第6章:火柱と祝杯
U-47の艦体を激しく打ち据えていた波の質が、明確に変わった。
オークニー諸島特有の、底から巻き上げるような複雑で暴力的な海流から、北海の深く重厚なうねりへと変わったのだ。それはすなわち、イギリス海軍の絶対的聖域であるスカパ・フロー泊地からの、完全なる脱出を意味していた。
午前四時。
水平線の彼方が、白み始めようとしている。しかし、背後の空はいまだに異常な赤色に染まっていた。大英帝国の誇る巨大戦艦ロイヤル・オークが吹き上げた、何千トンもの重油と火薬が燃え盛る地獄の業火が、数十キロ離れた海上にまでその不気味な残照を投げかけているのだ。
「……急速潜航! 深度五〇」
艦橋から発令所に降り立ったギュンター・プリーン艦長が、静かに、しかし威厳に満ちた声で命じた。
もはや水上を逃げ回る必要はない。彼らは安全な深海という、潜水艦本来の「揺り籠」へと帰るのだ。
メインベントが開かれ、高圧の空気が海水を吸い込む豪快な音が響く。U-47は、誇り高き狼から、海深く潜む静かなる狩人へと戻り、朝の光とイギリス軍の哨戒機から完全に姿を隠した。
電動機の穏やかな回転音が、艦内に一定のリズムを刻み始める。
発令所の赤色灯が消え、通常の白色灯が点灯した。
プリーンは、海図台に両手をつき、ぐるりと周囲の乗組員たちを見渡した。
油と汗と、そして極度の恐怖によって泥のように汚れ、窪んだ目をしている部下たち。しかし、その瞳の奥には、信じられないほどの熱が燻っていた。
「諸君」
プリーンの低く響く声が、鋼鉄の筒の中に落ちた。
「我々は成し遂げた。歴史上、何人たりとも破れなかったスカパ・フローの城門をこじ開け、敵の主力戦艦を沈め、そして……」
彼はそこで言葉を切り、わずかに口角を上げた。
「誰一人欠けることなく、この海へ帰ってきた。完全なる勝利だ」
その瞬間。
耐圧殻が内側から弾け飛ぶのではないかと思うほどの、爆発的な歓声が沸き上がった。
「ウラーーーーーッ!!」
「やったぞ! 俺たちはやったんだ!!」
「カレウン万歳! クリークスマリーネ(ドイツ海軍)万歳!!」
それは、軍隊の整然とした万歳三唱などではなかった。極限の死地を生き抜いたオスたちの、生の咆哮だった。
装填手のハンスが、ミュラー兵曹長に泣きながらしがみつき、厳格なエンゲル副長でさえ、シュパール航海長と固く握手を交わし、その肩をバンバンと叩いている。
階級も、年齢も関係ない。ただ、同じ鋼鉄の棺桶で地獄の淵を覗き込み、共に生還したという血よりも濃い連帯感だけがそこにあった。
「道を開けろ! 英雄たちに最高の褒美を持ってきたぞ!!」
前部兵員室の方から、白いエプロンを真っ黒に汚した調理長が、両手に巨大な木箱を抱えて現れた。
「出航前から、この日のために隠し持っていたんだ! 見ろ!」
彼が木箱の蓋を蹴り開けると、中には氷で冷やされた数十本の「ベックス・ビール」の瓶と、立派な布に包まれた最高級のサラミ、そして新鮮なまま(おそらく機関室の冷所で死守していたのだろう)のリンゴが山のように積まれていた。
本来、航海中のUボート内での飲酒は厳格に禁止されている。しかし、今日ばかりは特別中の特別だった。
「スムッチェ、お前最高だ!!」
「ビールだ! 本物のビールだぞ!!」
プリーン艦長も、今日ばかりはこの規律違反を咎めることはしなかった。自らビールの栓を抜き、高々と掲げる。
「我らが幸運の魔女、ひかりに! そして、U-47の勇敢なる乗組員たちに……乾杯!」
「「「プロースト!!」」」
瓶と瓶がぶつかり合う鈍い音が、艦内のあちこちで響き渡る。
ひかりの手にも、よく冷えたビール瓶が押し付けられた。
「飲めよ、ひかり! お前の未来の知識と、あのイカれた操艦の助言がなけりゃ、俺たちは座礁してイギリスの砲弾の餌食だった!」
ハンスが、顔を真っ赤にしてひかりの背中を叩く。
「すごいぜお嬢ちゃん。最初はただの頭のおかしい密航者かと思ったが、あんたは正真正銘、俺たちの勝利の女神だ!」
ミュラー兵曹長も、歯を剥き出して笑っている。
「ありがとう……ハンス、ミュラー兵曹長。本当に、素晴らしい雷撃だった」
ひかりは、渡されたビールに口をつけた。
冷たい麦酒が、ディーゼルと油でいがらっぽくなった喉を爽やかに洗い流していく。不衛生で劣悪な艦内。男たちの強烈な体臭。しかし、この瞬間のビールの味は、2245年のどんな高級な合成飲料よりも、鮮烈に生命の味がした。
だが――。
ひかりは、男たちの歓声の中心にいながら、自分の心が奇妙なほど冷えていくのを感じていた。
笑顔を取り繕いながら、彼女の視線は、無邪気に喜ぶハンスの顔を、ミュラー兵曹長の太い腕を、そして、誇らしげに葉巻をくゆらせるプリーン艦長の横顔をなぞっていく。
(……この人たちは、死ぬ)
未来から来た彼女だけが持つ、絶対的で冷酷な事実。
1939年10月。彼らは今、人生の、そして歴史の絶頂にいる。ベルリンに帰還すれば、プリーンは総統から直接、騎士鉄十字章を授与され、乗組員全員も二級鉄十字章を与えられ、国民的英雄として熱狂的なパレードで迎えられるだろう。
しかし、その栄光はあまりにも短い。
この歴史的勝利からわずか一年半後。1941年3月7日。
U-47は、北大西洋の荒波の中、駆逐艦ウォルヴァリンの爆雷攻撃を受け、誰一人として生還することなく、広大な海の底へと消え去るのだ。
今、目の前で恋人のマリアにプロポーズすると笑っているハンスも。
小言を言いながら最高の飯を作ってくれる調理長も。
そして、無敵のカリスマで彼らを率いるギュンター・プリーンも。
全員が、あの冷たく暗い水圧の中で、押し潰されて死ぬ。
(なんて、残酷なんだろう)
ひかりは、胸を締め付けるような悲寥感に襲われた。
この大勝利が完璧であればあるほど。彼らの手腕が見事であればあるほど。この宴が温かく、連帯感に満ちていればいるほど。
その背後に口を開けて待つ「絶対的な死」の影が、巨大な絶望となってひかりの心を押し潰そうとしてくる。
彼女は、古の英雄たちが命を散らす前に挙げた、最後の宴の物語を思い起こしていた。
天下を夢見て散っていった漢たちの鎮魂歌。今、自分の目の前で繰り広げられているこの狂騒もまた、歴史という名の無慈悲な書物に記される前の、美しくも儚い「終わりの始まり」なのだ。
ひかりの瞳から、すっと一筋の涙がこぼれ落ちた。
油で汚れた頬を伝うその雫に、誰よりも早く気付いたのは、プリーン艦長だった。
彼は群がる部下たちを軽く手で制し、ひかりの隣へと歩み寄ってきた。
「……どうした、魔女。ビールが苦かったか?」
プリーンの声は、戦闘中の冷徹な響きとは裏腹に、驚くほど優しかった。
ひかりは慌てて涙を拭い、首を横に振った。
「いいえ。……ただ、あまりにも美しい勝利だったから。皆さんが、本当にかっこよかったから……」
嘘ではなかった。だが、本当の理由でもない。
プリーンは、ひかりの言葉の裏にある「何か」を、その鋭い洞察力で感じ取ったようだった。彼は葉巻の煙を細く吐き出し、深く嘆息した。
「泣くことはない。我々は勝ったのだ」
プリーンは、ひかりの頭にポンと大きな手を置いた。
「お前が未来で、我々U-47の戦いをどう読んだのかは知らない。……だが、俺たちは今、ここに生きている。この手で舵を握り、この目で敵を沈めた。歴史の書物には書かれない『今』を、俺たちは確かに生き抜いているんだ」
その言葉は、ひかりの心に深く突き刺さった。
彼は、自分たちがいつか歴史の敗者となり、海に散る運命であることを、どこかで悟っているのかもしれない。潜水艦乗り(U-Boot-Fahrer)とは、常に出航のたびに死神とダイスを振る仕事なのだ。
だからこそ、彼らはこの「刹那の栄光」を、命の限り燃やし尽くして祝うのだ。
「……はい。カレウン」
ひかりは、プリーンの目を見て、今度こそ心からの笑顔を作った。
「私は、絶対に忘れません。皆さんがこのスカパ・フローで成し遂げたこと。このビールの味。この艦の匂いを」
ひかりは心の中で、強固な決意を固めていた。
(私は、ただの観測者では終わらない。1941年3月7日。あなたたちが歴史から消え去るその日、私は必ずもう一度この艦(U-47)に戻ってくる。そして――)
その先の未来をどうするかは、まだ分からない。歴史の修正は最大のタブーだ。
だが、この愛すべき、気高き海の男たちを、ただ黙って海の藻屑にさせることなど、もはや彼女の魂が許さなかった。
「よし、飲むぞ! 今日は誰かがぶっ倒れるまで無礼講だ!」
ミュラー兵曹長の声が響き、アコーディオンの陽気な調べが発令所に流れ始めた。
男たちの荒々しくもどこか哀愁を帯びた合唱が、鋼鉄の棺桶を満たしていく。
ひかりは、その輪の中に再び身を投じた。
いつか訪れる終焉の時まで。今はただ、この狂おしいほど熱い生命の輝きを、網膜に、そして魂の底に焼き付けるために。
U-47は、歓声と歌声を乗せたまま、深い海の底を祖国ドイツへと向かって静かに進んでいった。




