第3章:鉄の規律と「温かい寝床(ワルム・コーエ)」
キール軍港を出航して五日目。
U-47は北海を抜け、イギリス軍の哨戒網を警戒しながらオークニー諸島へと向かう荒波の中にいた。
「うげぇっ……またカビが生えてる」
「文句を言うな、ハンス。白いカビは食える。青や黒になったら削り落とせばいい。どうしても嫌なら、機関室の排気管で少し炙ってこい」
狭い前部兵員室に、若い水兵のぼやきと、古参の下士官の野太い声が響く。
リヒテンシュタインひかりは、彼らの足元――床下のビルジピットのすぐ上にある予備魚雷の横に敷かれた毛布の上で、目を輝かせながらその光景をメモ帳(耐水性の未来のペーパーデバイス)に書き留めていた。
潜水艦の内部は、控えめに言って「地獄」だった。
水上航行中はディーゼルエンジンの強烈な振動と排気ガスが充満し、ひとたび潜航すれば、今度は艦内の湿度が100パーセントに達する。冷たい海中を進む鋼鉄の船体は、内部の温かい空気と反応して結露を生み出し、天井や壁の至る所から水滴がボタボタと落ちてくる。
計器盤も、海図も、そして着ている服も、常にじっとりと濡れている。洗濯など当然できず、艦内には海水の塩気と、男たちの汗、そしてディーゼル油が混ざり合った「Uボート悪臭(U-Boot-Gestank)」が極限まで濃縮されていた。
「ひかり、お前の番だ。寝ておけ」
魚雷甲板長のミュラー兵曹長が、油まみれの手でひかりの肩を叩いた。
彼は、前部魚雷発射管室の隙間に吊り下げられた折り畳み式のパイプベッド(バンクス)を指差した。そこから這い出してきたばかりの機関兵は、汗だくで疲労困憊の顔をしている。
これが、潜水艦特有の「温かい寝床」――ホット・バンキングだ。
U-47の乗組員は士官を含めて44名だが、ベッドの数はその半分以下しかない。そのため、三直制(交代勤務)を利用し、一つのベッドを複数人で使い回すのだ。
「いただきます!」
ひかりは躊躇するどころか、嬉々としてそのベッドに潜り込んだ。
シーツは前の使用者の体温で生温かく、汗と油の強烈な体臭が染み付いており、おまけに湿気でぐっしょりと濡れている。普通の現代の女子大生なら発狂して泣き叫ぶレベルの不衛生さだ。
しかし、ひかりはベッドのキャンバス地に頬を擦り付け、深く息を吸い込んだ。
(これ……! 本物の『温かい寝床』! 歴史書で読んだ通りの、最悪の感触と匂い! ああ、今私、Uボートの一部になってる……!)
彼女の反応に、交代したばかりの機関兵が気味悪そうに顔を引きつらせた。
「……おいミュラー兵曹長。この魔女、頭のネジが数本飛んでるんじゃないか? 俺の汗臭いベッドに入ってニヤニヤしてるぞ」
「放っておけ。カレウン(艦長)の客人だ。それに、泣き喚かれるよりはマシだろう」
ひかりはベッドの中で、頭上スレスレにある鋼鉄の天井(耐圧殻)を撫でた。すぐ外は暗く冷たい海だ。鉄の軋む音が、まるで巨大な鯨の腹の中にいるような錯覚を覚えさせる。
食事もまた、極限の体験だった。
出航直後のU-47の艦内は、足の踏み場もないほど食料で埋め尽くされていた。通路の天井からはソーセージやサラミ、燻製肉が所狭しと吊り下げられ、頭をぶつけずに歩くことは不可能。二つある水洗トイレ(ポンプ式)のうち一つは、じゃがいもと黒パンの貯蔵庫として完全に塞がれている。
「調理長、今日のメニューは?」
ひかりは、コンロが二つしかない極小の厨房に顔を出した。
コック服ではなく、汗だくのシャツ一丁の調理長が、巨大な鍋をかき混ぜている。
「魔女のお嬢ちゃんか。今日は『ブラートカルトフェルン(ジャーマンポテト)』と、缶詰の牛肉の煮込みだ。……ほれ、パン(コムスブロート)だ。よく噛んで食えよ」
渡された黒パンの表面には、見事な白いカビが粉雪のように積もっていた。湿気と換気の悪さで、パンは出航数日でダメになるのだ。
ひかりは持参したダッフルバッグから未来の超高カロリーレーションを取り出すこともできたが、彼女は迷わずそのカビたパンにかぶりついた。
酸味と、カビの土臭さ、そして微かなディーゼル油の風味。
「……んんっ! 不味い! 最高!」
「……お前、本当にイギリスの二重スパイじゃないのか? 味覚を破壊する訓練でも受けてきたのかよ」
調理長が呆れたように笑う。
ひかりのこの「異常な適応力」と「底抜けの好奇心」は、極限のストレス下にある乗組員たちにとって、次第に奇妙な清涼剤になりつつあった。
昼食後、ひかりは前部魚雷発射管室に戻った。
発射管の間の狭いスペースで、非番の水兵たちがトランプゲーム(スカート)に興じている。
「あ、ハンス。また負けてるの?」
ひかりが声をかけると、先ほどパンのカビに文句を言っていた十九歳の装填手、ハンスが顔を真っ赤にした。
「う、うるさい! ミュラー兵曹長のイカサマだ! それに、俺は装填の腕は誰にも負けないからな!」
「知ってる。G7e魚雷の再装填タイム、ハンスの班は規定の二十分を十五分に縮めたんでしょ? グリスの塗り方が絶妙だって、機関長(LI)が褒めてたよ」
ひかりがマニアックな数値をスラスラと暗唱すると、ハンスの目が点になった。
「な、なんでお前、そんなことまで知って……」
「秘密。ねえ、ハンス。ミュンヘンに置いてきたっていう恋人の写真、見せてよ。マリアちゃんって言ったっけ?」
ハンスは照れくさそうに、油まみれの胸ポケットから一枚のモノクロ写真を取り出した。少し皺くちゃになった、笑顔の少女の写真だ。
「……可愛いだろ。俺、この航海が終わって一級鉄十字章(EK1)をもらったら、彼女にプロポーズするんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ひかりの胸の奥で、冷たい氷の塊が落ちたような感覚がした。
(死亡フラグのお手本のようなセリフ……)
オタクとしての軽口を叩きそうになり、ひかりは言葉を飲み込んだ。
彼らは、歴史書の1ページに記された単なる「数字」ではない。息をして、恋をして、カビたパンに文句を言いながら、不衛生なベッドで故郷の夢を見る、生身の青年たちなのだ。
そしてひかりは「知っている」。
この数日後に行われるスカパ・フローの奇襲作戦では全員生き残るが、その約一年半後――1941年3月、この艦に乗っている者の多くが、誰一人として生きて陸地を踏むことなく、冷たい北大西洋の底で圧壊する運命にあることを。
「……うん、すごく可愛い。絶対に生きて帰って、プロポーズしなきゃね」
ひかりは、ハンスの油まみれの手を両手でギュッと握りしめた。
「え? あ、おい、急にどうしたんだよ……」
「よし、おしゃべりはそこまでだ」
ハッチをくぐって現れたのは、エンゲル副長(I WO)だった。彼は依然としてひかりに疑惑の目を向けているが、艦長の命令ゆえに手出しはしてこない。
「ハンス、第1発射管の注水弁の圧力をチェックしろ。ミュラー兵曹長、磁気信管の最終調整だ」
一瞬にして、トランプ遊びをしていた青年たちの顔が、冷酷な「ハンター」のそれに変わった。
遊びの時間は終わりだ。ここは前線であり、彼らは世界最強の殺戮機械の部品なのだ。
ひかりは隅に退き、彼らの無駄のない動きをじっと見つめた。
狭い空間を立体的に使いこなし、阿吽の呼吸で重さ1.5トンの魚雷を扱う職人技。汗水垂らし、油にまみれながら鉄の塊を磨き上げる姿には、ある種の神聖さすら漂っていた。
「……戦争は、数字じゃない。彼らが動かしてるんだ」
ひかりはノートにペンを走らせるのをやめ、静かに呟いた。
「どうした、魔女。急に大人しくなったな」
いつの間にか背後に立っていたプリーン艦長が、腕を組んでひかりを見下ろしていた。相変わらず、規律違反の白いスカーフが暗い艦内で奇妙に目立っている。
「カレウン……」
「お前のその『未来の知識』とやらには、彼ら一人一人の名前が載っているのか?」
プリーンの鋭い問いかけに、ひかりは息を呑んだ。
「……エース艦長や、一部の士官の名前は残ります。でも、一般の水兵の名前は……ほとんどが『乗組員〇名、戦死』という数字としてしか残りません」
「そうだろうな。歴史とはそういうものだ」
プリーンは冷笑した。しかし、その瞳にはどこか深い哀愁が漂っていた。
「彼らは私の手足だ。私が『沈め』と命じれば沈み、『死ね』と命じれば死ぬ。だからこそ、私は彼らを絶対に無駄死にさせない。必ず戦果を挙げ、必ずキールへ連れ帰る。それが、カレウンたる私の義務だ」
プリーンは身を翻し、発令所へと戻っていった。その後ろ姿は、鋼鉄の棺桶を統べる絶対的な王の孤独を纏っていた。
ひかりは、大きく深呼吸をした。
肺を満たすのは、やはり最悪の悪臭だ。しかし、出航した日よりも、その匂いが少しだけ愛おしく感じられた。
彼らの生きた証。鉄と血と油の匂い。
(記録するだけじゃない。私は……彼らの戦いを、この目に焼き付ける)
数日後。
U-47のディーゼルエンジンが、ふっと静まり返った。
代わりに、電動機のキィィィィン……という耳障りな高周波音が艦内を包み込む。
潜航開始。
海図上の現在位置は、スコットランド北岸、オークニー諸島近海。
難攻不落のイギリス本国艦隊泊地、スカパ・フローの入り口、カーク・サウンドの喉元に、一匹の狼が音もなく忍び寄っていた。
歴史の歯車が、ひかりの目の前で、けたたましい音を立てて回り始めたのである。




