19.熾火
朝の光が、破れた木壁の隙間から細い線となって差し込んでいた。
夜半に降り続いていた雨はいつの間にか上がり、山小屋の屋根を不規則に叩く嫌な音は止んでいた。
だが、外の静けさとは裏腹に、小屋の内部は昨夜の激しい営みの余熱と、拭い去れぬ重苦しい血の臭いに満ちていた。
湿った土と濡れた床板の匂いが鼻腔を突き、過酷な現実を容赦なく告げている。板張りの床の上、アルスはゆっくりと瞼を開けた。
「っ……」
右太腿に走る激痛が、まどろみかけた意識を強引に現実へと引き戻す。
応急処置を施した傷口は熱を持ち、心臓の鼓動に合わせるように鈍く疼く。
右肩の関節も、脱臼を無理やり嵌め直した箇所が赤く腫れ上がり熱を持っている。まともに力など入るはずもなかった。
「……アルス様」
耳元で、かすれながらも芯のある声がした。
アルスの腕の中で、リムが静かに上体を起こした。
雨に濡れて額や頬に張り付いていた栗色の髪は乾き始めていたが、昨夜、感情を爆発させて泣き明かしたその瞳の縁は、痛々しく赤く腫れている。
彼女は、己の素肌を隠そうともしなかった。破れた服の隙間から覗く白い肌には、アルスが昨夜、絶望の淵で縋りつくように強く抱きしめた痕が、生々しく残っている。
かつての彼女にあった「従者としての遠慮」や「控えめな躊躇い」は、もうそこには微塵もなかった。
絶望の底で主人の冷えた身体を抱きしめ、すべてを差し出した少女の瞳には、静かで、狂おしいほどに深い覚悟の光が宿っていた。
それは、命を投げ出してアルスを支えたリリィのそれとは違う。
もっと生々しく、泥臭く、しかし何者にも揺るがない「共に生きる」という強い決意の光だった。
「お身体は……いかがですか」
「……動けん」
アルスは短く答え、自嘲気味に息を吐いた。
「右足はしばらく使い物にならん。腕も、弓を引くことすらままならない有様だ。……無様だな。王都の頂に立つはずだった男が、女の温もりにすがってかろうじて生を繋ぎ止めている」
「そんなこと、言わないでください」
リムは、痛々しく血の滲む小さな手で、アルスの頬をそっと包み込んだ。手のひらは硬く擦り切れ、手綱を握り締め続けた皮が剥がれて生々しく赤りむけている。
だが、その手のひらから伝わってくる体温は、冷え切ったアルスの心に染み入るように温かかった。
「私は……どれほど無様でも、どれほど泥をすすることになろうとも、貴方が生きていてくださる。私にとっては、それがすべてです。……貴方が歩けないなら、私が貴方の足になります。貴方が剣を握れないなら、私が貴方の刃となります」
リムは言葉を続けながら、アルスの唇に愛おしそうに己の唇を重ねた。昨夜の嵐のような激情とは異なる、静かだが重々しい、決して解けることのない誓いの口づけだった。
アルスは静かに目を閉じ、その温もりを受け入れた後、ゆっくりと息を吐き出した。
胸の奥底にくすぶっていた不快な虚無感が、リムの熱によって徐々に塗り潰されていく。
失ったものはあまりにも大きすぎた。
自分を慕い、己の意志ですべてを捧げたリリィを、自らの手で射殺さなければならなかった。
裏切り者の汚名を着せられ、逃げ場のない処刑台で命を散らしたウルガノスの戦士たち。彼らの最期の咆哮が、今も耳の奥でこびりついて離れない。
そして――あの男の顔が脳裏によみがえる。
宰相オルデン。
ルクレツィアという浅はかな女の陰で盤面を静かに、そして冷酷に支配していた、あの銀縁の眼鏡をかけた怪物。
策をすべて先読みし、二重の罠でこちらの命運を完膚なきまでに叩き折った男。
あの、すべてを達観したような、退屈そうな眼光が腹の底を逆なでる。
喉の奥から、乾いた笑い声が漏れ出した。
敗北の味は、血と泥の味がした。だが、不思議と心はかつてないほどに凪いでいた。
恐怖も焦燥もない。ただ、思考と理性が研ぎ澄まされていくのがわかる。
「……そうだ。俺は負けたのだ、リム」
アルスはリムの傷だらけの手をしっかりと握り返し、強い力で引き寄せた。黒い瞳の奥に、かつてない不気味な光が灯る。
「積み上げた策も、見せかけの優位も、すべてあいつの前では粉砕された。……だが、あの男にも一つだけ、致命的な計算違いがある」
「計算違い、ですか……?」
「ああ。俺が、まだ生きていることだ」
唇をかすかに震わせたその声に、感情の色は一切なかった。
「……どこへ向かわれますか」
「東だ。ブラントン侯爵の元へ向かう」
王都では今頃、ルクレツィアとオルデンが勝利の美酒に酔いしれ、胸をなで下ろしているはずだ。
東方のブラントン侯爵のもとにも、アルス消息不明、あるいは死亡の報が届いている頃だろう。
「侯爵は老獪だ。俺が確実に死んだという確証を得るまでは、軽率に動かん。……だが、裏を返せば、やつらはその間に力づくで東方の軍勢を掌握しようとするはずだ。王都の目がこちらから逸れ、やつらが勝利に油断したその瞬間こそが、最後の反撃の機会となる」
「わかりました。すぐに出発の準備を――」
リムが床から立ち上がり、外へ向かおうとした、その瞬間のことだった。
「……待て、リム」
アルスはリムを制し、自らの右太腿の傷を押さえながら床に手をついた。
足を引きずらなければ歩けないこの満身創痍の体では、外の様子を確かめるのも一苦労だ。だが、昨夜の死線を共に駆け抜け、命を賭して自分たちをここまで運んでくれた相棒の無事が気にかかった。
「まずはヴェルトの様子を確認しておかねばならん。あいつが無事でなければ、この森を抜けることもできんからな」
アルスは苦悶の表情を押し殺し、折れた木片を杖代わりにしながら、きしむ木の扉を押し開けて外の空気に身をさらした。
霧立ち込める朝の森。
崩れた軒下にうずくまっていたのは、見覚えのある巨大な白馬――ヴェルトだった。
その毛並みは昨夜の泥と雨で汚れ、痛々しい傷痕も残っているが、主人の姿を認めた濡れた鼻孔からは、力強い白い湯気が噴き出している。
「……よく走ってくれたな、ヴェルト」
アルスは安堵の息を漏らし、痛む足をひきずりながらヴェルトの首筋へそっと手を伸ばした。
だが、その直後だった。
ヴェルトが突然、耳をピクリと逆立て、鼻を鳴らしながら後ずさったのだ。
草木をかすめる微かな摩擦音。
ヴェルトの瞳が見据えているのは、目の前の主人ではない。その背後の、深い森のさらに奥――朝靄立ちこめる陽光の届かない木の陰だった。
湿った草木を乱暴に掻き分け、足音が近づいてくる。
雨上がりのぬかるみを踏みしめる重い足音。一歩、また一歩と、何者かがこの山小屋へと確実に近づいてきていた。
追手か、それともただの野盗か。
あるいは、王都の猟犬どもが嗅ぎつけたのか。
小屋の中から弓を引き寄せて飛び出してきたリムが、アルスを庇うようにして矢先を森の奥へと向ける。
「アルス様……っ!」
見えない気配が、彼らに忍び寄っていた。




