第7章:帰還、そして英雄へ
「……未来の観測者よ。任務は終わったか?」
「はい。カレウン。……でも」
「でも、必ず戻ってきます! 1941年3月、北大西洋! あなたたちが私を必要とする時、私は必ず、もう一度あの『鋼鉄の棺桶』にダイブします!! だから……それまで、絶対に死なないで!!」
【しおの】
1939年10月17日、午前11時44分。
ヴィルヘルムスハーフェン軍港は、狂乱の坩堝と化していた。
「……眩しい」
U-47のハッチから顔を出したひかりは、思わず目を細め、腕で顔を覆った。
何日も太陽の光を浴びず、赤色灯と薄暗い白熱灯の下だけで生きてきた彼女の網膜にとって、秋の澄み切った青空は物理的な暴力に近かった。しかし、それ以上に彼女の感覚を麻痺させたのは、視界を埋め尽くす圧倒的な「色彩」と「音」だった。
岸壁には、赤地に黒の鉤十字が描かれた巨大な旗が幾重にも垂れ下がり、秋風にはためいている。
軍港を埋め尽くすほどの群衆、整列した海軍兵士たち。そして、第三帝国が誇る壮大な軍楽隊が、力強い金管楽器の音色で『イギリスを撃て(Wir fahren gegen Engeland)』を大音量で奏でていた。
「ウラーーーーッ!! プリーン万歳! U-47万歳!!」
鼓膜を破るような大歓声。岸壁には、潜水艦艦隊司令官(BdU)であるカール・デーニッツ大将その人が、満面の笑みで待ち構えている。さらには、宣伝省が派遣したであろう無数のカメラマンたちが、マグネシウムの閃光をバチバチと瞬かせていた。
大英帝国の象徴である戦艦ロイヤル・オークを、難攻不落の敵陣深くで沈めた。
この奇跡的な大戦果を、宣伝の天才ヨーゼフ・ゲッベルスが見逃すはずがなかった。開戦からわずか一ヶ月あまり、国民の戦意を高揚させるための「絶対的な英雄」を、第三帝国は猛烈に欲していたのだ。
だが、ひかりの心境はひどく冷めていた。
(……何これ。全然落ち着かない)
彼女は根っからの「潜水艦オタク」である。油と汗とディーゼルが混ざり合った狭く汚い閉鎖空間こそが、彼女にとってのロマンの極致であり、至高の戦場だった。一歩外に出れば、そこは狂気に満ちた1939年のナチス・ドイツの現実。眩しい太陽も、政治的なプロパガンダの熱狂も、彼女にとってはただの「ノイズ」でしかなかった。
「おい、魔女。ぼんやりするな。……頭を下げろ」
後ろから低い声が響き、ひかりの頭から、ぶかぶかの分厚い革製Uボート・ジャケット(ペックヒェン)がバサリと被せられた。
声の主は、第一当直士官のエンゲル副長だった。
「副長……?」
「黙ってろ。ゲシュタポ(秘密国家警察)の猟犬どもが嗅ぎ回っている」
エンゲルの視線の先には、熱狂する群衆や海軍将兵とは明らかに異質な、黒い革コートを着た数名の男たちが目を光らせていた。彼らは、出航時にはいなかった「謎の東洋人少女」の存在を不審に思い、目を皿のようにして乗組員たちをチェックしているのだ。
もしひかりが見つかれば、スパイ容疑で即座に連行され、プリンツ・アルブレヒト通り(ゲシュタポ本部)の地下室送りは免れない。
「あのガキは俺の後ろに隠せ! 荷物を持たせろ!」
ミュラー兵曹長が怒鳴り、ひかりに重い工具箱を押し付けた。
装填手のハンスや、他の水兵たちが、さりげなくひかりを円陣で囲み、黒い革コートの男たちの視線から彼女を完全に遮断した。
「カレウン(艦長)、SD(保安部)の連中が乗船名簿の確認を要求しています」
陸上の下士官からの報告に、プリーン艦長はフッと冷たい鼻で笑った。
「断れ。我が艦の乗組員は全員、デーニッツ提督の直々の労いを受けるのが先だ。ゲシュタポのネズミどもに、俺の部下を尋問する権利などない」
プリーンは、その圧倒的な英雄のオーラと冷徹な眼差しで、近づこうとした黒コートの男たちを文字通り「睨み退けた」。スカパ・フローの英雄に、いかなる秘密警察も手出しはできなかった。
ひかりは、分厚いジャケットの襟に顔を埋めながら、周囲の男たちの背中の温かさに胸を熱くした。彼らは、自身の栄光のパレードの最中であっても、命を懸けて自分を庇ってくれているのだ。
* * *
その日の午後、U-47の全乗組員は、アドルフ・ヒトラー総統の専用機であるフォッケウルフFw200『コンドル』に乗せられ、首都ベルリンへと飛び立った。
総統官邸での大々的な表彰式と、それに続く国を挙げての戦勝パレードのためだ。
ひかりは、乗組員たちの「専属の整備助手」という名目で、エンゲル副長が偽造した書類と共に、ちゃっかりと同じ特別機の最後尾の座席に押し込まれていた。
機内は、すでに国から支給された高級なシャンパンとワインで、狂ったような宴会状態になっていた。カビたパンと缶詰めばかりだった男たちは、見たこともないようなご馳走にむしゃぶりつき、窓の外の雲海に向かって歌い叫んでいる。
「……少し、外の空気を吸った方がいいか?」
ドンチャン騒ぎの喧騒から少し離れた席で、プリーン艦長がひかりの隣に腰を下ろした。彼の胸には、まだ授与される前の、誰のものとも知れない一級鉄十字章が仮留めされている。
「いえ……私は、あの潜水艦の中の空気が一番好きでしたから」
ひかりが苦笑いして答えると、プリーンも声を立てて笑った。
「変な娘だ。誰もが憧れるベルリンの華やかなパレードよりも、あのディーゼルとビルジの臭いがいいと言うとはな」
「だって、あそこには嘘がありませんでしたから。生きるか死ぬか、計算と技量だけが全ての世界。……下の世界の熱狂は、作られたものです」
ひかりの言葉に、プリーンの笑みはすっと消え、思索的な色を帯びた。
「その通りだ。プロパガンダ(宣伝)は、所詮まやかしだ。俺は政治家じゃない。海軍の軍人であり、Uボートの艦長だ。俺の居場所も、やはりあそこしかない」
プリーンはポケットをごそごそと探り、小さな金属の塊を取り出した。
それは、金色の真鍮で縁取られ、中央にUボートのシルエットと、ナチスの鷲の紋章が刻まれた重厚なバッジだった。
「Uボート戦闘章(U-Boot-Kriegsabzeichen)……」
ひかりは息を呑んだ。
「俺の予備だ。規定では、二回以上の哨戒任務に出た者か、特別な武勲を立てた者にしか与えられない」
プリーンは、そのバッジをひかりの着ている革ジャケットの胸元に、無造作に、しかし確かな力強さでピン留めした。
「リヒテンシュタインひかり。お前はカーク・サウンドの悪魔の潮流から我が艦を救った。立派な武勲だ。……お前はもう、ただの観測者じゃない。第7潜水隊群、U-47の正式な乗組員だ」
「カレウン……」
ひかりの瞳から、再び大粒の涙が溢れ出した。
2245年のどんな精密なレプリカよりも重く、温かい、本物の勲章。歴史の英雄から直接授けられた、命の証。
「泣くな、魔女。Uボート乗りは、海以外で水(涙)はこぼさないものだ」
プリーンはそう言って、再び喧騒の中へと戻っていった。
* * *
ベルリンでの狂騒は、常軌を逸していた。
総統官邸でヒトラーから直接『柏葉付騎士鉄十字章』を授与されたプリーンと、鉄十字章を胸にした乗組員たちは、そのまま屋根のないベンツのオープンカーに乗せられ、ウンター・デン・リンデン大通りをパレードした。
沿道を埋め尽くす何十万というベルリン市民が、花吹雪を撒き散らし、狂ったように右手を高く掲げて「ジーク・ハイル(勝利万歳)!」と叫び続けている。
ひかりは、パレードの車列には加わらず、宣伝省が彼らのために貸し切った最高級ホテル『カイザーホーフ』の一室から、厚いカーテンの隙間を通してその光景を見下ろしていた。
華やかで、美しく、そしておぞましいほどに統制された第三帝国の狂熱。
人々は、自分たちが熱狂しているその「英雄」たちが、わずか一年半後に大西洋の藻屑となることなど、微塵も想像していない。そして、この熱狂の果てに、祖国ドイツそのものが瓦礫の山と化す未来を知る由もない。
(……私は、知っている。ハンスも、ミュラー兵曹長も、エンゲル副長も、プリーン艦長も。皆、あの冷たい海に沈むことを)
ひかりは、胸元に付けられたUボート戦闘章をきつく握りしめた。
潜水艦オタクとしての知的好奇心は、すでに完全に別の感情へと書き換えられていた。歴史の年表に記されたただの「数字」が、圧倒的な質量と体温を持って彼女の魂に刻み込まれてしまったのだ。
「強制帰還プログラムまで、あと数時間……」
ひかりは、腕時計型のタイムスライディング・デバイスを確認した。
第一回のダイブの限界時間が迫っている。彼女は間もなく、2245年の無菌室のような平和な世界へと強制的に引き戻される。
夜になり、パレードを終えた乗組員たちが、泥酔状態でホテルのスイートルームに帰ってきた。彼らはひかりを見つけると、次々と彼女を抱きしめ、頭を撫で回した。
「ひかり! 最高だったぜ! 女の子たちから花束を山ほどもらった!」
「お嬢ちゃん、俺たちはずっとお前を忘れないぞ!」
彼らの底抜けの笑顔を見るたびに、ひかりの胸は張り裂けそうになった。
「……私も。私も、絶対に忘れない。あなたたちのこと……」
そして、別れの時は唐突に訪れた。
部屋の隅で、ひかりの全身を包み込むように、青白い量子干渉の光が淡く点滅し始めたのだ。
「……おい、ひかり。お前の体が……光って……」
ハンスが、酔いが覚めたような顔で目を丸くした。
他の乗組員たちも、その超常的な光景に言葉を失い、後ずさりする。
「時間です」
ひかりは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、男たちに向かって真っ直ぐに立ち上がった。
「私は、ここから離れます。私の『本当の居場所』へ」
プリーン艦長だけは、微動だにせず、静かにひかりを見つめていた。
「……未来の観測者よ。任務は終わったか?」
「はい。カレウン。……でも」
ひかりの体が、半透明の光の粒子へと分解され始める。
彼女は最後に、ありったけの狂気と、愛と、決意を込めて叫んだ。
「でも、必ず戻ってきます! 1941年3月、北大西洋! あなたたちが私を必要とする時、私は必ず、もう一度あの『鋼鉄の棺桶』にダイブします!! だから……それまで、絶対に死なないで!!」
その言葉が乗組員たちの耳に届いたのかどうか。
強烈な閃光がカイザーホーフの一室を包み込み、次の瞬間、リヒテンシュタインひかりの姿は、ベルリンの熱狂の夜から跡形もなく消え去っていた。
後に残されたのは、彼女がいた場所に落ちていた、数枚の未来の耐水性メモ用紙だけだった。
プリーンはゆっくりとそれを拾い上げ、窓の外の狂騒の街を見下ろしながら、誰に言うともなく呟いた。
「……待っているぞ。俺たちの幸運の魔女」
大勝利の宴と熱狂の陰で、歴史の大きな歯車が、運命の1941年に向けて静かに、そして残酷に回り続けていた。




