18.残滓
王都の悲鳴と惨劇の怒号が遥か遠くに去り、湿った深い森の奥深くに建つ荒れ果てた山小屋へ逃げ込んだのは、月すら分厚い暗雲に覆い隠された深夜のことだった。
天から叩きつけられる容赦のない豪雨が視界を奪い、鋭い水滴が刺すような冷たさで肌を打つ。
二人はただひたすらに馬を走らせ、追手の気配に怯えながら森の中を逃げ延びてきたのだった。
アルスとリムを乗せ、包囲網を限界を超えて駆け抜けたヴェルトは、山小屋の崩れた軒下に辿り着くと同時に、まるで糸が切れたように膝から崩れ落ちた。
雨に塗れた鼻孔から真っ白な湯気を吹き出し、激しい荒い息を吐き出す。主人を死地から連れ出した体躯は熱気を放ち、立ち上がる余力すら残されていない。
だが、激しく脈打つ巨体からはなおも力強い生命の鼓動が打ち寄せており、その瞳は消えることのない強い生命力を宿していた。
歪んだ木造の屋根を、大粒の雨が不規則に叩き続けている。隙間風が吹き抜ける小屋の中に立ち込めていたのは、湿気とカビの匂い、そして二人から嫌というほど匂い立つ生々しい血の気配だった。
アルスは足の激痛に顔を歪め、倒れ込むようにして冷たい板張りの床へ背を預け、途切れ途切れの荒い息を吐き出していた。
脈打つたびに、右太腿を貫いた矢の傷口から鋭い痛みが走り、体の芯から嫌な汗が絶え間なく吹き出していく。
だが、肉体の損傷以上にアルスの身体の奥底を黒く蝕んでいたのは、今なお指先に手応えとして残る、あの感触だった。
指先を解き放った瞬間に手に残る、弦の鈍い跳ね返り。
描いた軌跡の通り、寸分の狂いもなくリリィの胸を貫いた白刃の一矢。
弾け飛んだ鮮血と……死の直前に彼女が見せた、狂おしいほどに平穏な笑み。
脳裏に焼き付いた残像が反芻されるたび、胸の奥がみじめな敗北感に塗りつぶされていく。
リリィはすべてを分かっていたのだ。
自分が王宮へ戻れば、死へと送られることを。
それでも彼女が自ら死地へ飛び込んだのは、己の命と引き換えにルクレツィアの注意を引きつけ、アルスに敵の隙を作り出すため――他でもない、どこまでもアルスの勝利のためだけに行動を起こしていたのだ。
ルクレツィアの道具として生きることを拒み、アルスという一人の男にすべてを捧げることを選んだ彼女の思い。
それはあまりにも一途で、どこまでも純粋な、狂気すらはらんだ本物の献身だった。
殺すことでしか救い出せなかった己の無力。
自分を信じた女の命を自分の手で刈り取った。
その残酷な事実が、アルスの魂をどこまでも苛み、深く切り刻んでいく。
「アルス様……! 駄目です、動かないで……! 今、傷を固く縛りますから……っ!」
湿った床の上に膝をついたリムは、なりふり構わず手持ちの薬草をすり潰して傷口へ塗り込み、自らの衣服の裾を大きく引き裂いてその布で傷口を強く縛りあげた。
リムの手がアルスの傷口を必死に縛ろうと触れてくるたび、彼女の指先や手の平がひどく濡れているのが伝わってきた。
それは雨水だけではない。激しく手綱を握り締め続けたことで皮が剥け、生々しく血が滲んでいる感触だった。
アルスは、力なく握りしめた己の拳を開いた。
暗闇の中でアルスの脳裏に思い浮かぶのは、処刑台の上から退屈そうに、まるで興が削がれたかのように自分を見下ろしていた、宰相オルデンの視線だった。
「……終わったな」
絞り出すような微かな声が、屋根を叩く不規則な雨音の中に空しく消えていく。
自嘲の笑みが、虚ろな唇から途切れ途切れに漏れ出した。これまで一度たりとも見せたことのない、あまりにも脆く、無力な男の本音だった。
「生き延びたところで、俺に何が残るというのだ。すべてを失った。残ったのは、立ち上がることもかなわない足と、女に助けられ逃げ延びた惨めさだけだ」
その言葉には怒りも悔しさもなく、ただ感情の削ぎ落とされた、虚無な響きだけが残されていた。
「アルス様、お願いです……! そんな風に自分を責めないでください……っ!」
リムが堪えきれずに声を上げ、血と雨に塗れたアルスの胸元へ激しくすがりついた。
「貴方が……貴方が生きていらっしゃる……! 命さえあれば、私にとってはそれだけで……それだけで十分なのです……っ! 他に何も要りません……!」
「俺は負けたんだ、リム。小賢しい知恵で、周囲を駒として扱い……結果がこれだ。……あの処刑台で死んだ者たちと一緒に、ここで息絶えた方がよほどマシだ」
「違います! そんなこと決して言わないでください!」
リムは胸にしがみついたまま、首を激しく横に振った。
「私は……私が一番恐ろしかったのは、貴方を失うことだけです! 策が破れても、世界中を敵に回しても構わない……! どれほど無様だと蔑まれようと、私には関係ありません! お願いです……お願いですから、私を置いて一人で消えてしまわないで……っ!」
すがりついてくる彼女の体温。
すべてが潰え、闇に呑み込まれそうな絶望の淵の中で、唯一、確かにそこに存在している生きている人間の熱。
アルスは震える手を持ち上げると、濡れて冷え切ったリムの髪を強く掴み、その身体を抱き寄せた。
「……リム」
言葉は途切れ、暗闇の中で激しい荒い息だけが交錯した。
アルスは震える手でリムを強引に引き寄せ、その唇を塞いだ。
潰れかけた男が目の前の体温に縋りつく、むき出しの本能。リムもまた逃げ出すことなく、己のすべてを委ねるようにその不躾な抱擁を受け入れる。
重なり合った唇の隙間から、冷たい雨の雫と熱い吐息、そして口内に残る鉄の味が混ざり合って伝い落ちていった。
アルスは右太腿に奔る激痛を殺し、リムの細い身体を押し抱くように強く引き寄せた。雨に濡れて震える身体から伝わる脈動が、掌を通して直接響いてくる。
「私を……私を強く抱きしめてください、アルス様……。貴方が今、ここに生きている証を……私に刻み込んでください……」
リムが囁き、冷え切った腕をアルスの首の後ろへ力任せに回してしがみついてくる。
荒廃した山小屋の中、冷たい板張りの床の上で、二人は泥と血に塗れたまま強く抱き合い続けた。
傷口から吹き出す激痛を塗りつぶすように、アルスは狂おしいほどリムを求め、彼女の背と髪をただ必死に抱きしめる。
暗闇の中で、互いがまだ生きているという熱量だけをたしかめ合っていた。
雨音だけが、絶望の底に沈んだ二人を包み込むように、夜の森にいつまでも響き渡っていた……。




