第5章:雷撃の美学と群狼の咆哮
1939年10月14日、午前0時58分。
イギリス海軍本拠地、スカパ・フロー泊地内。
波一つない漆黒の水面を、巨大な鋼鉄の鮫が滑るように進んでいた。
海峡突破の死闘が嘘のような、不気味なほどの静寂。夜空には依然として緑色のオーロラが冷たい光を放ち、周囲の島々の稜線を黒々と浮かび上がらせている。U-47は潜航せず、浮上したまま泊地の深部へと侵入していた。浅すぎる水深と、複雑な海流を読み切るためには、艦橋から直接肉眼で視認する水上航行戦術しかあり得なかったのだ。
ひかりは、ハッチの下の司令塔から、梯子越しに夜空を見上げていた。
艦橋には、ギュンター・プリーン艦長、エンゲル副長、そして数名の見張員が、微動だにせず双眼鏡を構えている。冷たい夜風が吹き込む司令塔の空気は、極限の緊張感で張り詰め、文字通り刃物のように肺を刺した。
「……右舷艦首、方位ゼロ・四・ゼロ。巨大な艦影あり」
プリーンの声は、凍りついた海よりも冷徹だった。
「双眼鏡確認。……間違いない。旧型戦艦ロイヤル・オーク級。その後方、重巡洋艦レパルス級と思われます」
エンゲル副長の声が微かに震えていた。
無敵を誇る大英帝国海軍の心臓部に単艦で侵入し、その誇りである主力艦を無防備な状態で捕捉したのだ。世界戦史において、これほど血湧き肉躍る瞬間が他にあるだろうか。
「目標、ロイヤル・オーク。これより雷撃戦に移行する」
プリーンの言葉を合図に、U-47の艦内は「静かなる狂騒」へと突入した。
発令所の雷撃データ計算機(TVR)の前に立つ雷撃長(I WO)が、カチカチと乾いた音を立ててダイヤルを回し始める。
ひかりは、司令塔から前部魚雷発射管室へと駆け下りた。歴史が作られる瞬間、その「撃鉄」が落とされる場所を見届けるためだ。
「目標データ入力! 距離三〇〇〇! 敵速ゼロ、停泊中!」
伝声管から雷撃長の緊迫した声が響く。
「第一から第四発射管、注水!」
魚雷甲板長のミュラー兵曹長の怒声が飛び交う。
極狭の発射管室で、汗だくの水兵たちが一斉に動いた。
「第一、第二管、G7e(電気推進魚雷)! 第三、第四管、G7a(蒸気ガス推進魚雷)! 深度設定、七メートル!」
重いバルブが回され、*ゴボゴボゴボッ!* と冷たい海海水が発射管に流れ込む。
電気モーター駆動で航跡を残さないが威力の劣るG7eと、航跡は残るが高速・高威力のG7a。停泊中の巨艦を確実に仕留めるための、冷徹な混合編成だ。
「磁気信管セット! ジャイロアングル、入力同調!」
装填手のハンスが、スパナを握りしめた手を震わせながら確認の復唱をする。直径53.3センチの鋼鉄の葉巻の内部で、精緻なジャイロスコープが高速回転を始めるキィィィンという甲高い音が、ひかりの鼓膜を震わせた。
この巨大な機械式計算の連鎖。海面のうねり、自艦の速度、魚雷の推進力、すべてをアナログの歯車と乗組員の熟練の勘で同調させていく。
(……美しい)
ひかりは思わず息を呑んだ。2245年のAIが瞬時に弾き出すデジタルデータには絶対に宿らない、人間の血と汗が油に溶け込んだ「戦術の芸術」がそこにあった。
「第一から第四管、発射準備完了(ロール・アインス・ビス・フィーア・フェルティッヒ)!」
静寂。
艦内のすべての音が消えたかのように感じられた。MANディーゼルの鼓動すら、今は遠い。聞こえるのは、海流が耐圧殻を撫でる音だけ。
伝声管の奥から、プリーンの、死神の宣告のような声が響いた。
「――撃て!(Los!)」
ドシュウゥゥゥゥッ!!
高圧空気の猛烈な爆発音が艦内を揺るがした。艦首が微かに持ち上がり、数トンの質量が一気に艦外へと吐き出される。
「第一管、発射! 第二管、発射! 第三管……」
四本の鋼鉄の槍が、漆黒の海へと解き放たれた。
ストップウォッチを握りしめる雷撃長。秒針が進むたびに、ひかりの心臓も早鐘を打つ。
一秒、十秒、三十秒。
……ドグゥゥゥン。
遠く、くぐもった爆発音が海底を伝って響いた。しかし、それは一発だけだった。
「……命中一! 艦首付近! だが、誘爆しません!」
ひかりは唇を噛んだ。史実通りだ。磁気信管の不良、あるいは極端な浅瀬による深度計算の狂い。ロイヤル・オークの艦首付近に命中したものの、致命傷には至っていない。
後年明らかになることだが、この時、被雷したロイヤル・オークのイギリス兵たちは「内部で可燃ガスが爆発した」と勘違いし、潜水艦の攻撃だとは夢にも思わなかったのだ。それほどまでに、スカパ・フローが破られるなどという事態は、彼らにとって「あり得ない」ことだった。
「……艦長?」
副長が焦りの声を上げる。奇襲の初撃が不完全に終わった。次弾を装填する間に敵が気づき、駆逐艦が殺到してくれば一貫の終わりだ。通常の艦長なら、ここで逃走を選ぶだろう。
だが、ギュンター・プリーンは常人ではなかった。
「慌てるな。敵はまだ我々に気づいていない」
プリーンの声には、焦りどころか、微かな感情の揺らぎすら見えなかった。
「反転する。艦尾の第五発射管を撃つ。前部発射管は直ちに次弾を装填せよ。……必ず沈める」
その徹底した冷静さと、手順に対する絶対的な信頼。
ひかりは背筋に雷が落ちたような衝撃を受けた。これが「エース」なのだ。予想外のトラブルにも動じず、ただ機械的に、最善の手を打ち続ける。感情を排した戦場における完全なる合理性。
「次弾装填! 急げ! ハンス、滑車を引け!」
前部魚雷発射管室では、水兵たちが己の肉体の限界を超えて動いていた。重さ1.5トンの予備魚雷を、揺れる艦内でチェーンブロックを使って吊り上げ、発射管に押し込む。通常なら20分かかる作業を、彼らは血反吐を吐くような思いで進める。
プリーンは艦を反転させ、後部発射管から一発放つが、これも外れた。
それでも彼は動じない。悠然と海峡内で艦を漂わせ、前部発射管の再装填が終わるのを「待った」のだ。敵の心臓部で。
午前1時16分。
「前部発射管、再装填完了!」
「よろしい。……反転、再び艦首を目標に向ける」
プリーンの采配は、もはや優雅なオーケストラの指揮者のようだった。
「目標、変わらず。距離、二五〇〇。深度、七メートル。……沈め」
二度目の「Los!(撃て)」。
三本の魚雷が放たれた。
今度は、歴史が確かな答えを返した。
カッ……!!
暗黒の海を、太陽が昇ったかのような強烈な閃光が切り裂いた。
数秒遅れて、世界が終わるような轟音が、U-47の分厚い耐圧殻を紙のように震わせた。
ズドゴォォォォォォォォォンッ!!!!!
「命中! 命中! 二発、いや三発! 敵艦の中央部、弾薬庫に引火しました!!」
見張員の絶叫。
ひかりは梯子にしがみつきながら、ハッチの隙間からその光景を目撃した。
排水量三万トンの巨大な城が、腹の底から真っ二つにへし折られ、火山の噴火のような数百メートルの火柱と黒煙を夜空に吹き上げている。
炎に照らし出された海面には、パニックに陥り、火の海へと飛び込む無数のイギリス兵の姿があった。絶対の安全を信じて眠っていた彼らにとって、それは文字通り「地獄からの業火」だった。
「……信じられない。本当に、本当に沈めた……!」
ひかりは、無意識のうちに舌鼓を打っていた。
倫理や反戦思想など、この極限の機能美の前では意味を成さない。計算し尽くされた潜入、完璧な雷撃、そして何より、恐るべき精神力で部下を統率し、巨艦を狩り殺したプリーンの「指揮の芸術」。
彼女は今、戦史という名の神話が、血と汗の通った人間たちの手で組み上げられる瞬間を、一番の特等席で味わっていた。感動で全身の産毛が逆立ち、涙腺から熱いものがこみ上げてくる。
だが、余韻に浸る時間は与えられなかった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!
沿岸の砲台から、遅まきながらけたたましい空襲警報が鳴り響いた。
無数の強烈なサーチライトが、狂ったように漆黒の海面を薙ぎ払い始める。湾内に停泊していたイギリス駆逐艦群が、黒煙を上げて一斉にスクリューを回し始めた。
「敵駆逐艦、接近! 探照灯、来ます!」
「潜航しますか、カレウン!?」
副長が怒鳴る。
「馬鹿者、この浅瀬で潜れば良き標的になるだけだ! 浮上航行のまま海峡を突破する! 両舷、前進全速!」
プリーンは双眼鏡を下ろし、ニヤリと笑った。それは、最高の大物(獲物)を仕留めた狼が、追っ手に向かって見せる不敵な嘲笑だった。
U-47の二基のMANディーゼルが、限界突破の轟音を上げて火を噴いた。
「ディーゼル、回転数最大! 煙幕展開!」
艦尾から濃密な黒煙を吐き出しながら、U-47は海面を滑走する。
サーチライトの光の帯が、何度もU-47の艦橋をかすめる。その度に、機関銃の掃射音が空気を切り裂いた。
しかし、プリーンは自ら海図を睨み、複雑な暗礁と渦潮の間を縫うように、変幻自在のジグザグ航行を命じ続けた。
「面舵一杯! 次の岩礁を抜けたら取り舵! 潮流に乗れ!」
ひかりは、彼が「未来のデータ」に頼っているわけではないことを理解した。海峡侵入の際はひかりの助言を使ったが、この脱出劇は、ギュンター・プリーンという男が持つ、海と船に対する天賦の才そのものだった。
波の飛沫、エンジン音、敵のサーチライトの動き。そのすべてを脳内で統合し、最適解を叩き出し続ける。
追撃してきたイギリス駆逐艦は、自分たちの庭であるはずの海峡の複雑な反転流に足を取られ、次々と暗礁を恐れて減速していく。
「……追撃、振り切りました。敵影、見えません」
見張員が、かすれた声で報告した。
午前3時。
U-47は、無傷のままカーク・サウンドを抜け、外洋の荒波の中へと躍り出た。
イギリス海軍の誇りを粉々に砕き、何百人もの命を奪った鋼鉄の狼は、誰一人欠けることなく、再び深い闇の中へと溶け込んでいったのである。
発令所に、重い沈黙が降りた。
それは恐怖の沈黙ではない。成し遂げたことの大きさに、乗組員自身がまだ追いついていないのだ。
やがて、プリーンがゆっくりとハッチから降りてきた。
彼の軍服は波しぶきで濡れ、顔には疲労の色が濃い。しかし、その瞳には強烈な光が宿っていた。
彼は、直立不動で待つ乗組員たちを見渡し、短く、しかし決定的な一言を放った。
「諸君。……大戦果だ。帰ろう」
その瞬間、艦内は爆発的な歓声に包まれた。
「ウラーーーーッ!!」「カレウン万歳! U-47万歳!!」
油にまみれた水兵たちが、階級の壁を越えて抱き合い、涙を流して喜んでいる。
ひかりもまた、装填手のハンスやミュラー兵曹長とハイタッチを交わし、もみくちゃにされた。汗とディーゼル油の最悪の臭いが、今はどんな香水よりも愛おしく、誇らしく感じられた。
ひかりは、喧騒の輪から少し離れた場所で、静かに葉巻に火をつけるプリーンを見た。
「……最強のエース。その本当の意味が、やっと分かりました」
彼女は誰にも聞こえない声で呟き、彼に向かって、最高級の敬意を込めて右手のひらを胸に当てる、当時の海軍式の敬礼を送った。
この日、U-47とギュンター・プリーンは生ける伝説となった。
しかし、ひかりは知っている。この熱狂と勝利の美酒の先に、あの暗く冷たい「1941年の消失」が口を開けて待っていることを。
歴史の頂点を見たからこそ、彼女の「彼らを救いたい」という狂気的な想いは、後戻りできないほどに強固なものになっていた。




