表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鋼鉄の棺、異空の咆哮ーU-47:消失の真実ー  作者: 光闇居士


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/12

第8章:エニグマの鍵と時空の道標

挿絵(By みてみん)

『……100%。コーディング完了。回路定着』


【しおの】

スカパ・フローの業火を背に、U-47がヴィルヘルムスハーフェン軍港への帰途についていた1939年10月16日の深夜。


祝勝の熱狂に沸く乗組員たちが、配給されたビールと過度の緊張の反動で深い眠りに落ちている中、リヒテンシュタインひかりは一人、音を立てずに薄暗い通路を滑るように移動していた。

目的地は、発令所ツェントラーレの右舷前方に位置する、わずか一畳半ほどの極小空間――通信室フンカー・ラウムである。

当直の通信士は、艦橋での見張りに駆り出されるか、あるいは疲労で海図台の横で突っ伏しているはずだ。今この瞬間だけが、艦の心臓部にして最高機密に触れる唯一の好機だった。


「……よかった。誰もいない」


ひかりは油と汗で汚れた手で、通信室の折り畳み式ドアを静かに閉め、内側からカンヌキを下ろした。

赤色灯の不気味な光に照らし出された狭い机の上には、大型の短波受信機と、そして厳重な鍵のかかった白木造りの頑丈な木箱が鎮座していた。


『Kriegsmarine(ドイツ海軍)』の鷲の紋章が刻印されたその箱の中身こそが、連合軍を絶望の淵に叩き落とし、第二次世界大戦の帰趨を左右した悪魔の暗号機――海軍型エニグマ(Enigma-M3)である。

ひかりの胸の奥で、歴史の深淵に触れることへの畏れと、オタクとしての圧倒的な知的好奇心がせめぎ合う。

しかし、彼女の目的は単なる「見学」ではなかった。

自身の左手首に巻かれた、時代錯誤なキャンバス地のカバーで偽装した2245年のデバイス(タイム・コンパス)のディスプレイには、赤い警告文字が点滅を続けている。


『警告:時空連続体タイムラインの微細な分岐ダイバージェンスを検知。帰還プログラム実行まで残り32時間』


ひかりの存在そのものが、この歴史に落とした一滴の波紋。

彼女がカーク・サウンドの反転流でプリーンに助言を与えたことで、U-47の航跡は史実から数センチ、数秒だけズレた。その微細なズレ(バタフライ・エフェクト)が積もり積もれば、一年半後、1941年3月7日にU-47が「消失」する正確な時空座標タイム・ポイントが予測不能な闇の中へとズレ込んでしまう危険性があった。


「私が1941年に戻ってくるためには、この艦がその時、どこで、どの座標にいるのかを『未来の私』に正確に送信するビーコン(道標)が必要不可欠……。そのための仕掛けを、歴史のノイズに紛れて残せるのは、この艦で最も複雑な『暗号機』の中だけ」


ひかりは息を殺し、ヘアピンを使って木箱の南京錠を鮮やかに解錠した。

重い蓋を持ち上げると、機械油と微かなオゾンの匂いが鼻腔を突く。

タイプライターに似た26個のキーボード。その上部には、同じく26個のアルファベットが刻まれたランプボード(電球盤)。そして最上部には、エニグマの心臓部である三枚の真鍮製ローター(ヴァルツェン)と、反射板ウムケーアヴァルツェが鈍い光を放っている。

ひかりは、エニグマの前面にあるプラグボード(シュテッカーブレット)の配線ケーブルにそっと触れた。

キーボードの「A」を押すと、電流はプラグボードを経由して複雑に入れ替わり、右のローター、中央のローター、左のローターを通過して反射板に当たり、再び三つのローターを逆行して、ランプボードの全く別の文字――例えば「X」を点灯させる。キーを一回押すごとに一番右のローターが一つ回転し、内部の電気回路は一文字ごとに完全に切り替わる。その組み合わせは、実に1垓5896京通り。当時の数学力では絶対に解読不可能な、完璧な暗号生成機だった。


「ごめんね、少しだけ弄らせてもらうわよ」


ひかりは、デバイスから極細の量子ワイヤーを引き出し、それをエニグマの中央ローターの軸受け(スピンドル)と、電源であるバッテリーボックスの間に接続した。

彼女がやろうとしているのは、歴史を変えることではない。未来の解読アルゴリズムを仕込むことでもない。

エニグマが暗号を生成する際、キーを押すたびに発生するごく微小な電磁波のスパイクを、特定の「乱数パターン」に変換して空間に放出させる物理的なハッキングだ。

1939年や1941年の無線傍受技術では、それは単なる「真空管のノイズ」にしか聞こえない。しかし、2245年のタイムスライディング社の量子レーダーから見れば、広大な北大西洋の海上で一隻のUボートだけが発する、強烈な「時空の道標」となる。

1941年3月7日、プリーンがこのエニグマで最後の打電を行った瞬間、そのノイズが次元の壁を越えて未来のひかりを「正確な死地」へと導くのだ。


「デバイス同調。……量子コーディング、開始」


ひかりの指先が、目にも止まらぬ速さで仮想キーボードを叩く。エニグマの内部回路に、未来のプログラムが物理的なナノカーボン回路として焼き付けられていく。

その時だった。


――カツン。


通信室の外、狭い通路の鉄板リッフェルブレヒを叩く硬い軍靴の音が響いた。

ひかりの全身の血が凍りつく。

足音は一つ。規則正しく、そして明らかにこの通信室へ向かってきている。当直の通信士ではない。この足音の重さと、躊躇いのない歩幅は――エンゲル副長(I WO)だ。


「嘘でしょ……このタイミングで……!」


『コーディング進捗:78%……85%……』


デバイスの画面が非情な数字を刻む。抜けば、中途半端に焼き付いた回路がショートし、エニグマ自体を破壊してしまう。暗号機を破壊したとなれば、ひかりは問答無用でスパイとして銃殺だ。


ガチャッ。

ドアのノブが回された。内側からカンヌキがかかっていることに気づき、外の気配がピタリと止まる。


「……誰だ。通信室にいるのは誰だ」


エンゲルの低く、猜疑心に満ちた声がドア越しに響いた。

ひかりは息を止め、エニグマの木箱の影に身を縮めた。心臓の音が、まるで爆雷のように自身の耳に轟く。


「当直のシュミットか? なぜ鍵をかけている。開けろ」


ドンドンッ! と、鉄のドアが乱暴に叩かれる。


『コーディング進捗:95%……98%……』


「開けないなら、艦長権限で叩き壊すぞ。……まさか、あの魔女か?」


チャカッ、と、ホルスターからルガーP08が引き抜かれる金属音が、はっきりと聞こえた。エンゲルは最初からひかりをスパイだと疑っている。もしここでエニグマに細工をしているところを見られれば、プリーン艦長の庇護があろうと言い逃れはできない。


『……100%。コーディング完了。回路定着』


緑色のサインが点灯した瞬間、ひかりは音を立てずに量子ワイヤーを引き抜き、エニグマの蓋を静かに、だが素早く閉めた。

南京錠のフックを引っ掛け、カチリと押し込む。

その直後、ついにエンゲルがドアに体当たりを食らわせ、古びたカンヌキが悲鳴を上げてひしゃげた。


「動くなッ!!」


銃口を突きつけて飛び込んできたエンゲルの目に映ったのは――。


「……あ、副長。こんばんは」


机の下から這い出してきて、のん気に片手を挙げるひかりの姿だった。

エンゲルの視線が、ひかりと、その背後にあるエニグマの木箱、そして通信機材の間を鋭く往復する。


「貴様……ここで何をしている。機密機器に触れたのか!?」


「触ってませんよ。見てください、南京錠はかかったままです」


ひかりは冷静を装い、両手を広げて見せた。南京錠に傷一つないことを確認し、エンゲルの銃口がわずかに下がる。


「ならば、なぜこんな夜更けに通信室に忍び込み、鍵までかけた。答え次第ではこの場で撃つぞ」


極限のサスペンス。しかし、ひかりは2245年の歴史アーカイブから、当時のUボート乗組員たちの「心理的な隙」を熟知していた。

彼女は、わざと頬を赤らめ、もじもじと身をよじって見せた。


「あの……その。お恥ずかしい話なんですけど」


「なんだ、言え」


「艦内のトイレが……二つあるうちの前部のトイレは食料庫になってて使えないじゃないですか。後部のトイレは機関室のすぐ横で、男の人たちがウロウロしてて……その、用を足しづらくて」


ひかりは、持っていた耐水性のメモ帳の切れ端を、まるでお尻を拭く紙のように握りしめて見せた。


「ここは艦内で一番死角になるし……誰も来ないと思ったので、その……『お花摘み』の代わりに、空のバケツをちょっと拝借しようかと……」


エンゲル副長の顔から、一瞬にして殺気が抜け落ち、代わりに強烈な「気まずさ」と「困惑」が広がった。

1930年代のドイツ海軍の厳格な将校にとって、若い女性の切実な排泄問題など、最も対応に困る事態である。いくら軍規に厳格でも、トイレを我慢してバケツを抱える少女に銃を突きつけるほど、彼は非情な機械ではなかった。


「……っ! き、貴様、軍艦の中枢たる通信室をなんだと思っている!!」


エンゲルは耳まで真っ赤にして怒鳴り散らしたが、その手はすでにルガーをホルスターに収めていた。


「す、すみません! もう我慢しますから!」


「とっとと出て行け! 次あんな真似をしたら、海に放り込むぞ!」


ひかりは何度も頭を下げながら、通信室を逃げ出した。

通路の角を曲がり、士官室の影に隠れた瞬間、彼女は大きく息を吐き出し、へたり込んだ。

全身が冷や汗でぐっしょりと濡れている。心拍数はレッドゾーンを振り切っていた。


「……危なかった。心臓が口から飛び出るかと思った……」


ひかりは震える手で、ポケットに突っ込んだメモ帳の切れ端を握りしめた。

エンゲルには「トイレの紙」だと誤魔化したそのメモ。実は、万が一エニグマへの物理ハッキングが失敗した時のための、バックアップの算段だった。

そこには、2245年の解析技術で導き出された、1941年3月におけるイギリス海軍の最新の対潜戦術(ASDICの死角パラメータ)と、ある「暗号解読のヒント」が、当時のドイツ海軍の符丁を使って記されていた。


(これも、どこかに隠しておかないと……カレウン(プリーン)だけが、絶望の淵で気づくような場所に)


ひかりは、この歴史的大勝利の直後という「最も歓喜に満ちた瞬間」に、一人だけ冷酷な未来の死神と対峙していた。

エニグマに仕掛けた時空の道標ビーコン

そして、これから隠す未来からのメッセージ。

これらはすべて、1941年3月7日――U-47が圧倒的なイギリス海軍の爆雷攻撃によって耐圧殻を砕かれ、絶体絶命の窮地に陥るその瞬間に、彼女が再び時空を切り裂いて舞い降りるための「鍵」となる。


ベルリンでの熱狂的なパレードが目前に迫る中。

鋼鉄の棺桶の深部で、未来の少女が仕掛けたシステム的な「特異点」は、誰にも知られることなく、静かに時限爆弾の針を進め始めたのである。


すべては、伝説の群狼を、歴史という名の確定された死から「異空」へと引きずり込むために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ