?」
「焦るな、オルグ」
アルスは痛む右手を掲げ、静かに制した。
「今すぐ動けば、奴らの警戒網にかかるだけだ。オルデンが王都を固め、こちらの出方を窺っている今こそが、こちらの準備期間となる。奴が完全にこちらに目を向ける前に、仕かける」
アルスは傍らに立つリムを見上げた。
リムは静かに頷き、その小さな手でアルスの手を強く握り返した。
「私は……アルス様の足となり、刃となります。どのようなことがあろうとも……」
「あぁ……」
アルスはリムの手を握り返し、痛みに耐えながらもゆっくりと上体を起こした。
「準備を始めろ、ブラントン。オルデンの警戒の網を潜り抜け、今度は俺たちが先手をとる」
「御意……! 東方軍、並びにブラントン家のすべて、あなた様の反撃のために捧げましょう!」
ブラントン侯爵が力強く、そして焦燥を秘めた面持ちで深く頭を垂れる。
王都のルクレツィアが勝利の酒に酔いしれ、オルデンが東方を狙っている陰で——。
アルスは、密かに策謀を巡らし始めた。




