第4章:スカパ・フロー潜入
「リヒテンシュタインひかり」
「お前は魔女ではない。我々をヴァルハラではなく、勝利へと導く戦乙女だ。お前のデータと、シミュレーターとやらで鍛え上げたその勘に、我が艦の全乗組員の命を救われた」
【しおの】
1939年10月13日、深夜。
北緯58度53分、西経2度54分。オークニー諸島、カーク・サウンド。
海は、黒いインクをぶちまけたように暗く、そして底知れぬ殺意を秘めて波打っていた。
浮上航行中のU-47の艦橋を撫でる潮風は、研ぎ澄まされた氷の刃のようだった。イギリス海軍が誇る難攻不落の絶対的聖域、スカパ・フロー泊地。その喉首にあたるこの極狭の海峡には、侵入者を阻むための巨大な閉塞船が幾隻も沈められ、海面下には鋼鉄の防潜網と太い鉄索が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
発令所の空気は、極限まで張り詰めたピアノ線のようだった。
赤色灯の鈍い光の中、誰も口を開かない。聞こえるのは、電動機の押し殺したような回転音と、海図台に落ちる水滴の音、そして、乗組員たちの異常に早い心音だけだ。
緊張と恐怖が、濃密な気体となって艦内に充満していた。
一歩間違えれば座礁。スクリュー音が少しでも響けば、沿岸の砲台から無数のサーチライトと砲弾の雨が降り注ぎ、逃げ場のない海峡で全滅する。極度のストレスから、水兵の一人が声を出さずに胃液をバケツに吐き出したが、誰もそれを咎める余裕すら持っていなかった。
「……潮流、予想以上に速い。現在5ノット、いや、6ノットに達しています」
航海長のシュパール中尉が、額から滴る汗を拭おうともせず、海図にディバイダーを突き立てて呻いた。
大潮の夜。海峡に流れ込む海水は巨大な川のようになり、無音で進もうとするU-47の艦体を容赦なく押し流そうとする。
「両舷微速。舵中央。……闇に溶けろ」
艦長ギュンター・プリーンの声は、氷の底から響くように静かで、冷徹だった。
彼は潜望鏡のシャフトに寄りかかり、頭上のハッチの向こう、真っ暗な海面を睨みつけている。その姿は、息を殺して獲物の喉笛に狙いを定める、一匹の孤高な狼そのものだった。
ひかりは、発令所の隅、海図台の死角になる場所に立ち、その一部始終を息を呑んで見つめていた。
(ここだ。歴史の分岐点。カーク・サウンドの突破……)
彼女の網膜には、2245年のシミュレーターで何千回、何万回と再生した、この海峡の完全な3D地形データが浮かび上がっていた。閉塞船『テムズ』『ソリアーノ』『ミンスター』の正確な沈没位置。海底の起伏。そして、秒単位で変化する複雑な渦潮のベクトル。
当時のアナログな海図と計算尺だけで、この暗黒の迷路を抜けようというプリーンの操艦技術は、もはや神業に近い。だが、自然の猛威は時として神業すら凌駕する。
ギギギ……ッ!!
突如、艦底から不気味な金属音が鳴り響いた。
「艦首、右に流されます! 未知の反転流に捕捉されました!」
操舵手が悲痛な声を上げる。
「左舵一杯!」
プリーンの即座の指示にもかかわらず、艦の向きは変わらない。巨大な海流の塊が、U-47の腹を容赦なく横から殴りつけ、沈没した閉塞船『テムズ』の錆びた鋼鉄の残骸へと押しやっていく。
ガガガガガガッ!!
耐圧殻が悲鳴を上げた。浅瀬の岩礁か、あるいは閉塞船の鉄索に艦底が接触したのだ。
艦全体が激しく揺れ、ひかりも思わずバルブにしがみついた。
「座礁します! スクリューが岩を噛む!」
機関長(LI)が血相を変えた。このまま流されれば、艦は動けなくなり、夜明けと共にイギリス軍の的になる。抜け出すためにはエンジンを全開にして強行突破するしかないが、それをすれば轟音で確実に発見される。
絶対絶命の「静寂」。
プリーンの顎に、一筋の汗が伝った。航海長のシュパールも、狂ったように計算尺を動かしているが、海図にない反転流の計算など不可能だった。
終わる。最強の群狼が、ただの鉄屑としてこの浅瀬で朽ち果てる。
「――左舷電動機、後進微速。右舷、前進半速」
静寂を引き裂いたのは、透き通るような、それでいて絶対の確信に満ちた少女の声だった。
全員の視線がひかりに突き刺さる。
エンゲル副長が、血走った目でルガーの柄に手をかけた。
「貴様、狂ったか! この状況でスクリューを逆回転させれば、艦体は完全にコントロールを失って横転するぞ!」
「いいえ、回ります。閉塞船のアンカーチェーンを支点にして」
ひかりは副長の殺意を無視し、プリーンの目だけを真っ直ぐに見つめた。
彼女の脳内では、シミュレーターで叩き込まれた流体力学の演算結果が、完璧な未来予測図を描き出していた。
「シュパール航海長が計算できないのは当然です。この反転流は、海底の岩礁ではなく、沈没船『ミンスター』の崩落したマストが引き起こしている人工的な渦だから。今の水深と艦の傾斜なら、左舷のスクリューはギリギリ岩を擦らない。……右舷の推進力で海流に逆らい、左舷の逆回転で艦首を強制的に左へ振る。コマのように回るんです。チェーンに擦り付けながら」
それは、当時の潜水艦乗りにとって常軌を逸した、自殺行為とも言える機動だった。
薄い耐圧殻を、敵の沈没船の鉄索にわざと擦り付ける。少しでも力が強すぎれば外殻が裂け、浸水する。
「カレウン、彼女の言うことなど……!」
「黙れ、エンゲル」
プリーンは、ひかりの瞳の奥にある「狂気的なまでの確信」を読み取っていた。それは、幾千もの戦場をシミュレートしてきた者にしか宿らない、究極のデータ主義者の目。
「信じるぞ。未来の観測者」
プリーンは口角をわずかに上げ、伝声管に向かって咆哮した。
「左舷後進微速! 右舷前進半速! 舵、左一杯!」
命令が下された瞬間、機関室のクルーたちが一斉にバルブを回す。
ゴゴゴゴゴ……!!
二つのスクリューが相反する回転を始め、U-47の巨体が捩れるように軋んだ。
ギイィィィィィィィィィィッ!!!
黒板を爪で掻きむしるような、おぞましい金属の摩擦音が艦内に響き渡る。
ひかりの計算通り、U-47の左舷外殻が、閉塞船の巨大なアンカーチェーンに激突し、それを支点として艦首が強引に左へとねじ曲げられていく。
火花が散っているであろう艦外の光景を想像し、乗組員たちは両手で耳を塞ぎ、顔を歪めた。外殻が引き裂かれるか、スクリューが砕けるか。数秒が、永遠のように感じられる。
「……艦首、海流のベクトルを抜けました!」
操舵手の絶叫。
「両舷、前進微速! 舵中央!」
フワッ……と、まるで艦が空中に浮き上がったかのような感覚が乗組員たちを包んだ。
凄まじい反転流の圧力が消え、スクリューが再び静かな海水を掴む。摩擦音は途絶え、U-47は閉塞船のわずか15メートルの隙間を、まるで針の穴に糸を通すかのように滑り抜けたのである。
「……抜け、ました……」
シュパール航海長が、海図台に両手をついてへたり込んだ。
静寂が戻った。いや、先ほどまでの「死の静寂」ではない。
それは、絶対的な不可能を打ち破った後に訪れる、奇跡の無音だった。
プリーンは潜望鏡のハンドルから手を離し、ゆっくりとひかりの方へ向き直った。
その青灰色の瞳には、先ほどまでの疑念や警戒は微塵もない。そこにあるのは、同じ地獄の淵を覗き込み、共に生還した戦友に対する純粋な敬意だった。
「リヒテンシュタインひかり」
プリーンの低い声が発令所に響く。
「お前は魔女ではない。我々をヴァルハラではなく、勝利へと導く戦乙女だ。お前のデータと、シミュレーターとやらで鍛え上げたその勘に、我が艦の全乗組員の命を救われた」
発令所にいたすべての男たちの視線が変わった。
油にまみれ、カビたパンをかじり、ただの「風変わりな客人」として扱っていた東洋の少女。しかし彼女は今、最強の撃沈王にすら見えなかった闇の潮流を見切り、彼らの命を繋いだのだ。
エンゲル副長でさえ、無言で彼女に向かって軽く顎を引き、敬意を示した。
ひかりは、胸の奥から湧き上がる強烈な感情に、体が震えるのを止められなかった。
シミュレーターのスコアでもない。オタクとしての知識のひけらかしでもない。
歴史の最前線で、本物の男たちの命を預かり、共に呼吸をした。彼女は今、真の意味でU-47の「クルー」になったのだ。
「カレウン……」
ひかりは、か細い、しかし確かな声で言った。
「歴史の舞台は、整いました。前方に開けているのは、もう海峡ではありません」
プリーンは静かに頷き、再び潜望鏡のグリップを握りしめた。
アイピースを覗き込んだ彼の視界の先。
夜空には、不気味なほど鮮やかな緑色のオーロラが、まるで彼らの侵入を歓迎するように天頂で揺らめいていた。
そして、そのオーロラに照らされた広大な海盆――スカパ・フロー泊地の奥深く。
穏やかな海面に、巨大な漆黒のシルエットが二つ、無防備に停泊しているのがはっきりと見えた。
「目標捕捉。イギリス海軍戦艦、ロイヤル・オーク級。……狩りの時間だ」
極限まで音を殺した鋼鉄の狼が、ついに羊の群れのど真ん中へと躍り出た。
歴史に永遠に刻まれる「スカパ・フローの奇襲」の火蓋が、いま静かに切って落とされようとしていた。




