第9章:第1回ダイブの限界と、騎士との誓い
1939年10月17日、午後。
ベルリンの中心部、ウンター・デン・リンデン大通りは、数十万の市民が打ち振るう鉤十字の旗と、狂おしいまでの歓声に揺れていた。
第三帝国が総力を挙げて演出する、スカパ・フローの英雄たちの凱旋パレード。その熱狂の中心へ向かう直前、最高級ホテル『カイザーホーフ』の一室には、外の喧騒が嘘のような静寂が落ちていた。
「……信じられないほど、重いな」
ギュンター・プリーン艦長は、姿見の前で自身の首元に触れた。
数時間前、総統官邸でアドルフ・ヒトラーから直接授与されたばかりの『騎士鉄十字章』。黒と白、そして赤のリボンで吊るされたその勲章は、ドイツ軍人にとって至高の栄誉であり、同時に、これからの激しい戦いを運命づける重い十字架でもあった。
彼の背後、重厚なベルベットのソファに深々と腰を下ろしているリヒテンシュタインひかりの左手首では、キャンバス地で隠されたデバイスが、不吉な赤い明滅を繰り返していた。
『強制帰還シークエンス開始まで、残り三〇〇秒――』
タイムスライディングの限界時間が、無情にも秒読みに入っていた。
ひかりは、自身の身体の輪郭が、微かに青白い光の粒子を帯びてブレ始めていることに気づいていた。次元の強制力が、異物である彼女を1939年の世界から弾き出そうとしているのだ。
「カレウン」
ひかりは、震える声でプリーンの背中に呼びかけた。
振り返ったプリーンの青灰色の瞳には、これからパレードで大衆の熱狂を浴びる男の昂ぶりは微塵もなかった。ただ、一人の気高き海の戦士としての静かな凪があった。
「どうした、魔女。いよいよお別れの時間か」
プリーンは、ひかりの身体を包み始めている超常的な光を見ても、決して取り乱すことはなかった。彼にとって彼女は、すでに論理を超越した戦場の守護精霊のような存在になっていたのだ。
「……はい。もうすぐ、私は私の時代へ引き戻されます。でも、その前に……どうしても、あなたに伝えておかなければならないことがあります」
ひかりは立ち上がり、プリーンの前へと進み出た。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打っている。言ってはいけない。歴史を変えるような致命的な情報は、タイムスライディングの最大の禁忌だ。
だが、あのディーゼル油の悪臭の中で、共にカビたパンをかじり、爆雷の恐怖に震え、そして勝利の美酒を分かち合ったこの男を、どうして黙って死地へ送れようか。
「カレウン、聞いてください。一年半後……1941年の3月、あなたたちは北大西洋で、イギリス軍の駆逐艦『ウォルヴァリン』と遭遇します。その時……」
「ひかり」
プリーンの大きく、温かい手が、ひかりの小さな両肩を包み込んだ。
それ以上の言葉を紡ごうとしたひかりの唇は、彼が発した静かで、しかし絶対的な威厳を持つ響きによって塞がれてしまった。
「それ以上は、言うな」
「でも……っ! 言わなきゃ、あなたたちは……あの冷たい海の底で……!」
「言うなと言っている」
プリーンは、ひかりの悲痛な叫びを、限りなく優しい微笑みで受け止めた。
「海軍の兵士にとって、自分の最期の港がどこにあるかを知ることは、決して幸福なことではないんだよ。ひかり」
「そんな……だって、知っていれば、避けられるかもしれないじゃないですか! ルートを変えて、出撃の時期をずらせば……ハンスも、ミュラー兵曹長も、エンゲル副長も、あなたも! 死なずに済むのに!」
ひかりの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
オタクとしての傍観者の仮面は完全に剥がれ落ちていた。彼女はただ、愛する戦友達の命を救いたいと願う、一人の少女として泣きじゃくった。
プリーンは、ひかりの涙を指ですっと拭い、窓の外を見た。
「外の歓声が聞こえるか。彼らは俺たちを不死身の英雄だと信じている。だが、俺たちは神ではない。薄い鋼鉄の殻一枚隔てた先にある死と、常に向き合っているただの人間だ」
彼は再びひかりに向き直り、その目を真っ直ぐに見つめた。
「いつか沈む。それは、俺が初めてUボートのハッチをくぐった時から覚悟していることだ。運命をあらかじめ知ってしまえば、俺の艦長としての決断は鈍る。死を恐れて部下を危険に晒すか、あるいは死から逃れるために戦う理由を見失う。……それは、俺たちから『生きる誇り』を奪うことと同じなんだ」
プロフェッショナルとしての、あまりにも気高く、純粋な騎士道精神。
死を避けることよりも、己の使命を全うして散ることを選ぶ男の魂。
ひかりは、その圧倒的な覚悟の前に、歴史の知識という自分の持っているものが、いかに薄っぺらく、そして傲慢なものであったかを思い知らされた。
「……ずるいですよ、カレウン」
ひかりは、しゃくりあげながらプリーンの胸に額を押し付けた。
「そんなにかっこよかったら……諦めきれなくなるじゃないですか……」
「俺たちには、お前のような未来からの幸運の女神がついていてくれた。それだけで、俺たちの航海は歴史に残る素晴らしいものになった。……だから、別れる時は笑顔で送ってくれ。涙はUボートには似合わない」
プリーンの言葉に、ひかりは何度も何度も首を縦に振り、腕で乱暴に涙を拭った。
『帰還シークエンス開始まで、残り六〇秒』
警告音が、別れの時が来たことを冷酷に告げる。
ひかりの足元から、空間が歪み、世界が溶け始めていた。
「カレウン……私、未来の歴史は語りません。あなたの誇りを傷つけない」
ひかりは、残りわずかな時間の中で、精一杯の笑顔を作った。
「でも、これだけは覚えておいて。通信室の、暗号機の木箱の裏……そこに、私が『お花摘み』の時に使わなかった紙切れを貼り付けてあります」
プリーンの眉が、微かに動いた。
「……それは?」
「お守りです」
ひかりはウインクした。
「一番暗くて、どうしようもない絶望があなたたちを覆った時……そして、歴史の暗闇に沈みそうになった時、どうかあの紙切れを開いて、エニグマの鍵を叩いて。……それが、私をもう一度呼ぶ合図になります」
プリーンは、多くは聞かなかった。
彼女が通信室で何かをしていたこと、そしてそれが、自分たちの「最期の時」に関わる重大な仕掛けであることを、彼の研ぎ澄まされた直感は理解していた。
未来の知識で死を回避するのではなく、死の淵に立ったその瞬間に、再び彼女が舞い降りるための道標。
「ありがとう。……我が艦の、最も勇敢な魔女よ。そのお守り、最後まで大事に取っておこう」
プリーンは、最上級の敬意を込め、踵を鳴らして完璧な海軍式の敬礼をした。
「1941年3月……私は必ず、あなたの海へ戻ります!」
ひかりもまた、胸元に輝くプリーンから贈られたUボート戦闘章を強く握りしめ、背筋を伸ばして敬礼を返した。
『三、二、一――スライド開始』
世界が、圧倒的な純白の光に飲み込まれた。
最後にひかりの網膜に焼き付いたのは、光の中に消えゆくプリーンの、誇り高く、そしてどこか悲しげな微笑みと、「Auf Wiedersehen(また会おう)」という微かな唇の動きだった。
* * *
「……っはぁ!!」
肺に、人工的に温度調整された無菌の空気が流れ込む。
西暦2245年。タイムスライディング社の転送チャンバー。
ひかりは、コンクリートの床に激しく叩きつけられ、荒い息を吐きながら身を起こした。
静かだ。
鼓膜を破るようなMANディーゼルの轟音もない。むせ返るような油の臭いも、男たちの荒々しい歓声もない。
ただ、無機質なサーバーの稼働音だけが、虚しく響いている。
「戻って……きちゃった……」
ひかりは、自身の着ているダッフルコートの胸元を見た。
そこには、確かな重量を持った真鍮製のUボート戦闘章が、鈍い光を放っている。夢ではない。彼女は確かにあの時代を生き、彼らと共に戦ったのだ。
ひかりは、フラフラと立ち上がり、ホログラムモニターに向かった。
そこには、第一回ダイブのデータと同時に、歴史の基本アーカイブが表示されている。
『ギュンター・プリーン(Günther Prien, 1908 - 1941)』
『1941年3月7日、北大西洋においてU-47と共に消息を絶つ。撃沈原因不明。生存者ゼロ』
ひかりの瞳に、もう涙はなかった。
あるのは、氷のように冷たく、そして鋼のように強靭な決意だけだった。
「待っていて、カレウン、ハンス、みんな」
彼女は、コンソールパネルに手を置き、次なる跳躍のための複雑なプログラムを一から組み直し始めた。
歴史を変えることが許されないなら、歴史の余白を突く。エニグマに仕掛けたビーコンが発振するその瞬間、U-47という空間そのものを、あの時代から引き剥がし、異空間へと連れ去るための「時空跳躍艦化」の計算。
これは、ただの観測者の遊びではない。
鋼鉄の棺桶に命を懸けた海の騎士たちを、運命という名の呪縛から解き放つための、リヒテンシュタインひかりの孤独な戦争の始まりだった。
「1941年3月。……最強の群狼は、私がこの手で歴史から消し去る(救い出す)」
2245年の冷たい地下室で、決意の咆哮が静かに響いた。
深淵への二度目のダイブまで、残された時間は少ない。




